26

帰宅すると、ピアノの音が止んでいました。
防音素材の壁紙を使っているとはいえ、それでも何かしらのメロディが、耳をすませば玄関まで聞こえてくるというのが常でしたので、私は訝しみました。
どうしたことだろうと思い、靴を並べるのもそこそこにリビングへ向かうと、ソファに身体を丸めた彼女が啜り泣いていました。

「生」という牢獄に閉じ込められた彼女。私が閉じ込めた彼女。本当に望んでいないにもかかわらず、生かされ続けている彼女。
彼女が生きていることは易しいことではありませんでした。彼女を生かし続けている私は優しくなどありませんでした。
彼女も私も、とても難しく冷徹なことをしているのでした。その共鳴を「祝福」とでも名付けてしまわなければ、この苦痛に意味を見出さなければ、私だって、もう。

「どうしたのですか?」

それでも膝を屈めて彼女に話しかければ、この女性が私の、唯一無二の、替えなど利かない存在なのだと認識すれば、
それだけで、私の疲労、私の絶望、私の困惑、私の諦念、全てがなかったことになるのです。
ああこれでいいのだと、この選択こそが最善であり彼女こそが最愛なのだと、本当に心から思えてしまうのです。

「ピアノの音がおかしくなってしまったの。怖くて、鍵盤を叩けなくて、だから今日は1日がとても長かったわ」

彼女の「1日がとても長かった」というのは、彼女にとっての最大級の苦痛を示しているのだということを、私は察し始めていました。
時の流れに身を置くことを恐れていた彼女にとって、ピアノはその恐れを取り払ってくれる唯一の存在でした。
あれを弾いているとき、どういう理屈かは分かりませんが、彼女の時は止まっていました。気が付けば、「いつの間にか」8時間が経過している、というような状態でした。

ピアノによって彼女の時は止められていたのです。ピアノによって彼女は時を超えていたのです。
そうすることでしか、彼女は「24時間」という長すぎる1日を生き抜くことができなかったのです。

そのことを私はこの5年間でとてもよく解っていましたから、静かに頷いて彼女の肩をそっと抱きました。
また調律師に来ていただかなければいけませんねと、すぐに依頼しますからねと、今日は辛い思いをさせてしまって申し訳ありませんでしたと、
あやすように、許すように、私はゆっくりと言葉を紡いで、彼女の白い肌に埋め込まれた丸く大きな瞳がすっかりいつもの色を取り戻すまで、そうしていました。

どうやら私は、最悪のタイミングで帰宅を遅らせてしまったようでした。
普段ならもう1時間前には帰宅している頃でした。あのカフェでパキラに激昂しなければ、彼女の懺悔に耳を傾けなければ、もっと早く、彼女に手を伸べられた筈でした。
けれど彼女は、帰宅の遅くなった私を責めませんでした。というより、私の帰宅がいつもより遅いことに、気が付いていないようでした。
流石の彼女も時計を読むことくらいはできたのですが、読めても、彼女はその「時」を使おうとしなかったのですから、どのみち、同じことだったのです。

「大丈夫ですよ、すぐにまたいつものように弾けるようになります。貴方に不自由など、させませんからね」

そう告げれば、彼女は至極安心したように、ふわりと頬を綻ばせました。
そして、いつもより少しだけ遅い「おかえりなさい」を告げて、大きな目で真っ直ぐに私を見上げました。
私も「ただいま」と口にして、夜食を作るためにキッチンに立って、冷蔵庫の中を確認して、フライパンを握って、そして私はいつものように、彼女も、いつも通りに。

『貴方に不自由など、させませんからね。』
……ええ、実に、おかしなことです。
彼女が不自由でなかったことなど、これまでだってただの一度もなかった筈なのに。彼女を恐怖させ、困惑させ、疲弊させたのは、不自由ではなく、寧ろ自由の方であった筈なのに。
私はこれまでずっと、そのような間違った信条の下に、彼女を苦しめ続けてきただけの存在である筈なのに。

それでも彼女は、不自由な彼女は、不自由を誰よりも喜んでいる彼女は、私に「おかえりなさい」と紡ぎます。
私の帰る場所であるために、生きていてくれています。今は、生きてくれています。

私はただ、彼女が「これからもずっと生き続けてくれる」という確信を得るためだけに、生きてきたように思われました。これからもずっと、そうであるように思われました。
この美しい女性を失ってしまったとき、私はどうなってしまうのでしょう。考えたくもありませんでした。

彼女を支えるために尽力してきた筈が、いつの間にか私は、自らの背を彼女に預け、あろうことかこんなにも小さな彼女へと、凭れ掛かろうとさえしていたのです。

……さて、それからというもの、パキラは数か月に一度、電話を掛けてくるようになりました。
私も彼女も、結婚して7年目、8年目と、順調に時を流してきており、二人の間に特筆すべき事象は何も起きませんでした。
私は相変わらず「二人分稼ぐ」という、最初の誓いを貫くために働き続けており、彼女もまた、24時間という長すぎる1日を消化するために、ピアノと向き合い続けていました。
変わったことと言えば、書店の楽譜をいよいよ全て購入してしまい、彼女に差し出すべき「新しいもの」がなくなり始めていたこと、
あとは私の昇進に伴い、給料が増え、「二人分稼ぐ」という強がりがいよいよ現実のものとなり始めていたこと、くらいでした。

そのため私は彼女からの電話に、ええ大丈夫ですよと、私も彼女も生きていますよと、相変わらずこの時間は私にとって祝福ですよと、
最早、自慢なのか宣誓なのか洗脳なのか、自分でも解らなくなってくるような言葉を紡ぎながら、彼女が「そう、よかった」といつものように相槌を打つのを、
いよいよ疲れ果てた心地で茫然と聞いている、というのが常であったように思います。

