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そういった具合で、私と彼女の閉じた世界は、9年目も同じように回っていくものと思われていました。
私は36歳、彼女は26歳になっていましたが、そのような数字よりもずっと、私は青く、彼女は幼く見えていたことでしょう。
彼女はともかく、私には「時を止める」才能などある筈がないとばかり思っていたのですが、
「まるで成長がない」という点においては私も彼女も同じようなものでしたから、やはり私の時も、彼女と同じように止まっていたのかもしれませんね。

「貴方に会ってほしい人がいるのよ」

けれどもそんな折、久しぶりに私をカフェへと呼び出したパキラが、一枚の写真をテーブルの上に置いたのです。
雑誌の切り抜きと思しきその写真には、スーツ姿の女性が写っていましたが、私はこの女性に心当たりがありませんでした。
けれども、この女性が意味もなく私に人を会わせるとは思えず、私はその写真に写る小柄な女性をまじまじと、見つめました。

ダークブラウンの髪は、肩より少し下のところで無造作に跳ねていました。ヘアピンで留めた少し長い前髪の下、海のように深い青が真っ直ぐにこちらを見ていました。
少し微笑みがちに引き結ばれた口には、彼女に似た幼さが残っているように思われました。
その左手にはシンプルな指輪が嵌められており、隣に写り込んでいる高い肩は、彼女の夫のものであるように思われました。

「この人なら、貴方の大切なアルミナさんを、貴方よりは上手に生かしてあげられるかもしれない」

「……おや心外ですね、私はやれるだけのことをやってきたつもりですよ。赤の他人になど、劣りはしない筈ですが」

「赤の他人だからこそ、できることだってあるかもしれないわ。それにこの人は……3年前に亡くなったあの子の親友だったの」

カロスの救世主には、親友がいた。私はパキラの言葉に驚き、そして疑いました。
あの根暗で臆病な、いつも俯いてばかりであったような少女と、親しくなりたいと考える人間などいないと思っていましたし、
仮にそんな物好きがいたとして、そんな物好きに彼女を、私の妻を救い出せるとはとても思えませんでした。
けれどもパキラは何故だか、その「親友」が彼女を上手に生かすことができると確信しているようで、訝しむ私に、半ば強引にその写真を押し付けました。

「この人は貴方以上に、人が死ぬことを怖がっている。生きていたくないと考える人が、一人でも減るようにと心から願っている。
だからきっと、魂を削るようにあの子と向き合ってくれると思うわ。信じる信じないは貴方の勝手だけれど、もしよければ一度、会ってみたらいいんじゃないかしら」

私は迷いました。苦しいながらも穏やかに、静かに回し続けてきた二人の世界を、第三者に掻き乱されるのは御免だ、と強く思いました。
けれども誰かが私達の時間を滅茶苦茶に踏み荒らしていったとして、それはきっと「今」より酷くなることはないだろう、という風にも思われました。
それ程に、この8年間で私が肩に乗せてきた荷物というものは重く、大きいものでした。一人で抱え続けることへの限界に、私は気付き始めていました。

もし、この女性に私達の何らかが変えられてしまったとして、よしんば何も変えることができなかったとして、
それでも、それは「何もせず、ただ時を回す」よりはずっとマシなことであるように思われました。
私達には失うものなど、もう殆ど残っていませんでした。この8年間の苦痛、動揺、緊張、恐怖、それらを「祝福」だと思い込むことで、私は何とか正気を保っていました。
その危なっかしい正気という名前の怪物は、彼女が死んでしまうと同時に、私自身へと牙を剥き、容易く私を殺してしまうように思われました。

私はいつの間にか、……「いつから」そうだったのか本当に思い出すことができないのですが、このようなことを考えるようになっていたのです。

「もし彼女を喪えば、きっと私も生きていかれなくなるだろう」と。

そうですねと、それもいいかもしれませんと、これ以上悪くなりようなどありませんからと、
見ず知らずの女性に賭けてみるのも一興かもしれませんと、
私は自らの疲労さえも「祝福」だと唱え続けていたことさえすっかり忘れて、本当に、心から疲れ切った調子でそう呟いてしまったのでした。

……「疲れ切った」と言いましたが、別に私はこの時期、四六時中、疲弊した表情であった訳ではないのですよ。
彼女と生きることは相変わらず、あまりにも易しくありませんでした。
24時間という長すぎる時を、1日1日、罰を受けるようにゆっくりと回していく彼女の生き様は、あまりにも優しくないものでした。

にもかかわらず、帰宅して、彼女の「おかえりなさい」を聞くや否や、ピアノを弾いていた手を止めて私の方へと歩いてきてくれるや否や、
私という単純な人間はそれだけで、救われた気分になってしまうという有様だったものですから、私は彼女といるときだけは、確実に、自らの疲労を忘れることができていたのです。
彼女と生きることこそがこの上ない苦痛であった筈なのに、彼女と共に在ることでその苦痛を忘れ去ることが叶っている。
まるで麻薬のようでした。猛毒を飲み下しているかのようでした。

