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マリーは彼女への自己紹介の折に「本を書いたりもしている」と話していました。
本が好きなマリーは、お気に入りの小説や図鑑などを持ってきて、彼女に貸したり譲ったりしていました。
中でも花図鑑というものを彼女は気に入っていて、この花を下でも見たことがあるわ、と、食事の席でもよくその図鑑の話題を口にしていました。

我が家に本棚という立派なものはなかったので、彼女はリビングにあるテーブルの下にそれらの本を収納していました。
文字を読むこと、本を通して外の世界のことを知ること、それらは彼女にとって「良い」ことであったと信じていました。
けれども、そのような悠長なことを言っていられなくなるようなことが起きてしまったのです。

それは、マリーの手によってこの家へとやってきた、8冊目の本であったように記憶しています。
どんなことが書いてあるの?とそのシンプルな装丁を眺めながら尋ねる彼女に、そうですね、と困ったように笑いながらマリーは説明しました。

「まず、此処に書かれているのは物語じゃありません。現実に起こったことです。一人の女の子の話です。大きな間違いをした女の子の、実話です」

「その女の子はどんな間違いをしたの?」

「……それは、この中に書いてあります。アルミナさん、貴方はこの子のようにならないでください。これは、それを伝えるための本なんです」

マリーは、彼女が歪んだ希死念慮を抱き続けていることに気が付いていました。
彼女は「死にたい」という言葉こそ口にしませんでしたが、「生きていたくない」とは思っていました。口にこそあまり出しませんでしたが、彼女の心は、死にたがっていました。
ピアノがあっても、花があっても、曲を作り本を出してお金を稼いでいたとしても、
それでも空は恐ろしく、白以外の色は彼女を混乱させ、生きていくために必要であった筈のあらゆることができないままだったのです。
マリーの手によって、彼女にも幾分かの希望がもたらされた筈なのですが、それでも彼女が危ういことに変わりありませんでした。
10年前、共に暮らし始めたときからずっとそうした調子でした。彼女は生というものにあまりにも消極的でした。

そんな彼女の淡い希死念慮を払拭するために、マリーはその本を渡したようです。
マリー自身のメッセージとして、彼女に贈られたその本を、彼女はとても熱心に読んでいました。ピアノを弾くのを忘れる程に、夢中になっていました。

実は私も、それを読んだことがありました。彼女のピアノ楽譜を調達するために、私はよく書店に立ち寄っていましたから、その本のことは既に知っていたのです。
……というより、おそらくミアレシティに住んでいる人間なら、一度は書店で、あのシンプルなタイトルの本を手に取ったことがあるのではないでしょうか。

その本には、マリーの親友だった女の子のことが書かれていました。

かつてのフレア団を解散に追い込み、最終兵器の暴発からカロスを守った、この土地の救世主。
……その、臆病で根暗だった少女は、しかしポケモンリーグのチャンピオンになってから、忽然と姿を消していました。
家にも戻っておらず、友達にも連絡をしないまま、彼女はいなくなりました。その行方を知る者など、誰もいないように思われました。
おそらくカロスの住人達は、あの少女が「死んだ」ことさえ知らなかったことでしょう。
私とて、喪服姿のパキラからその真実を聞かなければ、今だって、大人になった救世主の姿を思い浮かべていた筈ですから。

かつてのリーグチャンピオンは、カロスの「救世主」は、あの少女は、何処へ行ってしまったのか?
その答えが、その本には書かれていました。

「救世主」の「緩慢な自殺」という選択は、やはりとても愚かなものでした。けれども少女はその選択の責任をしっかりと負い、残された命を懸命に生きていました。
それでもあの少女は、本来ならばもっと長く生きていてもいい筈でした。
同い年であるマリーが今もこうして元気に生きていることを考えると、やはり早すぎる死であったように思います。
あのような愚かなことをしなければ、おそらくもっと生きていられた筈です。軽々しく「死」などという理に足を踏み入れてしまったが故に、少女は自ら命を縮めてしまったのです。

故に、あの本のメッセージとしては「この少女のような愚かな選択をしてはならない」「生と死の間に敷かれた神聖な線を、我々は軽率に踏み越えてはならない」ということであり、
私やその他大勢の人間は、マリーのそのメッセージを正しく読み取り、限られた命を懸命に生きようという意識を新たにした筈でした。
少女の命を本に変えたマリーのメッセージは、そうしてカロスの人々に「生きるための勇気」を与える形で届いた筈でした。

けれども彼女は、そうはなりませんでした。

「とても素敵な生き方だったわ。わたしも、こんな風になれるかしら?」

私はあの少女に何の思い入れもありません。
確かに、私は少女とポケモンバトルをしました。とても強いサーナイトを連れていました。完敗でした。その記憶はあります。私はあの少女を、覚えています。
けれどもそれだけです。より強い思い入れを抱くには、私と少女の重ねた時間はあまりにも短かったのです。
故に私は少女の死を知ったときも、あの本を読んだときも、あの少女のために泣くことなどできませんでした。
ただ、「あの少女のような過ちを繰り返す人が減る可能性がある」という点において、
少女の愚かすぎる死を、あの緩慢な自殺を、「本」という形で開示することには、相応の意味があるのではないかと、そういう風には考えていました。

