J:アルコールに怪物

「今の君にはまだ、村の外へ出ることなど想像もできないかもしれないけれど、もしこの先、村でいることに耐えられなくなったなら、このボールを投げなさい」

彼はそう告げて、青と赤でデザインされたボールを私の手の中に落とした。昨日、広場で彼に与えられた赤と白のボールとは、また別のものだった。
いつもあの倉庫の中で握っていたものよりも、そのボールはずっと重かった。この中に確かな「命」が、すなわちポケモンが入っているのだと、私は容易に勘付くことができた。

「ゲンさん、ポケモンを捕まえていたんですか?」

「そうだよ、私は君が思っているよりもずっと多く、この村での禁忌を犯しているんだ。
だからそういう意味でも、もう此処にはいられない。こんな罪深い私を許してくれるところへ、行かなければいけないんだ」

いつものような、穏やかな声音だった。顔を見合わせて私達は笑った。
彼はそっと私に手を伸べた。躊躇いがちに触れれば、やはりそっと抱き締めてくれた。
けれどそうした繊細な手の招きに比べて、腕に込められた力はどうしようもなく強かった。潰されてしまいそう、などと思いながら私は笑った。笑わなければいけなかった。

「君を連れていけない私を許してほしい」

「え?……ふふ、変なの。謝らなきゃいけないのは私の方ですよ。無力で、臆病で……ごめんなさい」

差し出された幸運に縋らなかったのは、笑顔で「遠慮します」と拒絶の言葉を紡いだのは、これが初めてだった。
絶対に手放すまいと思っていたその幸運を、私は、誰かのために手放せるようになっていた。
それ程に私はこの3か月で「幸福の温度」にすっかり慣れてしまっていた。私はその幸福に染まる前の自らの温度を、忘れかけていた。

その温度をくれたのは他の誰でもない、貴方だ。
誰かのために幸福を手放す、その「誰か」が貴方であったという点こそ、私の最上の幸福だった。

長く、本当に長く私達はそうしていたけれど、やがて私の方からそっと腕を緩めた。彼から一歩だけ遠ざかり、笑顔でひらひらと手を振った。
彼は同じように振り返して、そして再び灯りを手に提げて、駆け出した。
あまりにも静かな、寂しい旅立ちだった。村中の人に慕われていた彼の門出であることが信じられないくらい、この夜は静かだった。真に彼のためだけの夜であったのだ。
彼が見えなくなってから暫くして、私は宿舎へと戻り、ベッドの中へと潜り込んだ。
夜風に冷えた身体が温もりを取り戻しても尚、私は眠れなかった。彼から貰った青いボールを強く握って、ただひたすらに祈っていた。願っていた。

どうか、ギラティナが現れませんように。どうか、貴方が自由に暮らせますように。貴方がチェリンボやフワンテを見つけられますように。貴方が海を見られますように。
貴方と話ができて、貴方のことを知ることができて、一緒に笑い合えて、夢を見せてもらえて、その夢に私を誘ってくれて、本当に嬉しかった。
楽しかった。夢のようでした。私は幸せでした。

私は何度もそう繰り返すことで、胸の奥から突き上がるように湧き出てくる「悲しい」「寂しい」「苦しい」という気持ちを、懸命に押しとどめていた。泣くものか、と思っていた。
私の大好きな人が、私の大好きな世界にようやく飛び出せたというのに、大好きな人がようやく幸せになれるというのに、何故、泣かなければいけないのだろう?
泣く必要などなかった。泣きたくなどなかった。涙を零してしまえば、私もいよいよこの村を嫌いになってしまいそうだったからだ。
彼との時間に見出したかけがえのない幸福が、彼との別離に抱いた苦痛に飲み込まれてしまうような気がしたからだ。

貴方を見送れる私でよかったと、いよいよ思えなくなってしまいそうだったからだ。

明け方、窓の空が白み始める頃、私はようやく眠ることができた。
もう私は朝の5時に起きる必要がない。奇跡のようなあの時間は終わったのだと、解っていたから私は7時まで布団から出なかった。
それが3か月前には普通のことであったのだから、また、思い出さなければいけなかった。

村の人がゲンさんの不在に気付いたのは、私達が朝食を食べ終えてからのことだった。
大人の男性たちが慌ただしく走り回っていた。民家や宿舎から怒鳴り声が漏れ出していた。
「波動の勇者の生まれ変わり」と称されていた彼が、忽然と姿を消した。そのことに誰もが驚き、嘆き、案じ、不安そうな顔をして然るべきだと思っていた。
けれど、村は私の予想した表情を作らなかった。彼等は確かに驚き嘆いていたけれど、それは私の想像したような、悲しみや不安といった弱々しい色を呈してはいなかったのだ。

「ゲンの姿が見えない」「ルカリオも見当たらない」「コートとバッグがなくなっている」
「村を出て行ったのだ」「掟に背いた」「裏切り者」「背信者」「恩を仇で返しやがった」「波動の村の面汚しだ」
「気配が森の方へ消えている」「波動が六番宿舎に残っている」「おい、何か知らないか」「子供達を呼んでこい、洗いざらい吐かせろ」

大人達はそうした、気持ち悪くなるほどに乱暴な言葉ばかりを吐いていた。
憤怒と焦燥は紫の波動の形を取り、彼等の周りにべっとりと貼り付いていた。彼等の表情が見えなくなる程の、濃度と粘度の高い紫色の霧だった。
紫色は嫌いだ。荒んだ心の色だから、この色を纏った人からは、惨く酷い言葉ばかりが出てくるから。

