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あたしは少しずつ、オーナーの代わりに「教える」役を引き受け始めていた。
最初は失敗ばかりだった。というよりも、あたしの知識や実力が、オーナーのそれにまるで追い付いていなかったのだ。
子供達の質問を10個受けると、そのうち4個は答えられないという有様だった。その度にオーナーが苦笑しながら助け船を出してくれた。
あたしよりも優秀な子供もいて、あたしは冷や汗を流しながらその子の鋭い質問に答えなければいけなかった。

そういうことが5日、6日と続いて、あたしもいよいよ悔しくなってしまったので、
オーナーに見限られないようにするため、そして何よりあたしの矜持を守るため、夜に自分でも勉強をすることに決めた。
お姉ちゃんやオーナーからオススメの参考書を聞き出して、全て購入した。
分厚い本が我が家には沢山、積み上げられた。本棚というものがなかったので、本を立てて置くことができなかったのだ。

本を読むこと、勉強することは割と好きだった。世界がぐんと引き伸ばされていく感覚はひどくあたしを高揚させた。
ただ、教えることはどうにも難しい。あたしが楽しむだけでは意味がないからだ。
相手に理解を乞うこと、相手の疑問に答えること、それは学ぶことよりもずっと難しいことであるのだと、きっとあたしは働かなければ知ることもなかっただろう。

本を読み始めた私は、夜更かしというものをすることを覚えた。
そのためこの頃から、彼と彼女が深夜、どのように生活をしているのかということを、この目で見て理解するようになっていた。
彼が仕事から帰宅するのは夜の11時頃で、彼女はそんな彼を出迎えるため、夜遅くまでピアノを弾いている。
けれども帰宅した彼にはまだ仕事が残っている。日中、ずっと花を食べて生きている彼女に、一日一食だけ、彼は料理らしい料理を振る舞わなければいけなかったのだ。
ただ、彼はそれを義務だと、億劫なことだと思っている様子ではなかった。寧ろとても楽しそうにキッチンに立っていた。彼が楽しそうに作り、彼女も楽しそうに食べた。
人は一日一食だけでもなんとか生きていかれるものなのだと、生きていかれてしまうのだと、あたしは針金細工のように細い彼女の腕を見ながら、そう思ったものだった。

1冊、2冊と本を読み終えていくに従って、あたしも教える側に立つことに少しずつ慣れてきた。
子供達の質問に答えられる回数が増えた。分からないことは「調べてくるね」と保留にして、翌日までになんとかする術を身に付けた。
バトルの実力がなくとも、知識と経験を伝えることは可能だった。
オーナーのように強かったらもっとかっこいいのだろうなあ、と思いながら、けれども強欲に何もかもを求めたくはなかったので、バトルの上達に関しては、後回しにした。

働き始めて1か月が経った頃、オーナーは茶封筒をあたしにくれた。
初めて手にした給料の重みに、あたしはひどく高揚して、顔を仄赤くして、ありがとうございますと大きく頭を下げたのだった。

もしかしたら、本当にあたしは一人で生きていかれるようになるのかしらと、
彼の金銭的援助を受けずとも一人で強く逞しく、それこそお姉ちゃんのように、この土地で暮らすことができるのではないかしらと、
そんなことを考えながら、あたしはスキップさえしながら帰路に着き、アパルトマンの階段を駆け上がって、ドアに鍵を差し込んで、
……ああ、でもあたしが一人で生きていけることと、あたしがこの家を出られることとは全く別の問題なのだと、思い知る。
ドロドロに溶けた花。彼の料理しか食べられない彼女。全く手の付けられていない洗濯物。リビングの床に置き捨てられたあの本。
それら全てが訴えてくる。彼女と彼が、最早あたしなしでは生きていかれないのだということを、あまりにも雄弁に示してくる。惨たらしい鮮やかさであたしの足を縛っている。