……彼女が「わたしもこの本のような素敵な死に方をすることができるかしら?」と、とろけた目でそう告げたりしなければ、私はあの本のことを恨まずに済んでいた筈です。

その件に関しては、後日マリーが私の勤めるレストランにやって来たときに、深く謝罪してくださいました。
しかし当然のことですが、マリーやあの本に非は全くありません。
あれを読んで「これは素晴らしい死に方を教えてくれるための本なのだ」と解釈する、彼女の考え方が歪であっただけのことです。
あの本は、人を死に誘うためのものではなかった筈なのに。あの本は寧ろ、軽率に死のうとしてはいけない、生きなければいけないと、訴えるためのものであった筈なのに。

「死ぬことってずっと、怖いことだと思っていたの。でもそうではなかったのね。寧ろきっといいことなんだわ。だってこの子はこんなにも幸せそうなんだもの」

彼女の、死への羨望、終わりへの憧憬は、この頃から少しずつ顔を出し始めていました。
フラワーショップで買ってきた花を、彼女はわざと「溶かして」いました。色褪せてきた花を私が片付けようとすると、「まだ捨てないで」と懇願するようになったのです。
茶色くなった花が放つ死臭、ミイラのように干からびた葉、ドロドロに溶けた茎……そうした全てを、彼女は幸福そうに微笑みながら愛するようになりました。
そこにはグロテスクな死への恐れなどというものは微塵も感じられませんでした。ただ「微笑ましい」「羨ましい」と、本気でそう思っているかのような、目の細め方でした。

……おかしな話です。あの本の中に書かれていた少女は、花の枯れる姿を見て「死にたくない」と、その不可逆の理をこの上なく恐れていた筈なのに。
彼女は寧ろ、そのグロテスクな死にこそ「平穏」を見出していたのです。
花瓶の水が濁り、茎がドロドロになり、花弁がその周りに散らばるまで、ずっとその、花とも呼べそうにない状態にまでなった代物を見つめていたのです。

「花はとても早く死んでしまうのね。綺麗なときはあっという間に終わってしまうのね。
それでも花は「綺麗な姿」のままで、いつまでも覚えていてもらえるでしょう?こんな風になってしまっても、それでも「花は綺麗なもの」でしょう?なんだか、羨ましくて」

彼女はそう告げながら、毎日のように花を購入してきました。他の場所へ出かけることのできない彼女の、他には何も欲しがらない彼女の、唯一の「散財」でした。
その花は1本ずつ、1日ずつ枯れていきました。死臭の強くなった花を、私は彼女に隠れてそっと捨てていました。
そのことで恨み言を言われたことは一度もないのですが、本当のところはどう思われていたのでしょう。……恐ろしくて、当時は尋ねることができなかったのですが。

家の花瓶はあっという間に5本を超えました。3本は私が購入してきたもの、残りはマリーからのプレゼントでした。
彼女はそれを、玄関、リビング、洗面所、ピアノの部屋、寝室、至る所に飾りました。
そのいずれの花もドロドロに溶かしているような有様でしたので、おかげでそれから十数年間、この家には「常に死臭が満ちている」という状態が続きました。
……ええ、今となっては笑い話ですし、死臭が消え去った当初は、その臭いのしないことに不安さえ覚えたのですから、慣れというのは、面白いものですね。

『ズミさん、あの人はまるでお花のようです。貴方は本当にそれでいいんですか?
だってあの人は、ただピアノのある部屋に美しく咲いているだけで、生きるために必要である筈の、生産的で生命的なことを、何も、』

2週間だけ、この家で家政婦を務めてくださった、若い女性の言葉を私は思い出していました。
花であるのはいけないことでしょうか。花であることは、ただ美しく在ることは、いけないことだったのでしょうか。
当時はそんな風に思い、首を捻るしかなかった私は、けれどもあの女性が為した形容の惨さを、あれから数年が経った頃になって、改めて思い知るに至りました。

成る程確かに「花」とはとても惨たらしいものです。けれども私は花を憎みませんでした。寧ろ私は、感謝さえしていたのだと思います。
花のように美しい彼女は、外の世界に咲いている本物の花へと興味を示してくださいました。
あの鮮やかな植物によって、彼女の世界はほんの僅かですが、確かに外へと開いたのです。彼女の世界は花によって開かれていたのです。その花を、憎むことなどできませんでした。

『それでも「花は綺麗なもの」でしょう?なんだか、羨ましくて。』

そして、毎日のように花の死臭を嗅いでいるうちに、私は妙な錯覚を覚えるようになってきました。
その錯覚が1か月、2か月と続くにつれ、それがいよいよ私の真実となり始めていました。

「死にたがっている彼女の代わりに、花が死んでくれているのだ」という、傲慢にも程があるその錯覚を、私自身の真実としてしまえば、
……ほら、私だって、無様に枯れた花を、死臭を放つ鮮やかだったそれを、彼女と同じように穏やかな目で見つめることができたのです。

成る程確かに彼女は花のようです。けれども彼女は花のように死ぬことができません。
だから彼女は花を愛しているのです。自らに訪れない「死」という祝福を、花に代行してもらっているのです。
私はそのように解釈し、花が枯れ続けている間はきっと彼女が死ぬことなどないのだろうと、そうした、随分と狂気じみた確信を抱くに至っていました。
……それに根拠など全くありませんでしたが、それからも彼女が生き続けてくれたことを考えると、この確信はある程度、真実に近いところを泳げていたのかもしれませんね。


2017.6.29
(27:37)<23>

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