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マリーの来訪は正午か夕方であることがほとんどでしたので、仕事をしていた私は、彼女とマリーの会話について、二人から伝え聞くしかありませんでした。
彼女は私が渡した、レストランの「招待券」を使って、2か月に1度くらいの頻度で私の職場を訪れてくださいましたから、
私は「お得意様に挨拶をする」という名目でそっと厨房を抜け出し、彼女と5分程度の短い情報交換を行う、といったことを続けていたのです。

その日、マリーは3歳になった娘を連れてレストランを訪れてくださいました。
彼女はシングルマザーではありませんでしたが、カロスに来るときはいつも一人でしたから、私は長らく、マリーの夫の顔を知りませんでした。
夫と不仲なのだろうかとも思ったのですが、マリーの至極安定した笑顔に、そのような「影」のようなものを見ることはできませんでした。

小柄なマリーの小柄な娘は、けれども宝石のように可愛らしい女の子でした。
細い髪の毛は美しいブロンドで、大きく見開かれた目はマリーと同じ、深い海の色をしていました。
3歳にしては少し大人しい子だという印象を受けましたが、それは初めて訪れたレストランの格式高い雰囲気を、恐れているだけであったのかもしれません。

私は身を屈めて「美味しいですか?」とその子にも尋ねました。まだ小さな海は、けれどもふわりと微笑んで「うん」と拙い返事をしてくださいました。
そんな娘の頭を撫でながら、マリーが言った言葉を、私は今も、忘れることができずにいます。

「この子が生まれたとき、彼が言ったんです。わたしを愛さなくてもいいから、この子のことだけは誰よりも、何よりも愛してほしいって」

「……」

「私は、悔しかった。あの優しい人にそんなことを言わせてしまった自分のことが、どうしようもなく、悔しかった」

まるで予め用意していた文句であるかのように、マリーは淡々と、リズミカルに語りました。詩歌を紡いでいるかのような語り口でした。
肩を竦めて、スプーンを握り直して、「でも彼は正しかった」と、過去を懐かしむ音を皿の上に落としていました。

「この子を産んだ日から、いいえこの子が私のお腹の中を選んでくれた日から、私はもう、親友のことばかり考えている訳にはいかなくなったんです。
私は、私のところに生まれてきてくれた、この子のことばかり考えるようになったんです」

「……後悔しているのですか?その子を、産んだことを」

「まさか!逆です、嬉しいんですよ。私には過ぎた幸せだから。この子が生まれてきてくれたこと、生きていてくれることが、私の、何にも替えられない喜びだから」

マリーが歌うように言葉を紡ぐとき、私はその中にも芸術を見ることが叶っていました。
私は「料理」に、彼女は「ピアノ」に芸術の魂を捧げていましたが、この女性における芸術の魂というものは、もしかしたら「言葉」に捧げられていたのかもしれません。
マリーの口から直接「言霊」という単語を聞いたことはないのですが、それでもこの女性の紡ぐ言葉には、得も言われぬ重みがありました。
魂を削るように、声を発しているようなところがありました。

その、破滅的とも呼べそうな芸術への献身を、けれど私は呆れることなどできませんでした。
私の破滅的な献身だって、マリーと同じくらい、いえマリーのそれよりもずっとグロテスクで、手の施しようのないところにあるのだと、弁えていたからです。

マリーは無邪気な人でした。聡明な人でした。謙虚な人でした。物事を多面的に見ることのできる人でした。
彼女の生き方に絶望しない人でした。今の在り方に活路を見出すことのできる人でした。
彼女の平穏よりも、彼女への変化を願える人でした。その変化をもたらすことのできる勇気を有した人でした。

……けれど、そんな女性でも臆病になってしまうことがあるのだと、私はその2か月後に知ることとなりました。
その「臆病」の理由というのも、随分とマリーらしい、誠実で倫理的なものでした。マリーには大切な人が多すぎるのです。マリーは命というものを平等に愛しすぎているのです。
その点、私には大切な人など、彼女を置いて他にいませんでした。他の命などどうだっていい、という有様でした。
そうした私の偏った価値観は、マリーよりもずっと不誠実で非倫理的な「答え」を導き出すことが叶ったのです。

「マリー、貴方を生かしているものは何ですか?」

その日、マリーは娘を連れて再びこのレストランを訪れていました。
デザートの席でチーズケーキを無邪気に頬張るこの女性に、私はそう尋ねたのです。
花を散らせるようにニコニコと微笑んでいたマリーは、けれども私の言葉を聞くや否や、その海を大きく見開きました。
カチャリ、と小さな音を立てて、フォークが皿の上に戻りました。
私の話を真剣に聞く姿勢を取ってくださっているのだと、その、焼き焦がされてしまいそうな程の誠意に苦笑しつつ、私は続けました。

「貴方も知っているのでしょう。生きるということがどれだけ難儀で、どれだけ苦痛なことであるのか。
それでも「其処」に留まり続けているのは何故ですか?何が貴方を「此処」へ留め置いているのですか?」