……たまにパキラの方から、直接会って話をしないかと言われることがありました。その度に私は顔を出して、パキラの奇妙で卑怯な懺悔に付き合うことになっていました。
そうした関係が1年ほど続いた頃、パキラはあのカフェで「アルミナさんのご両親と連絡が取れた」と口にしました。

「あの子の両親は今、何名かの幹部たちと共に他の地方へ逃げているの。
あの子が生きていること、貴方と結婚したことを伝えたのだけれど、彼等は泣いて喜んでいたわ。そして、私達のことを決してアルミナに伝えないでくれ、と言っていた」

まさかご両親はあの日、彼女をあの冷たい地下にわざと置いていったのでしょうか。
そうした想像に私の顔は青ざめましたが、パキラは苦笑しながら「あの子が取り残されてしまったのは全くの偶然よ、彼等のせいじゃないわ」と告げました。

「ただ、あの夫婦は何か大きすぎる勘違いをしていたみたい。……いえ、あの二人だけじゃなくて、フレア団に属していた全員が、そういった思い違いをしていたのでしょうね」

「思い違い?」

「彼等は、……いいえ私達は、世界がよくなりさえすれば、私達はもっと幸せに生きられると思っていた。悪いのはカロスを汚す心無い存在だと、そう信じ切っていた。
世界が変われば、私達だって変われる。世界を変えるために、汚れを一掃しなければいけない。そうすれば私達だってもっと快適に生きられる。もっとカロスを美しくできる。
……貴方なら、この考えがどれだけ馬鹿げたものか、もう解ってくれるでしょう」

ええ、と私は頷き苦笑しました。
フレア団がどういった組織であったのか、その内部の事情や彼等の精神構造など、知りたくもありませんでしたが、
こうも頻繁に、その組織の大幹部であった女性と話をしていれば、彼等がどのような考えの下に動いていたのかということは、おのずから、解ってしまうものでした。

彼等は少し、彼等自身の苦痛を外界のせいにしすぎたようです。
その苦痛の原因が自分達にあるかもしれないという考えを端から受け付けず、世界のせいだ、カロスの汚れのせいだと決めつけていました。
努力と内省を怠った彼等が攻撃的になったとして、今を愛することを忘れたとして、それは当然のことであったのかもしれません。
罪のない人々を殺してしまおうなどと考えるような連中が、実の娘を正しく愛せなかったとして、それもまた、仕方のないことであったのかもしれません。

「ご両親は、世界がよくなりさえすればあの子も幸せになれるのだと信じていたわ。そのための仕事に、兵器のメンテナンスに執心して、あの子を綺麗な場所に閉じ込め続けていた。
馬鹿みたいでしょう?世界を壊すより先に、してあげなきゃいけないことがあった筈なのに。3000年前の機械を愛するより先に、あの子を愛してあげるべきだったのに」

それができないから、フレア団に入ってしまったのでしょうと私は告げました。
パキラは泣きそうに顔を歪めて、貴方の言葉はいつだって容赦がないわねと、ささやかな反論をあまりにも弱々しく為すのでした。

「……ご両親も、私達ではアルミナを大事にしてあげることができないと、そういう自覚が既にあったみたい。
彼女が貴方と一緒に生きていることを知ると、とても喜んでいたけれど、会わせてほしいとは言わなかったわ。貴方に「アルミナをよろしくお願いします」とだけ、伝えてほしいと」

「……そうですか」

「彼等は決して極悪人ではなかったわ。でも私達が、フレア団がきっと変えてしまったのね。
兵器なんてものを私達が見つけたから、あんなものを残してしまったから、カロスの救世主はあれを使って死のうなんてことを思い付いてしまったのよね。
カロスを作り変えようなんてことを考えたから、アルミナさんは今も生き辛いままなのよね」

解っているわ、と自らを責めるようにパキラは呟きました。
私はその長い懺悔をただ静かに聞きながら、さてどのような言葉でこの女性を許すべきなのだろうと、考えていました。
けれどもそこまで語彙に堪能ではない私に、上手な励ましの言葉を紡ぐことなどできませんでした。頭の中に浮かぶ言葉はどれも陳腐な、薄っぺらいものばかりでした。
ですから私は、私の醜い部分を同じように懺悔することにしました。

「けれどフレア団がもたらした祝福が一つだけあります」

「……何?私がアルミナに出会えたことだ、とでも言うつもり?」

「ええそうです。おかげで私は、彼女のいない日々を考えることができなくなりました。
おそらくご両親が本当に彼女を愛していたとしても、彼女と共に暮らしたがっていたとしても、今更、彼女を手放すことなどできなかったでしょう。
笑ってください。私は喜んでいるのですよ。ご両親に彼女を取られることがないと解って、この上なく安心しているのです。歪んでいるのは果たして、どちらだったのでしょうね」

このような罪の引き取り方しかできない私を、パキラは泣きそうに笑いながら許しました。
彼女と共に暮らし始めて、もうすぐ8年が過ぎようとしていました。

余談かもしれませんが、この日、私はご両親のことを彼女にも報告しました。彼女はほっとしたように息を吐き、こう告げるのみでした。
……私は、自らの歪みが彼女と同じ形を呈していることに、どうしようもなく、喜びました。

「よかった、わたしはお父様とお母様のところへ行かなくてもいいのね。明日も、あなたにおかえりなさいと言えるのね」


2017.6.26
(25:35)

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