D:休符「フィナンシェ」

翌日も、その翌日も、私は5時に起きることができた。
冷たい水で顔を洗って、窓から外へと飛び出して、彼が私を呼んでくれるのを待って、そっと外へ出た。まだ薄暗い村の通りを歩きながら、他愛もない質問を毎日、1つずつ重ねた。

彼は群青色が好き。心を落ち着かせてくれる色だから。夜空の色だから。星を、より一層綺麗に見せてくれる色だから。
私は黄色が好き。優しい人の周りに漂う色だから。近しい人の周りに漂う菜の花色の波動を見ると、安心するから。

彼はルカリオと一緒に波動を極めることが好き。目を閉じてもパートナーの姿を捉えられることがこの上なく嬉しいから。
見えずとも、命じずとも、ルカリオと心が繋がっているのだと、確信することができるから。
私はリオルにご飯をあげるのが好き。とても美味しそうに食べてくれるから。リオルが喜んでくれるとき、その周りには菜の花色の波動がふわふわと飛んでいるから。
美味しいのだということが、「美味しい」という言葉を聞かずとも、分かるから。正直なポケモンの正直な波動が、嬉しいから。

彼は服のボタンを付け直すことができない。あの細い針に糸を通すことがとても苦手らしい。よしんば通せたとしても、玉結びができない。
だからボタンを失っても、直す気力を奮うことができずによくそのままにしているのだと、困ったように笑いながらそう言っていた。
私は夜、なかなか眠ることができない。昼間にしでかした失敗を思い出して、虚しくなるから。眠ったらまた朝になって、波動の修行の時間がやって来るから。
でも最近はよく眠れている。修行の時間は相変わらず辛く厳しいものだけれど、それより前にゲンさんと話ができるからだ。
明日への憂鬱よりも明日への期待が上回ることなど、私にとっては滅多にないことであったのに、それがずっと続いているから、不思議だ。

彼はサニーレタスが嫌いだ。あの独特の苦さが受け付けられないらしい。
「ドレッシングに浸すようにすれば食べることができるんだけど」と、子供のようなことを口にして、困ったように笑っていた。
私はわさびが嫌いだ。どうしても涙が出てしまう。みっともない顔を見せられないと思って、慌てて、焦って、それが余計に涙を助長させるのだ。
彼が「わさび、私は好きだな」と口にするので、私も負けじと「私もサニーレタスは好きですよ」と告げてみた。彼は至極楽しそうに笑いながら、私のそうした無礼を許した。

彼が「波動の勇者の生まれ変わり」であり、私なんかが話をすることなど本来なら許されないような「畏れ多い人」であることを、忘れたことなど一度もなかった。
けれど彼との時間が1週間、2週間と続くにつれて、彼を言い表すための新しい言葉が、少しずつ、私の中に降りてきたのだ。
「楽しい話をしてくれる、お隣のお兄さん」「ボタン付けのできない波動使い」「ルカリオのことが大好きな男性」「群青色の似合う、素敵な人」
そうした言葉は私の、彼に対する「畏れ多さ」を少しずつ和らげてくれた。
立派な人であり、憧れであることには変わりなかったけれど、それでもそうした彼の中に、まるで私のような人間らしい失敗や短所が潜んでいるのだと、私は知り始めていた。
彼はそうした、自らの矜持を保つために隠しておかなければならないような、失敗や短所の数々を、とても正直に話してくれた。私が知ることを、許してくれた。

彼は神様ではないのだと確信してから、私は、彼の前で過度にへりくだった言葉を並べることを、やめた。
「波動の勇者の生まれ変わり」であり「群青の似合う、素敵な人」であり「楽しい話をしてくれる、お隣のお兄さん」である彼を、私は「慕い」始めていた。
つまりはそうした時間だったのだ。私にとって、この毎朝の30分というのは。

「遺伝子って知っているかい?」

彼と話をするようになって3週間が経過した頃だった。
イデンシ、という聞き慣れない単語に正直に首を振れば、彼は「そうだよね、私も知らなかった」と困ったように眉を下げて笑った。

「例えば私がアイラに「フィナンシェを作ってほしい」と頼んだとしよう」

「フィナ……?」

「そう、知らないよね。そういう名前の焼き菓子があるんだ。
君はそのフィナンシェを知らない。でも作らなければいけない。君は料理が好きだから、その聞き慣れないお菓子を作ってみたいと思った。……さあ、何が必要かな?」

フィナンシェ、という単語は、どうやらお菓子を表すものであるらしい。
ドーナツやクッキーを作るときは必ずと言っていいほどに、小麦粉とお砂糖が必要になる。そのお菓子も焼き菓子であるのなら、きっとこの二つは必要だ。
けれど、そのお菓子を見たこともないのに、これ以上の材料を集めてくることなど、できない。推測だけでは何も生み出せない。

「材料がなければお菓子は作れません。でも、どんなものかも分からないから、何を集めればいいのか……。せめてレシピがあれば、」

「そう、レシピが必要だよね。レシピには、どんな材料が必要であるか、何をどういった順番で入れるか、どれくらいの温度で焼くか、といったことが書かれている。
これがなければ何も生みだせない。そして、それはお菓子に限ったことではないんだ。私達にもレシピが必要だ。「遺伝子」とは私達のレシピを表す言葉なんだよ」