いつ、死んでしまうのだろう。いつ、その口から「生きていたくない」と零れてしまうのだろう。そうした恐怖はずっと私の脚を縛り続けていました。
私の一歩、私の明日、私の言葉、私の呼吸、全てが鉛のように重く、鈍くなっていくように思われていました。
心は疲弊を忘れたつもりでいても、いくら「祝福」などという言葉で自身を洗脳したとしても、当時の私はもう、限界だったのだと思います。

「こんな、都合の良さそうな人間を紹介することも、貴方の贖罪の一つなのですか?」

つい、そのような意地の悪いことを言ってしまいました。
けれどもそうした私の、拙い八つ当たりにも、パキラという女性は「ええそうよ」とあっけらかんと言い放ってしまうような人でしたので、今回もそうだろうと想定していました。
故にそんなパキラが困ったように笑いながら、そうではないの、と首を振ったことは、存外、私を驚かせていました。

「貴方達があまりにも懸命に生きているから、絆されてしまったのかもしれないわね」

……私や彼女がそのように「見えていた」かどうかという客観的なところについて、私は断言することができないのですが、それでも、パキラの言っていることは理解できました。
懸命に生きている人間というのは、たとえその姿が不格好であろうとみっともなかろうと、何か、人を惹き付けてしまうものなのです。
つい、目で追ってしまいたくなるような、つい、手を伸べてしまいたくなるような、そうした奇妙な引力めいたものを発生させるのです。
そういう意味でも、「カロスの救世主」の死後、懸命に贖罪の方法を探していたこの女性が、
同じく「贖罪」に生きているこの人を見つけたとして、その生き方に心を打たれてしまったとして、それはきっと、当然のことであったのでしょうね。

さて、そういった具合でパキラから紹介されたその女性は、どうやら1か月に1度、決まった日付にこの街を訪れているようでした。
「ローズ広場の近くにある、クリーム色の屋根をしたカフェ」とパキラから説明を受けていたため、
先ずは広場を目指して歩いたのですが、私が探そうとするまでもなく、そのカフェはすぐに見つかりました。
というのも、そのカフェの扉からは、ひっきりなしに子供が飛び出したり駆けこんだりしていて、随分と賑やかな様相を呈していたからです。
楽しそうな声のする方へ視線を向ければ、そこが私の目的地だった、といった具合で、私は特に道に迷うこともなくそこへ辿り着くことができたのでした。

その屋根の下へと歩を進めた途端、強い香りが肺の中に飛び込んできました。
思わず振り向けば、ローズ広場の一角に大きな木が植えられており、そこからオレンジ色をした花の芳香が辺り一面に漂っていました。
私はその香りを知っていました。というのも今年、ミアレの大通りにこの木に似た植物が多数、植えられていたからです。
まだ枝の細いその樹木は、僅かばかりの花を咲かせていて、そこからも同じ香りが仄かに漂っていました。
けれどもこの大きな木が放つ芳香は、いっそ暴力的とも呼べそうな程に凄まじいもので、私はその大木に気圧されるように後退ってから、慌てて背を向け、再び歩き出しました。

扉を開ければ、中には10人程の子供と二人の大人がいて、彼等は一斉に私の方を見ました。
まだ年端もいかないような幼い子供達の、元気すぎる「こんにちは!」に同じく「こんにちは」で挨拶をしつつ、私は奥に座っていた二人の人間に視線を向けました。
一人は背の高い、オレンジ色の髪をした男性。もう一人は先日、パキラが見せてくれた写真と寸分違わぬ姿をした、やや背の低い女性でした。

「こんにちは!」

女性のメゾソプラノは子供達に負けない程に明るく、朗らかなものでした。
こちらへと小走りで駆けてくる、その左手が一瞬だけキラリと眩しく光りました。大きな窓から差し込む陽の光に、そのプラチナリングが反射していたようです。
女性が私の前で立ち止まるのを待ってから、私は挨拶と自己紹介をしようとしたのですが、それより先に女性が「あれ?」と、その海のように深い目を見開いて首を捻ったのです。

「もしかして、ズミさんですか?ミアレの大きなレストランで働いていらっしゃる……」

「ええ、そうです。何故私のことを?」

その口調には僅かな違和感がありました。細部のイントネーションが少しずつ、ズレているように思われたのです。
流暢にカロスの言語を奏でていましたが、この女性はもしかしたら、カロスの人間ではないのかもしれません。
「やっぱり!」と無邪気に両手を合わせて微笑んだ彼女は、その細い腕を自らの胸元に当てて、その事実を誇るように、大声で告げました。

「私、貴方のファンなんです!貴方の作る怖い料理が食べたくて、年に数回、あのレストランに予約を入れているんですよ」

頭を殴られたかのような衝撃でした。


2017.6.26
(26:36)<22>

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