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彼女に軽食を振る舞うことが増えた。
それは小さなプリンだったり、2枚のクッキーだったり、はたまた宝石のようなフルーツゼリーだったりしていた。
「昼食」とするにはあまりにも足りなさすぎる分量でしかなかったけれど、彼女は決してそれ以上を口に入れようとしなかった。
クッキーを10枚焼いてお皿に並べて出しても、彼女が手を付けるのは決まって2枚なのであった。
それを悲しいことだとは思わなかった。量の如何に文句など付ける気になれなかった。
だって彼女が食べているのだ。だって彼女が美味しいと言ってくれているのだ。他に何を望むことがあったというのだろう?

あたしはそんな、まるで花が日差しを浴びるようなささやかな食事しか摂らない彼女の前で、しっかりと一人分のパスタを食べる。
その上で彼女が残した8枚のクッキーをぺろりと平らげてしまうのだから、やはりあたしというのは悉く卑しい造りをしていたのだろう。
食べ過ぎかしらと思いながら、けれどあたしは彼女の倍、これから動き回るのだから問題ないわと言い聞かせた。
あたしはもう、花を食べて生きることの叶わない卑しいあたしを、彼女の前で隠さなくなっていた。

あたしが物心ついたときからずっと一日一食であった筈の彼女は、けれど一日二食の生活に自らを切り替え始めていた。
クッキーを2枚食べること、フルールゼリーをスプーンで掬い上げること、プリンを少しずつ口に運ぶこと……。そうした、まるで此岸と彼岸の境でダンスを踊るような食事だった。
こんな食事で足りる筈がないということをあたしは知っていたけれど、もっと食べればいいのに、と口にしたことは一度もなかった。
そんなこと言いたくなかったのだ。言えなかったのだ。あたしは、食事の席に彼女がいるという奇跡のようなこの時間を手放したくなかった。
ちょっとでも掛ける言葉を間違えれば、彼女はにわかに席を立ち、ピアノの小部屋に閉じこもって、二度と出てきてくれないかもしれない。
そうしたことを恐れて、慎重に言葉を選んでしまう程には、あたしは彼女との食事が好きだった。彼女があたしの作ったものを食べてくれることが、どうしようもなく嬉しかった。

1か月が経ち、2か月が経っても、この不思議な時間は絶えなかった。彼女は昼食の時間になると必ず、ピアノのある小部屋から出てきていた。
あたしは朝から夕方までカフェで仕事をしていたけれど、お昼休みは当然のように貰える。
アパルトマンの3階にある自宅からカフェまで、走れば5分と掛からない距離にあったので、あたしは毎日のように家で食事を摂っていた。
一度、試しにコンビニで購入したそこそこお高いプリンを家に置いていったことがあったのだけれど、彼女は全く手を付けていなかった。
あたしが作ったものでなければ、彼女は食べないのだ。彼女のそうしたひどい偏食を、あたしは仕方ないなあ、と笑って許した。
ああ、父ももしかしたらこんな気持ちだったのかしら。そんなことさえ思いながら、今日もあたしは父に教わったレシピでプリンを作り、彼女と共に食べるのだった。

昼食の席であたしがする話は、取るに足らない些末なことばかりであった。
近くの水溜まりに足を突っ込んでお気に入りのブーツを汚してしまった話、ふらりと帰りに立ち寄ったケーキ屋で美味しいモンブランに巡り合えた話、
研究所で新しいポケモンを見つけた話、教え子である12歳の女の子がポケモントレーナーとして旅立った話……。
そうした日常の世間話を、けれど彼女はいつだって、目を丸くして楽しそうに聞いてくれた。
彼女にとっては「水溜まり」も「ケーキ屋」も「研究所」も「旅」も異世界のものであったから、その全てに驚かずにはいられなかったのだろう。

「今日は雨が降っていないのに、まだ水溜まりがあるのね。その水はどれくらい経てばなくなってしまうものなの?」
「わたしも2回だけ、モンブランを食べたことがあるのよ。でもズミさんはモンブランがあまり得意じゃないみたいで、なかなか、食べることができないのだけれど」
「たった12歳で旅というものに出るのね。旅というのは何処まで行くものなの?いつ戻って来られるの?それとも、戻ってはいけないものなの?」