フィナンシェを作りたいと願う私のためのレシピ。私達を造らなければならない誰かのためのレシピ。
見知らぬ焼き菓子と私達のような人間が同列に扱われていることがどうにもおかしく思われてならず、私は笑いだしそうになったのだけれど、
諭すように言い聞かせた彼の目が、暗がりの中でも不思議な蒼を纏っていることの分かるその目が、全く笑っていなかったから、
私は喉まで込み上げてきていた楽しい気持ちを飲み込み、真剣な面持ちで彼を見上げるほかになかったのだ。

私達が誰かのレシピによって生み出された存在である、という事実。誰かの手によって造られているという事実。
「そのレシピは何処にあるんですか?」と尋ねれば、彼は僅かに微笑んで私を指差した。
思わず服の裾を叩いたり首筋に触れてみたりしたけれど、彼はいよいよ楽しそうに吹き出して「どうやら見えるものではないみたいなんだ」と補足してくれた。

「遺伝子は君の中にあるんだ。私にも君にも、誰にだってあるものなんだ。
……そして、遺伝子はこの世に生まれてきた時から決まっているものだ。だから私が君になりたいと思っても、君の遺伝子を貰い受けることはできないし、その逆もまた然りだ」

「人のレシピはその人だけのもので、他の人に使えるようなものではないんですね。フィナンシェのレシピは書き写して、誰でも使うことができるのに、不思議だなあ」

「うーん、どう言えばいいかな。……例えは此処にドーナツがあったとして、それをフィナンシェに作り変えることはできないだろう?
君はもう既に君の形で出来上がっているから、例えば君の目が赤色になったりするようなことは、……おそらく今の技術では、不可能なことなんだよ」

私達の中に、私達には見ることのできない不思議なレシピがある。
私達はドーナツやフィナンシェのレシピを使って、ドーナツやフィナンシェを作ることはできるけれど、
私達が私達のレシピを見ることはできないし、そのレシピを使って私達を造ることもない。
その見えないレシピはきっと、神様だけが見ることの叶うものなのだ。人間には到底使いこなせないような、大きすぎる力なのだ。
命を作ること、命のレシピを作ったり持ち運んだりすることは、波動の力をもってしても不可能なのだ。

「……君ならどうする?それでも人間を作ってみたいと思うかい?なりたい自分になれるレシピがあったら、欲しいって、使いこなしたいって、そう思ったりはしないかい?」

まるで、自らのおやつとして蓄えていたクッキーを一枚譲り渡すかのような、あまりにも呆気ない響きで、軽い口調で、その甘美な神への誘いは私の前へと差し出された。
この人は何を言わんとしているのだろう?そんな凄まじく恐ろしい力を「欲しいか?」などと問うたところで、そんなもの、手に入ることなど在り得ないと、解っているのに。
私にも分かるようなこと、この立派な人だってとてもよく解っている筈なのに。

「……立派な人になりたいと、思っています。でもそのために神様みたいな力を手にするのは、少し違う気がします」

「君は立派な波動使いになりたいんだろう?そんな風に君を作り変えてくれるレシピが、もし君の思い通りになったなら……。君は、手に取ってしまうのではないのかい?」

息を飲んだ。朝もやの中に佇む彼の気配が、とても恐ろしい色をしているように思われたからだ。
勿論、そんなものは気のせいだ。彼の波動は見えない。
自らの波動をコントロールする術、それを彼はしっかりと心得ているから、どれだけ心を乱したとして、彼の周りに霧や風や泉は見えないのだ。彼はそういう人だった。
けれど、そんな彼は自らの表情に嘘を吐くことがとても苦手であるようだった。彼の笑顔は、彼の視線は、雄弁だ。
だから今の彼がどれ程恐ろしいことを考えているのか、彼の波動を拾えない私にだって解ってしまう。
この人は私を試そうとしている。この甘美な誘惑は、きっと私への試験なのだ。

……けれどそうしたことを彼の表情から読み取れることと、彼の、質問の形をした試験への最善解を私が導き出せることとは全く別の話だ。
彼が何を言わんとしているのか、その質問の意図すら解りかねているような私が、彼の本当に求めている答えに辿り着ける筈もない。
故に困り果てながらも、自らの想いに正直な言葉を選ぶしかない。

「少なくとも、そんな大き過ぎる力、私のような人間が持つべきものじゃないと思うんです。もっと立派な、」

「もういいよ、ありがとう」

ぴしゃりと、遮るように発せられたその声に、私はいよいよ泣きたくなってしまった。
ああ間違えたのだと、私は彼に試され、そして敗れたのだと、私は彼の試験に合格することができなかったのだと、そうした真実が私の胸の中を嵐のように吹き荒らした。
彼は困ったように一瞬だけ笑ってから、ふいと私から視線を逸らした。凍り付いた池の中に投げ込まれたような心地だった。
吸い込んだ息はいよいよ冷たかった。長い冬が訪れようとしていたのだ。稲穂の作っていた黄金色の海は、つい先日、稲刈りによってばっさりと殺がれてしまっていた。

不合格の通知を、あろうことか優しい「笑顔」の形で差し出されてしまった私は、次に紡ぐべき言葉を失い沈黙するほかになかったのだ。
何も言えない。ごめんなさいと謝ろうにも何が悪かったのか、解らない。弁明しようにも最善解は未だに見えていないのだから、どうしようもない。

……でも、貴方だっておかしい。さっきから貴方は、訳の分からないことばかり口にしている。

卑怯な私はこの絶望の犯人を捜し始めていた。
勿論、彼の言葉を理解できない私も悪かったのだろう。けれどそれ以上に、そうした私の愚かさを知っていながら、そんな難しい言葉を選ぶ彼のことが、どうにも解せなかった。

「貴方は、私を測り違えています……!」

彼は弾かれたように、振り向いた。


2017.2.22

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