けれどもあたしの中に咲いていた毒の花は、もう随分と前に萎れてドロドロになってしまっていたものだから、その死骸さえ捨ててしまっていたものだから、
あたしは「家を出ることなどできない」という事実に呆れることはあっても、それを憎みたくなるような気持ちにはならなかったのだ。
彼女も彼も美しすぎたのだ。誰がそれを責められよう。

そういう訳であたしは、ずっと諦めていたことを、このお金で成し遂げてみたくなった。

初めての給料を握り締めて、再び家を飛び出し、ミアレシティで一番大きな書店に向かった。
音楽の棚に足を運べば、驚くべきことに、彼女が作ったピアノ曲のコーナーが小さく設けられていて、この界隈では彼女は随分と有名なのだ、と思わず微笑んでしまった。
その本を手に取って、表紙を指でそっとなぞれば、にわかにそれが彼女の生きた証であるように思われてしまって、
その楽譜の数々が「わたしは此処よ」とさえずっているような気さえして、あたしはそのさえずりに呼ばれるまま、数冊の楽譜をごっそりと両手で抜き取って、レジに向かった。

本というものは存外重たいものであるらしく、店員さんは「本の重みで袋が破れてしまうかもしれませんから」と、紙袋を二重にして、そこに本をそっと入れてくれた。
あたしはそれを左手に提げて、書店を出て、そして家に戻り、ポケモンの本の代わりにその楽譜を開いて、ずっと、ずっと眺め続けていた。夕食を作ることさえ忘れていた。
彼女は花の鮮やかさ、みずみずしさ、美しさを食べて生きていた。つい最近まであたしは本当にそう信じていた。信じるようにしていた。
それと同じように、あたしもこの楽譜の上に散らばる黒い点を食べて生きていけるのではないだろうか、……などという、とんでもない思い上がりを働いたりもして、
それでもその瞬間は、お腹が空いていることさえ忘れていたのだから、もしかしたら本当にあたしはその時、楽譜の上の黒い点を食べていたのかもしれなかった。

残念なことに、あたしには楽譜を読むだけの教養がない。このよく分からない記号が複雑な旋律を形作っているなんて、にわかには信じ難い。
故にあたしは、五線譜に散りばめられたリボンや流れ星のようなそれを、シャープペンシルで一つずつつついて遊ぶことしかできなかった。

それは一般的な親子が、母の大きな手と子供の小さな手で「むすんでひらいて」をするような、そうした、ひどく幼稚なじゃれ合いに似ていたように思う。
彼女の手が五線譜の上にあった。あたしの手はシャープペンシルの先に宿り、いつまでもいつまでも遊び続けていた。
意味のない、楽しい儀式を繰り返していた。日が暮れて、夜が更け、彼が帰宅するまでそれは続いた。
彼はピアノの部屋に入り、彼女にただいまの挨拶を告げる。
あたしは楽譜をそっと畳んでから立ち上がり、自室を出て、ピアノの部屋の外で待ち構えて、現れた彼におかえりなさいの挨拶ではなく別の言葉を、紡いだ。

「あなたの作った料理をあなたのレストランで食べたいわ。お金は此処にあるから、必要な分だけ取って頂戴」

何枚かの万札を差し出すと、彼と彼女はとても、とても驚いた表情になった。……二人の驚愕ももっともなことであると、分かっていたからあたしは笑った。
10歳の頃からずっと、彼の料理を食べることを拒み続けてきたあたしが、よりにもよってこんな大金を出してまで、彼の料理を切望している。
そのことはただ二人を驚かせるものでしかなかったのだろう。どうして今になってそのようなことを、と思ったとして、それはきっと当然のことだったのだ。

「あたしが貰った給料よ。あたしが自分で稼いだ初めてのお金だから、あなたの楽譜とあなたの料理に使いたくなったの。あなた達の世界を、見たくなったの」

あたしはお金を払い、彼女の世界で戯れようと思った。あたしはお金を出して、彼の世界の片隅を味わおうと思った。
お金があったところで何もできない二人だけれど、一般的な教養をあまりにも欠き過ぎた二人だけれど、それでもやはり美しかった。欠いているからこそ輝いていた。
このお金は、彼女と彼に敬意を表するためのものだ。死の旋律を奏で続ける彼女への、閉じた芸術の世界を泳ぎ続ける彼への、崇敬と、ほんの少しの憧憬の証だ。