「あの子供からゲンの波動を感じるぞ」

一人の男性の声に、村中の人の視線が私へと集まった。
こんなにも多くの人から視線を向けられたことなど、今までなかったものだから、私は驚愕と動揺に心を支配されてしまって、冷静な思考などできる筈がなくて、
……故に、矢継ぎ早に繰り出される大人達の質問に、ろくな答えを返すことができず、「分かりません」と消え入りそうな声音で紡ぐしかなかったのだ。

「昨日の夜、ゲンの姿を見なかったか?」「あいつはお前に何か言わなかったか?」「慌てているようだったか?」「何かを隠しているようだったか?」
「何か変なものを持っていなかったか?」「どちらの方角に走っていったか覚えているか?」「波動の力は使っていたか?」「大きな荷物を持っていなかったか?」

大人達はまだ酔いの醒めていない赤い顔を私に近付けて、アルコールの臭気と共に、そうした質問を次々に浴びせた。
「何も知らない筈がないだろう!」と、大柄な男性に怒鳴られて、私はいよいよ声の出し方を忘れそうになっていた。
宿舎で毎日、私達の朝食を作ってくれている優しい女性が、「そんなに怒鳴らないでやってくださいな」と彼を窘めてくれなければ、私は涙さえ浮かべたかもしれなかった。

けれど、私の唯一の味方になってくれていたこの女性は、私のズボンのポケットが不自然に膨らんでいることに、誰よりも早く気付いてしまった。
「ねえ、その中には何が入っているの?」と、彼女に尋ねられてしまった瞬間、私は全ての味方を失った。ただただ、途方に暮れるしかなかったのだ。

「何か隠しているのか?それを出せ!」

先程の男性が私のズボンへと手を伸べた。お酒に染められた赤い顔がぐいと近付いてきた。
アルコールの息づかいにいよいよ眩暈を覚えて、もうおしまいだ、と絶望して、

「ギラティナ……」

その瞬間、私は「彼」の言っていたことにようやく思い至るに至ったのだ。

『……ギラティナは現れなかったよ。現れる筈がなかったんだ。その日はお祭りで、皆がお酒を浴びるように飲んで泥酔していたからね。』
『お酒の苦さも大人達の苦さも、私にはもう耐えられない。』
『私は、怪物になれない。』
皆がお酒を浴びるように飲んだ日の夜は、ギラティナが現れない。私達が恐れていた怪物は、お祭りの日の夜、泥酔して眠っている。
彼は怪物になれなかった。彼は昨日、村の大人達と共に苦いお酒を一口だけ飲んだ。お酒よりも大人達の言葉が苦かった。彼はそのことに耐えられなくなって、村を出た。


ギラティナは、お酒を飲む。怪物は、お酒を飲む。村の大人達は、お酒を飲む。


「彼」はそういうことを言っていたのだ。彼にはギラティナの正体が解っていたのだ。
その「真実」に気付いて私の息が止まるのと、私のポケットから赤い光線が花火のように打ち上がるのとが、同時だった。

思わずその光を追って空を見上げたのは私だけではなかったようで、私のポケットの膨らみに気が付いた女性も、私のポケットの中身に手を伸べていた男性も、
周りでアルコールの匂いを漂わせていた顔の赤い大人達も、その様子を遠巻きに見ていた子供達も、皆、その赤い光を見上げていた。
赤い光は空に大きな翼を広げ、あっという間にポケモンの形を取る。ざわめきと悲鳴の中、そのポケモンは大きな赤い翼でゆっくりと私の前に下りてくる。
青い体に赤い翼を持ったその大きなポケモンを、この村で見たことなど一度もなかった筈のその生き物を、けれど私は知っていた。

「ボーマンダ!」

彼と一緒にあの本を読んでいた私だけが、その名前を呼ぶことが叶ったのだ。

ボーマンダは私の方を振り返り、しっかりと頷いて咆哮した。
村で暮らしていてはまず目にかかることのない大きなポケモンの姿に、騒ぎを取り巻いていた子供や女性達は驚き、散り散りに逃げ出していった。
けれどルカリオを連れた大人の男性は、ボーマンダの姿に怯みこそしたものの、すぐにルカリオに指示を出した。
一匹、また一匹とルカリオが集まってくる。男性が私を羽交い絞めにして取り押さえる。
頬をぶたれ、腕を捻り上げられ、痛くて、苦しくて、涙が出て、

「逃げて!」

それでも、彼のポケモンを傷付けさせてなるものかと、私は喉が瞑れる程の大声で懇願した。
……けれど信じられないことに、ボーマンダは私と視線を合わせてくい、と首を振った。
優秀な波動使いだけが指示できる、ルカリオの強力な「はどうだん」を何発もその翼で受けながら、それでも決して飛び立とうとしないのだ。

「お願いやめて!やめてください!」

10匹を超えるルカリオの猛攻に、たった一匹が敵う筈がない。それなのに彼は逃げない。今ならまだ、その翼で飛び立てる筈なのに、そうしない。
戦い続けるボーマンダの周りには、白い霧が渦を巻いていた。白は覚悟の色であることを、私はこの時、初めて知った。

ボーマンダは何と戦っていたのだろう。倒されてしまうことの解っているこの戦いで、彼は何を勝ち取ろうとしていたのだろう。
解らない。私の大好きな人が愛したポケモンの考えることは、やはり私の大好きな人と同じように不可解で、解らない。今はまだ、解らない。
でも、いつか解るときが来るのかもしれない。私が、彼の発した不思議な言葉の意味に、随分遅れて気が付いてしまったように。

ギラティナは、お酒を飲む。怪物は、お酒を飲む。村の大人達は、お酒を飲む。


2017.2.23

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