51

レストランに入るなり、ロビーの壁に飾られた賞状が目に付いた。
ポケモントレーナーの頂点がポケモンリーグチャンピオンであるように、シェフの頂点を決める大会のようなものがカロスには存在していらしい。
彼がその頂点、あるいは2位に立ったことを示す賞状が、ざっと5枚、並んでいた。
一番新しい賞状には去年の年号が刻まれていた。どうやらカロスの食材を使ったコース料理の大会で、彼は優勝を収めたらしい。
……勿論、あたしはそんなこと、これっぽっちも知らなかった。

彼はあたしに、自分の料理の腕がどれ程素晴らしいものであるのかを、得意気に話したことは一度もなかった。
彼が格別に謙虚であったという訳ではなく、あたしと彼との間には、圧倒的に言葉が足りなかったのだ。
もっともそれは彼に限ったことではなく、彼女だって、自身が大量に曲を作って、楽譜の本を何冊も世に出していることを、あたしに話してくれたことはなかった。
彼女とは、少なくとも彼とよりは多く言葉を交わしてきた筈だったけれど、それらはどう足掻いても「親子」のそれではなくて、もっと別の生々しい何かであったように思う。

彼には教養がない。彼女には常識がない。それでも二人はこんなにも輝いている。
あたしは二人のことが誇らしい。生き辛さを抱えながらも、自らの生きたい場所で自らの生き方を貫いた二人のことが、どうしようもなく、眩しい。
その結果、家が散らかろうと洗濯物が溜まろうと花がドロドロに溶けようと、構わない。あたしはもう目を逸らさない。あたしはもう、二人の輝きを否定しない。

あたしという、たった一人のお客のために、彼は小さな個室を用意してくれていた。あたしが席に着いてからしばらくすると扉が開き、前菜、と呼ばれる料理が運ばれてきた。
その、サイコロ型のビーンズローフには覚えがあった。確かあたしが10歳の時、此処で初めて食べたのがこれであったように思う。
盛り付け方も、カラフルな色合いも、記憶にあるものと寸分、変わりなかった。

あれから5年。あたしの中では何もかもが目まぐるしく変わっていった。
けれど彼の中ではやはり何も変わっていなかったのだと、彼は時を止めた世界で生きているのだと、あたしはそうしたことを噛み締めるように、そのビーンズローフを口に運んだ。

「お味は如何です?」

水を継ぎ足しに来てくれたのも、料理を運んでくれたのも、彼だった。
それがとてもおかしなことだと、異常なことだと分かっていたから、あたしはクスクスと笑いながら、あなたがこんなことをしていていいの?と尋ねた。
けれども彼は涼しい顔で、ええ、今日だけはいいんですよと至極楽しそうに笑うのだった。

料理人のトップに立つ彼は、本来なら給仕などしないのだろう。いつもはずっと厨房に立っているような、お得意様にだけ挨拶に伺うような、そうした立場の人間なのだろう。
きっとわざわざ、あたしのために時間を割いたのだ。あたしに料理を振る舞うために、あたしが彼の料理を食べているところを見るために、彼は厨房から出てきているのだ。
彼にとってあたしは、そうするだけの価値のある人間なのだと、そうしたことにあたしはこれまで全く気が付かなかった。
そんな風に、まるで彼の「娘」であるように思い上がるには、彼とあたしの間にはあまりにも言葉が足りなかった。時間も足りなかった。

「あたし、これまで乾麺を茹でて作ったパスタや、スーパーで買ったスナック菓子で生きてきたの。だからこういう上品な料理って少し、肩が凝ってしまう。
あたしのような人間が食べてもいいのかしらって、少し、不安になってしまうわ」

一般的な金銭感覚を持つ人間にとって、この高級レストランは所謂「特別」を演出するための場所であるのだろう。
けれども彼はこの「特別な世界」の外をあまりにも知らない。特別な場所で暮らし過ぎた彼は、特別でない場所のことを知らない。
だからその外にいるあたしがどんな味のものを食べて生きているのか、おそらく彼はよく分かっていない。
スーパーで買う食べ物の味。あたしにとっては「ほっとする」味であり、彼にとっては「低俗な」味。それに慣れてしまったあたしには、この美しく複雑な味はどうにも上品すぎる。
そしてこの「特別」があたしの前に惜しげなく差し出されていることに、申し訳なささえ覚えてしまう。

ニンジンのポタージュをスプーンでそっと掬い上げ、口に運ぶ。甘く優しい味だ。粉にお湯をかけて作るコーンスープとは、やはり何かが決定的に違っているのだった。
お口に合いませんか?と彼が少し不安そうな顔で尋ねてきたので、あたしはその彼らしくない表情に驚き、けれどもすぐに笑って首を振った。

「そんなことないわ。とっても美味しい。あたしもこういう料理を作れるようになったら楽しいだろうなあ」

勿論、その言葉に嘘はない。彼の料理はとても美味しい。彼女がこの人の料理しか食べられない体質であるのも、分かる気がする。
こんなものばかり食べられる人間であれば素敵だろうな、とも思う。けれど同時にそんな存在にはなりたくないとも思う。
あたしは道端のパン屋さんで購入する焼きたてのメロンパンも、スーパーにずらりと並んだ即席パスタも、好きだ。
あの全てを手放してまで此処にいたくはない。でもこの特別な世界から、彼の世界から弾かれ続けるのは少し悲しい。
だから今だけは彼の世界に寄り添っていたい。あたしも彼の作る世界の一部なのだと勘違いさせてほしい。