無垢と無知を極めた彼女の言葉はあたしを驚かせたけれど、もうあたしはその閉じた世界を恐れたりしなかった。あたしと彼女は互いの言葉に驚き合っていたのだった。
行ってみたい?と、あたしはそうした話の終わりに決まってそう尋ねたけれど、彼女は水溜まりにもケーキ屋にも研究所にも旅にも、困ったように笑いながら首を振るのみであった。
彼女がそうして拒むから、あたしもそれ以上、強引に誘いを持ちかけたりはしなかった。

カフェで子供達に授業をする傍ら、あたしは研究所にいるお姉ちゃんからの依頼で、ミアレシティ周辺の土地にいるポケモンの生態を調べたりもしていた。
テールナーを連れて4番道路に向かい、レディバやミツハニーといった小さなポケモンの食事の光景をじっと観察した。

何度もそうしたフィールドワークに出掛けているうちに、あたしには顔見知りが出来た。カラーという、白い花に宿ったフラベベだった。
あたしがその花の名前を言い当てたことに、そのフラベベはとても喜んでくれた。
カラーは少し変わった形をしていて、そこまでメジャーな花でもなかったから、もしかしたらこのフラベベは仲間の中で「悪目立ち」していたのかもしれない。
あたしはその花、好きよ。そう告げてしまったがために、あたしはこの子に随分と慕われるようになってしまったのだった。
試しにモンスターボールをそっと差し出せば、フラベベは全く躊躇う様子を見せず、嬉しそうに一鳴きしてボールの中にすっと飛び込んでしまった。

あたしのところにやって来た二匹目のポケモンは、けれどもあたしよりも彼女の方にひどく懐いた。
フォッコの頭を撫でていたときは恐ろしさにぽろぽろと涙さえ零していたこの女性は、けれどフラベベのことは恐れなかった。
おそらく、互いに何か似たようなものを感じたのだろう。フラベベも彼女も花が大好きだから。花と酸素を分け合って生きているようなところがあったから。
その死の生々しささえも愛してしまえる、ひどく残酷な造りの生き物であったものだから。

彼女とフラベベとの間に言語的な交流はなかった。フラベベも彼女も静かに黙していた。
ただ、フラベベは家の中に散在している一輪挿しを、くるくると見回りすることを日課としており、彼女はその小さな背中を付いて歩き、一輪挿しの花を眺めて回っていた。
間に一輪挿しを、花を挟むことで、ようやくコミュニケーションを取ることが叶っているようであった。
彼女への同意、彼女への寄り添い、そうしたものを、言葉ではなく花を介して、このフラベベはあたしよりもずっと上手にやってくれていた。
そういう訳で、彼女は前よりずっと毎日を楽しそうに過ごしていた。彼女の狭い世界が穏やかで楽しいものになっていることに、あたしは驚き、そしてとても喜んだ。

……もっとも、あたしが喜んでいたのは、フラベベが彼女を楽しませているから、というだけでは決してなかった。実はフラベベが家に来てから、家の中の死臭が弱くなったのだ。
一輪挿しの花が溶けるより先に、フラベベがその花を引き抜いて片付けてくれるようになったし、それ以前の問題として、フラベベが家に来てから花の寿命が随分と延びていたからだ。
10日もすればクタクタに萎れてしまう筈の薔薇も、何故だか3週目になっても鮮やかでみずみずしい形と色を保っているのだった。

きっとこのポケモンには、花を元気にする力があるのだ。花を正しく死なせてあげられる力があるのだ。
あたしの家の花がなかなか枯れないのは、死臭がしないのは、きっとそういうことなのだろうと、何の根拠もなしにあたしはそう信じていた。
花の死臭を好んでいた彼女は、けれどその死臭を奪い取ったフラベベのことを大好きになってくれていた。この小さなポケモンを、この上なく可愛がっていたのだった。