「あたしには、二人のような生き方をすることができない。どうしてもできないの。
でも好きよ。あなた達のことが大好き。だからあたしはこれからも此処にいるわ。約束する。生き辛い二人がちゃんと生きていけるようにする。あたしが助ける、支える。だから、」

少しだけ、ほんのちょっとでいいから、あたしを二人の世界の中に入れてほしい。
そう告げることはできなかった。それより先に彼の手が動いたからだ。
彼はあたしの手から万札を1枚だけ受け取り、財布を出してそこにお札を入れ、代わりに5千円札を取り出してあたしに持たせた。
けれどあたしは焦った。彼の料理を5千円で食べられるなんて、在り得ないことだったからだ。
彼の料理の腕はあまりにも有名で、彼が作った、というだけでとんでもない値段が付くのだ。
そんなものを5千円で食べられるなんて、どう考えてもおかしい。あたしは慌ててそれを押し返そうとしたけれど、彼は有無を言わさずあたしの手にそのお札を戻すのだった。

「気持ちだけ受け取っておきましょう」と告げた彼の声は、おかしなことに震えていた。
変なの、と思った。万札をごっそりと差し出すのって、そんなに面白いことなのかしら。声が震えてしまう程に?肩がぎこちなく揺れてしまう程に?
それとも、腕利きのシェフを束ねるレストランのトップであるこの人にしてみれば、たった5枚の万札など、はした金のようなものだったのかしら。
だから、笑っているのかしら。だから、震えているのかしら。だから、あなたは。

「私の料理を貴方に振舞えることなど、もう二度とないのだと思っていた」

「……」

もしあたしが死の旋律を奏でることができたなら。もしあたしが芸術的な料理を作ることができたなら、あたしは二人の輪に入れたのかもしれない。
一人と二人、ではなく、三人、になれたのかもしれない。
いや、その輪に入るために、もしかしたら芸術的な技術の如何は関係なかったのかもしれない。ただ「生きようとしなければいい」だけの話だったのだ。

彼女は死にたがっている。彼は死にそうである。だからあたしも、そうしていればよかったのだ。
彼女にそっくりな憂い顔で、彼にそっくりな涼しい目で、生きていたって仕方がないわと歌えばよかったのだ。
でも、できなかった。あたしは生きたかった。生き残りたかった。そして彼女と彼にも、生きてほしかった。たったそれだけのことが、三人を、一人と二人にした。
あたしは二人の世界に生きることが叶わない。二人のように時を止めることが叶わない。二人のように良識も常識も得ることのないまま、無垢で在り続けることなどもうできない。
そして、それでいい。あたしは汚く生きるのだ。あたしは二人を汚く生かすのだ。あたしはそう、決意した。

『ねえ、もし生きていたくなくなったら、そのときはあたしに言ってほしい。あたしがあなたを死なせてあげるから。あなたが生きなくてもいいようにしてあげるから。』

きっとこの日だ。
あたしが初めてお給料を貰った日、彼がその青い目を不格好に揺らして泣きそうに微笑んだ日、彼女が死臭をその身に纏わせることなくただ綺麗に笑っていた日。
不格好ながらもあたし達が、まるで「家族」のような形を取った日。
この日よりも前に彼女の懇願があったなら、あたしはきっと彼女を殺せただろう。それが彼女にとっての祝福なのだと、そう確信して彼女を殺めただろう。
彼女も笑ってそれを受け入れただろう。彼は迷わず彼女の後を追っただろう。あたしは一人になるだろう。
でもそれまでだってずっと一人だったのだから、同じことだ。一人と二人が、一人、になっただけの話だ。同じこと、同じことだ。

けれどできない。もう殺せない。あたしは彼女のピアノを、彼の料理を、もう恐れたくない。


2017.4.16
【15:-】(45:55)

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