スタッフは、彼女がケーシィを連れて一人で此処に来たこと、彼女の顔色が随分と悪かったことを私に話してくれました。
彼女が生きていると確信できてからも、私はどうにも落ち着くことができませんでした。
……何故、彼女はレストランへとやって来たのでしょう。
過保護な彼女の両親が、この異常事態に彼女の外出を許すとはとても思えませんでした。
まさか、両親のところから抜け出してきたのでしょうか。それとも、彼等を説き伏せてきたのでしょうか。
いいえ、そのような力も弁術も彼女にはありませんでした。彼女は悉く無垢で無知で、にもかかわらず、あの地下で暮らしていた彼女は、此処へ予約をしに訪れていたのです。
その理由に私は思い至ることができませんでした。彼女に何が起こっているのか、まるで見当がつきませんでした。
どうにも心配になってしまい、仕事を終えてからセキタイタウンへと向かったのですが、
10番道路へと向かう道はバリケードで塞がれていて、部外者の立ち入りは許されていませんでした。
彼女を探し出すあては、このセキタイタウンの他には何もありません。
そしてその道が塞がれていましたから、私はミアレの町で、ただ明日の夕方を辛抱強く待つことしかできなかったのです。
「でもどちらにせよ、もうあなたに会えないわ。だってお金がないの。お金って、この「世界」というところではとても、とても大事なものなんでしょう?
これがないと、わたしはあなたに会うことも、あなたの料理を食べることもできないんでしょう?」
そして翌日、しわのついたワンピースでレストランを訪れた彼女は、私がこれまで吐いてきた「五千円」の嘘を優しく責めてから、
無垢と無知を極めた、あまりにも残酷な言葉を、あまりにも美しい笑顔で告げたのです。
「わたしはもうこれだけしか持っていない。お父様もお母様も、誰もいなくなってしまった。わたしはもう一人きりよ、一人じゃ、生きていかれないの。
もうわたしにはお金がない。お金がないとあなたに会えない。あなたに会えないなら、生きていたって辛いだけ。辛いだけだから、生きなければいいの」
いけない、と思いました。彼女は精神の時のみならず、身体の時をも止めようとしていることに気が付いてしまったのです。
生きなければいい、と口にする彼女には、本当に、この世界への未練を何も持っていないように思われました。
彼女の、おそらくは無理をして作っているその笑顔は、けれど力強く勇敢なものでした。
死というものへ向かおうとして、別れの言葉を連ねる彼女は、……恐ろしいことですが私の目に、とても美しい姿として映ってしまったのです。
もっとも、無垢と無知を極めていた彼女に「死ぬにはどうすればいいか」ということへの見当がついていたかどうかは、定かではありません。
それでも、彼女の生きる意思が、孤独という名前の絶望によって殺がれてしまっていることだけは解りました。
私が何も動かなければ、きっとこれが本当に、彼女と会える最後の日になるのだろうと、そうした悪い勘が警鐘となって、私の頭にガンガンと鳴り響いていました。
他の誰が野垂れ死のうとも、彼女にだけは生きてほしいと思っていました。精神を幼く止めたままでいいから、身体の時だけは動かし続けてほしいと強く願っていました。
けれども同時に、彼女がもし身体の時をも止めてしまったら、その姿は私が今まで見たどんなものよりも美しいのだろうと、そのようなふざけたことを本気で思っていました。
生きてほしい、という現実。この女性の死はどんなにか美しいだろう、という空想。
この場に及んで私はその二つを平等に天秤の上へとのせていたのですから、いよいよ狂気じみていたのでしょう。
構いません。私は自らに狂気を見られたとしても、一向に構わないのです。
けれども私はその天秤を、現実の方にぐいと傾けました。
何故なら私の時は動いていたからです。私は空想の中に入れなかったからです。彼女は真に空想の中に、時を止めた世界の中で生きていましたが、私はそうではなかったからです。
私は、彼女ほど高い純度を持った存在にはなれていなかったからです。私は、彼女よりも低純度の存在として、彼女の手を引かなければいけなかったからです。
彼女と共に、時を止めてしまう訳にはいかなかったからです。
「時」がやって来ていました。彼女に変化をもたらす時ではなく、私が勇敢にならなければならない時がやって来ていました。
彼女の時は止まっているのです。精神の時はもうずっと前から動くことをやめており、身体の時も今まさに止まろうとしているのです。彼女が、止めようとしているのです。
そういった具合でしたから、私は悠長に変化を待つのではなく、私自身が急いで変化を起こさなければいけませんでした。
未知のことに、臆病になっている場合ではなかったのです。たとえ私が勇敢でなかったとしても、勇敢にならなければいけなかったのです。
私自身のためでも、私の愛した芸術のためでもなく、彼女のために、彼女がこの世界で生きるために、私が彼女の手を引くために。
私は彼女の手を握り、「五千円」の嘘を吐いていたことを謝罪しました。それだけ貴方に会いたかったのだ、ということも伝えました。
それでも生きていかれない、わたしは何も持っていないから、と首を振る彼女に、何もかもを私が差し上げますと宥めるように誓いの言葉を連ねました。
私はただ、必死でした。この女性を生かさなければと、彼女に生きてもらわなければと、そればかり考えていました。
「私と生きてください」
その結果、彼女の美しさが損なわれてしまったとしても、彼女が真に美しく在るには、死ぬしかなかったのだとしても、それでも私は彼女に生きてほしかった。
私にとって、彼女が美しくあることよりも、彼女が生きていることの方がずっと重要でした。
