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※この回には倫理に悖る思想が多分に含まれます。

「いいんじゃないですか?」

けれどもマリーはその直後、まるで「朝食はトーストでいいんじゃないですか?」とでも言うような気軽さで、私がこれからしようとしている、おぞましい行為を肯定したのです。
あろうことか「子供ってとっても可愛いですよ。私も、お二人の子供を見てみたいです」などと付け足して、ニコニコと笑っているのです。
私はにわかに恐ろしくなりました。この小柄な女性に、私は今、裁かれているのではないかとさえ思われました。

しかし勿論、マリーは私とは違うのです。10年以上続いた閉鎖的な生活に疲れ切っていた、常識も良識もない私とは何もかもが違うのです。
人並み以上の常識と良識を併せ持った、誠実で幸福なこの女性の言葉が、このようなおぞましいもので終わる筈がないことなど、少し考えれば解ることでした。
故に彼女が引きつった笑顔で「ただ、」と付け足したとき、私はひどく絶望して、しかし心のどこかで「ああ、やはりか」と、妙な納得を覚えていたものでした。

「覚えておいてください。愛し合っている2人の間でさえ、性行為というのは少なからずショッキングなものです。
特にアルミナさんはきっと、これから貴方が為そうとしていることの意味を理解しないでしょう。知らないまま、貴方と身体を繋ぐことになる。
……とても、怖がると思います。場合によっては貴方を嫌ってしまうかも、」

「構いません」

マリーの言葉が終わるより先に、私はそう宣誓しました。息を飲み沈黙する女性の前、私の目はおそらく据わっていたことでしょう。構いませんでした。
幼い娘はチーズケーキを少しずつ食べていて、時折「美味しいね」と母であるマリーに語り掛けます。
母はそうね、とっても美味しいねと相槌を打ちながら、その顔はやはりどうしても強張っている、という有様でした。
……けれども、ああ、マリーは実に器用です。マリーは今この時、一人の女性であり、この小さな女の子の母であり、また彼女の友人でもあり、私の支援者でもあるのです。
この女性はあまりにも多くの役職を同時に背負い過ぎていました。その華奢な肩は、しかし私の知る限りでは一度も潰れたことなどありませんでした。

「生きていたくないと、生きているのが辛いと嘆く彼女を生かし続けてもう11年が経とうとしている。嫌われるものならもうとっくに嫌われていることでしょう。
もう私には失うものなど何もありません。私はただ、彼女が生きていてくれさえすればいい」

貴方だって同じだったのでしょう、と私は視線で問いました。ええそうですと頷きながら、マリーは私の問いを静かに肯定しました。
生きていてくれさえすればいいと思っていました、と告げる、彼女の切実な詩歌が、私の惨たらしい思想に絆されてしまうのは、最早時間の問題であるように思いました。

「でもズミさん、貴方はアルミナさんのことだけが大事なのかもしれませんが、私は生まれてくる子供のことも大事にしたいんです。
子供の命はその子だけのものです。その子が生まれてから、私のようにその存在に、勝手に価値を見出すのはきっと自由です。
でも端から「誰かを生かすために生まれてくる」なんて、「誰かのための命」なんて、そんなこと、許されていい筈がありません。そんな辛いこと、あっていい筈がありません」

マリーの凛としたメゾソプラノの声音で発せられる音の、なんと綺麗で誠実なことでしょう。
どこまでも真っ直ぐで倫理的なその言葉を、しかしこの時の私は「煙たい」とさえ感じました。
何故なら私はそのようなこと、どうだってよかったからです。これから生まれてくるかもしれない子供の幸せなど、これっぽっちも考えていなかったからです。
大事なのはその子供が「楔」となること、その楔によって彼女が生き続けてくれること、それだけでした。
私はいよいよこの悪魔のような考えを極めつつありました。そして、それをマリーはどうしても許すことができないようでした。

「貴方のそれは理想論だ。アルミナを繋ぎ止める存在が、24時間365日、一緒に生きてくれる存在が彼女には必要なんです。このままでは、彼女はいつか本当に死んでしまうかも、」

「いけませんか!?」

「!」

「誰の命もいいように使われていい筈がないと考えるのは、いけないことですか!?」

母が声を荒げても、目に涙を浮かべても、隣に座った女の子は眉一つ動かしませんでした。
ただ黙々と、チーズケーキを口に運んでいて、そのとき私は初めて、この可愛らしい命を「不気味だ」と思ったのです。
その一点のみに私は青ざめていました。マリーの激情にではなく、娘の平静に戦慄していました。
そういった具合でしたので、今の私に、マリーの真摯で誠実な激情は届きませんでした。届かせないようにしていました。
彼女の誠意を聞き届けてしまえば、私の悪魔が砕かれてしまうからです。私は私の悪魔を守るために、高く、壁を作っていたのだと思います。

「誰のために生きるのか、誰を支えるのか、それを決めるのは子供自身です。それが、生まれてくる命の有する当然の権利です!
その命を、アルミナさんを「生」へと繋ぎ止めるための楔として使うなんて、そんなこと……」