何も背負うものを持たない筈の彼女や、彼女のことだけしか考えていない筈の私でさえ、こんなにも生きかねているのです。
マリーは私達の何倍も、望んで多くを背負い過ぎていました。その苦痛は、私や彼女のそれとは比べ物にならないでしょう。
それでも私は、マリーが「疲れた」「生きていることがとても辛い」と口にする様子を聞いたことがありませんでした。
私の前では弱音一つ吐かず、マリーはその荷物を笑顔で背負って、生きていたのです。

この女性の何処に、そのような力があるのでしょう。何が彼女を生かしているのでしょう。そうしたことが一度気になってしまえば、もう尋ねずにはいられませんでした。
私はこの女性の口からどのような芸術的な言葉が飛び出すのかと、身構えていました。

「もし今、私が死んだら、私の夫や「おじさん」はとても悲しむでしょう。私と親しくしてくれている人達も、きっと寂しく悲しい思いをしてくださると思います。
でも、それだけです。私の死には、人に寂しいと思わせ、悲しませる程度の価値しかない」

誰よりも「命」というものを大切にしている筈のマリーから発せられた、その残酷な響きに私は思わず面食らいました。
驚いた顔のままに、「随分と、虚しいことを言うのですね」と弱々しく感想を告げれば、マリーは肩を竦めつつ困ったように笑い、そうですよねと私の拙い言葉を許しました。

「でもそれが私の理想です。そして、それが真実であればいいと願っています。人の死にはその程度の価値しか、ない筈なんです。それくらい、優しいものであるべきなんです。
誰かの死が誰かを引きずり込むようなことが、誰かの幸せごと連れ去るようなことが、そんな優しくないことが、あってはいけないんです。
でもやっぱり、現実は優しくなんかないでしょう?人の死は相変わらず、重くて、惨くて、優しくないままでしょう?」

「……」

「私が一人で悶々と苦しんでいるだけなら、そこから逃れるために、死を選べたのかもしれません。「彼女」と同じ選択ができたのかもしれません。
でも私の死が誰かを道連れにするかもしれないと、誰かの幸せを奪ってしまうかもしれないと、そうした疑念が少しでもあるうちは、自ら望んで死ぬなんてこと、できないんです」

この、毎日を誠実に懸命に生きているような女性にも、死にたいと、親友の後を追いたいと願っていた時期が過去にあったのでしょう。
でなければ、自らの死についての考察など、そうおいそれと出てくるものではありません。
この女性にだって、生きることに疲れ果てていた時期があったのです。にもかかわらずこの女性はそうした時を乗り越えて、今、こうして笑っています。
その惨たらしい時間を、一体「何」が支えたのでしょう。今、こうして笑えているのは「何」のおかげなのでしょう。

あらゆる疑問が私の胸に渦巻いていました。けれどもその答えは、マリーが口にせずとももう私の目の前にあるように思われました。
だって、ほら、マリーは私からすっと目を逸らして、テーブルの向かいでチーズケーキを食べているその子を、見ているのです。
マリーが次に何を紡ぐのか、そのようなこと、どんなに頭が足りずとも、解ります。解ってしまうのです。答えなど、最初から決まっていたのです。

「そういう意味で、私を「生きること」に最も強く繋ぎ止めているのは、おそらく、この子です。
「私が死ぬことによって、この子は幸せに生きていかれなくなるかもしれない」という疑念、……それこそが、私に「生きなければ」と思わせているのだと思います」

そして、マリーがそう紡いだことにより、私の中の確信は真実へと姿を変えました。
そうですか、と相槌を打ちながら、私は自らの心臓を冷たい風が撫でるのを感じていました。冷え切った心臓は、張り裂けそうな程に激しく胸を打っていました。
私が今から言おうとしていることは、きっとこの女性を絶望させるでしょう。解っていました。構いませんでした。

「ありがとうございます、マリー。ところで、」

貴方を生かしているのは、貴方を選んで生まれてきたこの小さな命であるのだとしたら。
彼女よりもずっと多くのものを背負い、彼女よりもずっと複雑な苦しみを抱えてきた筈の貴方が、けれども我が子の命さえあれば希望を絶やさず生きていかれるのだとしたら。
貴方の夫も、そのように期待して貴方と子を為そうと考えたのだとしたら。その目論見の「成功例」を、今私は目の前に見ているのだとしたら。

私は、私が途轍もなくおぞましいことを言おうとしている様を、まるで他人事のような、冷静かつ冷酷な心地で静かに眺めていました。
私が拳を握り締める様を、とても不気味な笑みを浮かべる様を、心臓が壊れてしまいそうになっている様を、まるでそれが「私」でないかのような冷え切った心地で、ただ、淡々と。

「女性の出産というのは、30を超えればできなくなってしまうものなのですか?」

「え?……いえ、そんなことありませんよ。でもどうしてそんなことを、」

そこまで口にして、マリーは私の言わんとしていることに気が付いたのでしょう。さっとその顔を青ざめさせ、重すぎる沈黙を落としました。
貴方はそこまでして、と、小柄な彼女の小さな口がそのように動いたような気がしました。
その深い海には驚愕、動揺、困惑、絶望、そして私の見間違いでなければ、確かな憤怒の色が、溶けていました。

あれ程強く胸を叩いていた心臓は、私がおぞましい宣誓を為すや否や、あっという間に凪いでしまいました。


2017.6.29
(29:39)<25>

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