綺麗なピアノの音色を奏でる彼女。あたしに楽譜の読み方を少しずつ教えてくれるようになった彼女。
プリンやクッキーをほんのちょっとだけ口にする彼女。お昼の時間になると必ずリビングに出てきてくれるようになった彼女。
昼食の席であたしの他愛ない世間話を聞いてくれるようになった彼女。世間、というものに興味を示してくれるようになった彼女。
死臭のしなくなった花を愛でられるようになった彼女。フラベベのことを大好きになってくれた彼女。

それはまるで、彼女が少しずつ人間になっていく過程であるかのように思えて、あたしはどうしようもなく嬉しかった。
きっと全てのことがいい方向に動き始めているのだと、あたしは彼女の変化にそうした特別な意味を見ていた。
彼女を「お母さん」と呼べるかもしれない、という、少なくともあたしにとってはかけがえのない、意味だ。

あたしは来月のお給料で、とびきり上品な日傘を買おうと思った。
ミアレシティにあるブティックのうち、一番高級なところに堂々と足を踏み入れて、一番立派な日傘をさっと取り上げて、これを下さい、と凛々しい声音で高らかに宣言するのだ。
彼女には白が似合う。角砂糖のように白い肌をしているから、赤やオレンジといった賑やかな色は彼女を圧し潰してしまうだろう。
灰色か、もしくは白い傘があればいいなと思った。フリルがあればもっといいなと思った。
少女のまま大きくなってしまった彼女には、きっとそれくらい幼いデザインの方が似合う。

彼女に日傘を贈りたかった。彼女の誕生日はまだ先だったけれど、構うまい、と思っていた。
日傘なんて贈ったところで、外に出ない彼女はきっと使わないだろう。けれどあたしは傲慢なことに、彼女に愛されているという自覚があった。
あたしが日傘をプレゼントすれば、今の、少しずつ人間の様相を呈し始めている彼女はもしかしたら、外に出たいと思ってくれるのではないかと、
そうした思い上がりを抱けてしまえる程に、彼女はこれまでずっとあたしを大切にしてくれた。
だから、もしかしたらと期待してしまったのだ。
もしかしたら彼女と一緒に外へ出かけられるのではないかと、その日傘を差して、彼女はミアレのアスファルトを歩いてくれるのではないかと、そうした、期待を、抱いてしまった。

「ねえ、あの時の約束を覚えている?」

だから、その数万円もする日傘を受け取った彼女が、長い、長い沈黙の後でそう紡いだとして、その言葉にあたしが絶望したとして、そんなものは彼女のせいでは全くなかったのだ。
あたしが、あたし自身の大きすぎる期待に裏切られてしまっただけのことだ。彼女を責める道理など何処にもありはしない。あたしが悪い。あたしが、悪い。

「わたしを、苦しくないようにしてくれる?」

あたしはやっと、やっと彼女のことを「お母さん」と呼べそうなところだった。
彼女と一緒にご飯を食べることができるようになって、彼女とする他愛もない話が楽しくて、彼女の奏でるピアノの音色を、ただ綺麗だと思えるようになって。
……ああ、でも、それなのに、彼女はその全てを捨てるというのだ。あたしにとっての幸せなど、平穏など、彼女が焦がれ続けた死の前にはどうしようもなく無力であったのだ。

『ねえ、もし生きていたくなくなったら、そのときはあたしに言ってほしい。あたしがあなたを死なせてあげるから。あなたが生きなくてもいいようにしてあげるから。』
『とても嬉しいわ。それじゃあ、約束ね。』

でも、それでも、いつ死んだっておかしくなかった彼女が、今の今までずっと生き続けてくれたのだから、最後にとても生き生きとした時間を過ごしてくれたのだから、
あたしはそれがとても、とても嬉しかったのだから、あたしはきっともう十分に幸せだったのだから、他にはきっと何も要らなかったのだから、だから、

あたしは彼女との「約束」を果たそうと思った。

「そういう訳で、あたし、あの二人を殺そうと思うの」


2017.4.20
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