けれども彼は驚くべき言葉で、あたしを彼の世界へと招こうとしてくれた。

「教えますよ」

「……あなたが、あたしに?」

「ええ、世間の良識や教養に欠いた私が貴方に教えられることなど、料理くらいしかありませんから」

彼が、あたしに料理を教える。それはどういうことだろう、とあたしは一人、考えた。
それは、あたしが彼の料理のようにとまではいかずとも、とても美味しいものを作れるようになることを意味していたのかもしれない。
それは、あたしが先程のラディッシュに刻まれた美しい模様のような、飾り切り、という技術を自分のものにできることを意味していたのかもしれない。
それは、あたしが新しいレパートリーを沢山覚えて、お姉ちゃんをびっくりさせるくらい美味しいものを振る舞えるようになることを意味していたのかもしれない。
それは、あの家のキッチンで、彼の隣に立つということを意味していたのかもしれない。
それは、あの家で、あたしと彼がひっきりなしに言葉を交わすのだということを意味していたのかもしれない。

そのどれをとっても、ひどくおかしなことであるように思われた。
そんなことを言い出した彼がただただ滑稽で、そんなことに喜んでいるあたしもただただ愚かで、そのおかしさを吹き飛ばしたくて、あたしは声を上げてコロコロと笑った。
そんなにおかしなことを言ったつもりはなかったのに、という風な、釈然としない表情を浮かべてみせた彼に、あたしはやはり笑いながら口を開く。

「だって変だわ。あたしがあなたと一緒にキッチンに立つなんて、まるで、」

「まるで父と娘のよう、ですか?」

続く筈だった言葉は、微笑む彼が奪い取っていった。

彼は、家族に対して敬語を使うものではないのだということを分かっていない。彼は自身が、娘に「お父さん」と呼ばれるべき存在であることを理解していない。
……あたしは、ずっと「そう」なのだと思っていた。彼はそうした常識にさえ欠く、どうしようもない人間なのだと思っていた。
だってそう思わなければ、あたしが、彼に拒まれているということになってしまうのだから。
その不自然な敬語だって、あたしが彼を父と呼べないのだって、全部、全部、彼があたしを嫌っているからだということになってしまうからだ。
拒絶という残酷性より、無知という残酷性の方がまだ、マシだったからだ。

けれども彼は、少なくとも父という人間がどのようであるべきなのかを知っているらしい。一般的な家族というものがどのような形をしているのか、解っているらしい。
ということは、もしかしたら、今まであたしは彼に拒まれていたのかしら。だからずっと彼は「彼」で在り続けてきたのかしら。
時を止めた世界で、閉じた美しい場所で、あたしから遠く離れた場所で、ずっと。

……けれど、そうではなかった。
あたしと彼との間にピンと張り続けていた残酷な糸には、拒絶でも無知でもない、もっと滑稽でやさしい名前が付いていたのだと、あたしは次の彼の言葉で知ることとなった。

「貴方のことが怖かった。貴方の前では、料理のできる私など何の意味も為さないから。私の中には、貴方に教えられることが何もないように思われたから」

「……」

「このような男を父に持ったことで、貴方には余計な苦労を沢山、かけましたね。
私は……父というものになるのは初めてのことだったので、どうすればいいのか、まるで分からなかった。貴方を導くことは、彼女を支えることよりずっと難しかった」

この人はあたしを恐れていた。あたしが娘だから、恐れていた。
あたしの前に立つと、彼は一流のシェフではなくただの「父親」になってしまうから。あたしの前では、彼が今まで培ってきた料理の腕が全く役に立たないから。
最強かつ唯一の武器を振るえない彼は、どうすればいいか解らず、ただ臆病になるしかなかったのだ。彼は、この人は、あたしの父は、臆病だったのだ!

「あなたはとてもおかしな人ね、あたしの父であることを怖がるなんて。
……あたしだって、娘になるのは初めてのことだったけれど、あなたの娘であることを恐れたことなんかなかったわ」

だからあたしは、大丈夫よと微笑んで、怖くないわと手を伸べて、彼の頬を人差し指と中指の先でぺち、と軽く叩いて、クスクスと肩を震わせながら、糸を切った。
ああ、なんて残酷な人だったのだろう。彼は時のないこの美しい世界に、望んで留まり続けていた訳ではなかったのだ。
確かに彼は料理の世界を愛していたけれど、それ以上にこちら側の世界のことが恐ろしかったのだ。
時の流れる世界のことが、美しくない世界のことが、あたしのいる世界のことが、怖かったのだ。
あたしと彼との間にピンと張られていた糸の名前は「拒絶」でも「無知」でもなく「臆病」だったのだ。

「貴方は私よりもずっと勇敢なようだ。一体、誰が貴方をそうしてくれたのでしょうね?」

「あたしにいろんなことを教えてくれた人なら、マリーとお姉ちゃんだけれど……でもあたしをこうしたのはあの人たちじゃないわ。あなたよ、あなたと彼女よ。
二人が随分と臆病で怖がりで頼りないものだから、きっとあたしはその分、とっても勇敢になってしまったのね!」

三人、ではなく一人と二人で在ることの意味を歌って、けれどあたしは最後に一つだけ、欲張った。
彼は驚くだろうか。笑うだろうか。泣くだろうか。それとも。

「ねえお父さん、あたし、かっこいいでしょう?」


2017.4.17
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