私は彼女と同じように時を流したかった。時を止めてほしくなかった。
私は確かに彼女に焦がれていましたが、彼女が美しくなくなってしまえば即座に興味を失うだろう、とは、とても思えませんでした。
現にその時、彼女はしわだらけのワンピースを身に付けていて、長い髪のあちこちをほつれさせているという有様だったのですが、それでも私は嫌悪感を抱いたりはしませんでした。
いたわしいことだ、と思いました。可哀想だ、とも思いました。
けれどもこの手を放してしまいたい、とは到底思えず、寧ろ放してはいけない、という風に、益々彼女から目が離せなくなる、といった有様だったのです。
ここまでの話から、「絆された」のは私の方であるかのように、貴方は思われたかもしれませんね。ですが私は、逆であると考えています。
焦がれていたのも、その生を切望したのも、共に生きたいと願ったのも、全て、全て私の方です。彼女は私の言葉に逐一、頷いてくださっただけです。
もっとも、彼女はそもそも「求める」ということを知らなかったので、何かを望んだり願ったりといったことが人並み以上に難しかったのかもしれません。
とにかくそういった具合でしたので、縋っていたのはいつだって私の方でした。彼女は私が手を伸べることを許してくれただけです。手を、握り返してくれただけです。
ですから仮に「絆された」という現象が起きていたとして、それは私ではなく、寧ろ彼女の方に当て嵌まる言葉であったように思われてなりません。
私の必死な訴えが彼女を絆したのです。おそらく、そういうことなのです。
プロポーズをしたつもりはなかったのですが、この日を境に彼女は私と共に暮らすようになった、という事実を踏まえると、
やはり「私と生きてください」という私の懇願は、そうした、婚約を申し込むための言葉、すなわちプロポーズに相当していたのかもしれません。
けれども如何せん急な話で、婚約指輪も彼女のための部屋も、何も用意できていませんでした。
決して綺麗に片付いているとは言えない私の家に、この世で最も大切な人を連れ込むのは気が引けたのですが、
彼女を一人にしてしまうことの方が私には恐ろしく、放っておけば死んでしまうのではないかと気が気でなく、
そういった具合で私は早々に、彼女に対して「見栄」というものを捨ててしまわなければいけなくなりました。
散らかっていますが構いませんか、と尋ねれば、彼女は特に気にした風でもなく頷いてくれました。
夜風を恐れる彼女の手を引いて、11時を回った暗い道をゆっくりと歩きました。女性の歩幅はこんなにも小さいものかと、ひどく驚いたことを、覚えています。
私の勤めるレストランから私の暮らすアパルトマンまで、私の歩幅でなら20分もあれば着く筈の距離を、けれどもこの日は40分かけて歩きました。
それだけで彼女はすっかり疲れ切ってしまっていたのですが、アパルトマンの中へと入り、自室へと向かおうとしたところで、ちょっとした問題が発生しました。
それはとてもささやかな、けれども致命的な問題でした。これから私が受けることになる、数々の衝撃の幕開けを示す、いっそ清々しいほどの「洗礼」でした。
彼女は階段を上ることができませんでした。
地下でずっと暮らしていた彼女は、冷たく平らな白い床の上ばかりを歩いてきたため、階段というものを使って、上の階へ向かう、ということをしたことがなかったのです。
幸い、このアパルトマンにはエレベーターがあったため、小柄な彼女を抱き上げて階段を駆け上がる必要はありませんでしたが、
ではこれを使いましょう、と告げつつエレベーターのボタンを押す私の指は、おそらく震えていたことでしょう。
何か、途轍もなくおぞましいことが始まる予感がしました。彼女が死んでしまうよりもずっと酷い地獄が、私達を待っているように思われてなりませんでした。
外の空気に、風に、日差しに触れるには、彼女の身体はあまりにも細く、彼女の肌はあまりにも白く、彼女の心はあまりにも覚束ないものでした。
彼女は外では生きていかれない身体だったので、それも仕方のないことであったのかもしれません。
仕方がないのだ、と言い聞かせつつ、私は彼女の手を引いてエレベーターへと乗り込みました。
彼女は少し怖がっていましたが、先程のように目に涙を浮かべつつ「できないわ」と告げることはしませんでした。
けれども身体が浮き上がる感覚を恐れて、彼女は再び泣いていました。私は狼狽えつつ、大丈夫ですよと告げることしかできませんでした。
母親のお腹の中にいる胎児は、出産を経て外へと出されると大声で泣きますよね。
私は、彼女にもあれと同じようなことが起きているような気がしました。
セキタイタウンの地下という「胎内」でずっと眠り続けてきた彼女は、外の空気で酸素を求める術を知らず、ただ必死に泣いて肺を広げることしかできなかったのです。
階段も、エレベーターも、空さえも、彼女にとっては未知のことで、馴染みのないことで、故にそれらに驚き、戸惑ったとして、それも仕方のないことであるように思われました。
ただし、胎児と決定的に違っている点がありました。胎児は10か月で母親の胎内から出てきますが、彼女は18年間、ずっとあの地下にいて、やっと出て来たところなのです。
彼女が地上の世界で呼吸の仕方を覚えるまでに、果たしてどれくらいの時がかかるのか、私には概算のしようがありませんでした。
けれど、長い時がかかるということは、私を絶望せしめるものではありませんでした。
だってその間、ずっと彼女と共に生きていられるということなのですから。
こちらでの呼吸の仕方を覚えれば、彼女はきっと以前のように笑うことができる。私はそう信じることにしました。
そうすることでようやく、彼女の嗚咽が奏でる地獄の調べに打ち勝つことができたのです。
2017.4.28
(18:28)