美しい言葉でした。マリーの言葉は真に芸術足り得るものであるように思いました。
けれども芸術は「生物学的」ではないのです。私の料理も、彼女のピアノも、マリーの言葉も、何処か「現実離れ」しています。「生きていないみたい」なのです。

「でも、私だってアルミナさんには死んでほしくありません。もっと楽に、生きてほしいと思っています。ただどうしても、そのために誰かを捧げることができなくて」

「……おかしな話ですね、マリー。貴方はあまりにも長い時間と労力を、ずっと彼女のために費やしてくださっていた筈なのに。貴方のそれを献身と呼ばずして、何と呼ぶのです?」

「だって私は、「マリー」はアルミナさんの友人ですよ。大切な人のためなら、どんな献身だって惜しくありません。そもそもこれを献身だと思ったこと自体、ありません。
でも、生まれてくる命に、私と同じことを運命付けたくはないんです」

綺麗な言葉でした。美しい言葉でした。けれどもマリーの芸術では彼女を生かせません。
その美しい、芸術的な理論は、彼女の楔になどなってはくれません。私の料理も、彼女のピアノも、今を凌ぐための誤魔化しに過ぎません。

「私は望んでアルミナさんの友人になりました。私が選んだんです。子供だって、選ぶべきです。最初から「選ばれている」なんて、あってはならないことだと、考えています。
私がアルミナさんを大切に思うことと、生まれてくる子供がアルミナさんの楔になることには、あまりにも大きな違いがあります」

私は大きく息を吐きました。その息が残忍な温度に冷え切っていることだって解っていました。
貴方の理想は強欲すぎる、と溜め息混じりに告げました。マリーはその大きな海の瞳を溢れさせんとするかのように揺らして、解っていますと小さく紡ぎました。

誰よりも懸命に、真摯に、誠実に生きてきた彼女は、実に倫理的な「臆病」を抱えていました。
それだって、マリーがマリーであるための素晴らしい要素であり、この女性の愛嬌であることを心得ていました。
けれどもそれでは彼女を救えません。マリーは実に多くのことをやってくれましたが、そのどれも、彼女を繋ぎ止める決定的な楔にはなってくれていません。

「……貴方の理想を汲めない私を、マリー、貴方は許さなくていい。私も、許されずとも構いません」

マリーが倫理的な臆病を手放せないのなら、私が非倫理的な勇敢を手に取るほかになかったのです。
非倫理的でも構わない、と思える程に、私は疲れ果てていました。幸せであった筈の12年が、真綿のように私の首を絞め始めていました。
私の息ができなくなってしまうのは、きっと時間の問題であったように思います。

そういった具合でしたから、私にも彼女にも、確固たる証が必要でした。彼女が「これからもずっと生き続けてくれる」という確信が必要でした。どうしても欲しかったのです。
そのためなら私は、悪魔になることだって厭わない覚悟であったのです。
私は彼女のために、そして何より私自身のために、この非倫理的な勇気を行使する決意を固めなければいけなかったのです。

「貴方は至極まっとうな忠告をした。命に優先順位を付けられない貴方の、その考えはきっと正しい。貴方の方が正しい。
けれど私はそれを聞き入れなかった。私は悪いことだと解っていてそれを行うのです。貴方は何も悪くない。全ての非は私にあります」

その宣誓に、マリーはわっと泣き出したりはしませんでした。
ただ私をじっと見上げて、緩慢な瞬きを何度かした後で、力なく、生きることを諦めるように微笑みました。

「今回も、私は止められないんですね」

今回も、と口にしたその意味が、私には痛い程によく解ってしまいました。。
この、真摯で誠実で懸命な彼女に「前回」があったとすれば、それはあの親友の死に他ならないのだろうと確信していたからです。

マリーの後悔、あの親友の願い、残された人達の痛み、それらを上手く昇華するためにあの本は書かれました。
止められなかったマリーには、生かすことのできなかったマリーには、書くことしか、あの親友への誠意を示す方法が見つからなかったのだと思います。
マリーはそれを、自らの罪であるかのようにいつまでも背負い続けています。
マリーは荷物を背負うのがとても得意なのです。背負って、そして平気な振りをするのがとても上手なのです。

「いいえ、貴方が無力であろうと全能であろうと、あの少女と私の愚行を止めることなどできなかったことでしょう。
前回も、今回も、貴方のせいではない。私とあの少女の愚かさが過ぎていたのです。大切に思う人の数が違い過ぎただけのことです」

深く俯いたマリーは、果たして泣いていたのでしょうか。よく、解りませんでした。
その隣で、母親と同じ海色の目をした女の子が、フォークをカチャリと置いて「ごちそうさま」と、砂糖菓子のような笑顔で告げてから、そっと私を見上げました。

……思わず身震いしたくなる程に、その視線はとても冷たいものでした。
3歳の子供というのはあんなにも恐ろしく虚しい表情をし得るのだと、私は女の子の目の海が瞬時に凍る様を見ながら、ただ、その寂しい事実を噛み締めていました。


2017.6.30
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