執筆:2021.2.13(ゲーム本編5章終了後) ※砂鱗(さりん)は造語です。険悪、微グロテスク注意。 <1> ガシャン、パリン、パキパキ。そんな音が植物園の片隅でひっきりなしに響く。ガラス製品のゴミの回収は月に一度しか行われない。毎日ところかまわず瓶の類を集めて回っているジェイドが、それらを精査し「ふるい」に掛ける日はそのゴミ出しの前日と決まっていた。手に取り、作りたい箱庭のビジョンに合致するものであれは棚へ飾る。使い勝手が悪そうであれば廃棄する。ひび割れや欠けがあるものも保存性に欠くため廃棄。使えそうだが今はインスピレーションが沸かないというものは一応、段ボールに箱詰めして保管しておく。近い将来に活用するため棚へ向かうものが全体の一割、段ボール行きが二割弱、残りの七割ほどは全て廃棄だ。そして、大量の瓶や水槽をそのままの形でゴミに出すと非常にかさばるため、ジェイドは必ずそれらを予め割るようにしていた。 ゴーグルと安全靴を装備し、ゴミ出しに備えて大量のガラス製品を割り尽くすことは、ジェイドにとって月に一度の恒例行事である。豪快に、かつ合法的に破壊を行えるこの時間はある種心地の良いものでもあった。けれども本日はいつもと勝手が違っていた。何故なら植物園には最悪の先客がいたからだ。 「煩いでしょう? 立ち去っていただいて構いませんよ」 「……」 一年の魔法薬学実習に用いる薬草、その栽培域が近くにあることを失念していたのはジェイドの落ち度で、更に言えば先んじてこの場にいたのは彼女の方だ。本来ならば立ち去るべきはジェイドの方であり、追い払うようなことを言われる謂れはないと無言で睨み上げられるのはもっともなこと。 けれどもジェイドとて、月に一回必ず使っているこの場所をみすみす彼女に譲り渡したくはないし、今日この時間を逃してしまえばこのガラスたちを割り切ることができない。夜はモストロ・ラウンジでの業務があり、明日は一限目から飛行術のためいつもより早めに食堂へ赴き、多めに食事を摂っておかないとエネルギー切れを起こす。今日の放課後しかないのだ。譲るわけにはいかない。ましてや、あなたなどには絶対に。 極めて無口な監督生。おそらくは饒舌な部類に入るであろうジェイド・リーチ。この二人の関係は、お世辞にも温和なものとは言えなかった。フロイドやアズールに対しては一定の礼節を弁えて接しているにもかかわらず、ジェイドがそこに割って入るや否や、彼女はあからさまに顔色を変えてその場から逃げようとする。引き留めた際にこちらを睨み上げてくる、あの目にたっぷりと込められた嫌悪の濃さたるや見事なものだった。 魔法も使えない、身寄りもない、体も小さい、ろくに喋ろうとさえしない、稚魚にも劣る分際で、このオクタヴィネル副寮長によくそんな態度ができたものだとジェイドは思う。「そういう風」に思われていると感じ取っているのだろう、監督生は益々ジェイドと距離を取る。彼女が遠ざかることはあれど、近付いてくることは決してない。そうした関係に二者はあった。おそらく監督生はそれでいいと思っている。ジェイドとは違って。 厄介なことに、この監督生はジェイドとフロイドの区別が付く数少ない人物の一人だった。顔の造形、背格好、共に共通点の多い彼等は時折、目の色や髪の癖を片割れのものと入れ替えて遊びに興じる。見抜ける者はごく僅か。その「僅か」の中へ、監督生はあっという間に滑り込んできた。 フロイドになりきった上で話しかけても彼女は「ジェイド」に対する警戒心を露わにする。逆にジェイドになったフロイドが声を掛けても彼女は逃げずにしっかり話を聞く。出会って半年も経っていないのにここまではっきり見分けが付くなんておかしくはないだろうか。けれどもそのことを先日フロイドに告げたとき、片割れはゲラゲラと笑いながらジェイドの疑念を的外れだと指摘してきた。 『なぁに言ってんのジェイド、小エビちゃんはオレのことなんか見てねえって!』 曰く彼女が見ているのは「目の前の奴がジェイドか、ジェイド以外か」だけであるのだそうだ。目の前の存在が自分にとって脅威か否かを感じ取る能力が高いのだろうね、とはサイエンス部に属する先輩、ルーク・ハントの考察である。 成る程すなわち、自分は監督生にとって脅威であると? それは当然だろう。海の人魚を甘く見ないでいただきたい。けれども同じ人魚であるはずのフロイドとアズールを脅威としないその姿勢はやはり釈然としない。自分の脅威がアズールやフロイドに大きく勝る、などという驕りを抱ける程、ジェイドの自己評価は高くはなかった。勿論、二人に劣っていると思える程、謙虚であるという訳でも決してなかったのだが。 ガシャン、パキ、パリンパリン。 そうした全ての情報を整理した上での結論として、やはり監督生は……ジェイドを嫌っているようであった。ジェイドもまた同様に監督生を嫌っていた。そして繰り返すが監督生はそれでいいと思っているようであった。またしても繰り返すが、ジェイドとは違って。 ジェイド・リーチは苛立っていた。このような埋まらない溝に隔てられたままでは、どう足掻いても彼女へ踏み入れることなどできやしないと分かっていたからである。 そうしたことを考えつつ、足元ばかりを見てひたすらに瓶を割り続けていたジェイドは、そこに突如として差した影に、息が止まるのではないかという程に驚いた。必要な薬草を全種類、必要なだけ摘み終えたと思しき監督生が、ジェイドのすぐ近くまで来て立ち止まり、散らばった色とりどりのガラスの破片をじっと見つめていたからだ。 現在、彼女との距離はおそらく二メートルを切っている。二人きりの空間において此処まで近くに寄られたことはジェイドの記憶ではこれまで一度もなく、故に彼はあからさまに狼狽することとなった。さて何をしようとしているのでしょうね、下手な動きをすれば問答無用で摘まみ出しますよ、などと内心で呟きつつ警戒心を露わにする有様だった。馬鹿げている。こんな魔法も使えない、身寄りもない、体も小さい、ろくに喋ろうとさえしない、稚魚にも劣る存在に、何故自分が、フロイドの片割れでありアズールの腹心たるジェイド・リーチが、よりにもよって狼狽などしなければならない? 「……」 彼女はジェイドの方を一度も見ることなく、まだ割られていない瓶の山へと視線を移し、その小さな手を伸ばして一つを拾い上げた。それのみ既に「何かが植えられていた」と思しき土の汚れが残っていたため、目に付いてしまったのだろう。指を瓶の中にそっと差し入れ、中に残った土がまだ僅かに湿っていることに気付いたらしく、彼女は不思議そうに首を捻りつつ顔を上げて、こちらを見た。ジェイドの方を、見ていた。 ……睨み上げる以外の方法で彼女にこうして「見られた」のは、初めてのことだった。 「テラリウムに失敗したんです。中身はつい先程捨ててきました。僕の采配では上手く育ってくれなかったもので」 馬鹿正直にそう説明した己を恥じながらも、何故だかジェイドの口は止まらなかった。もしかしたら自分も、フロイドやアズールのように会話らしい会話を……相手が無言を貫き通す様を会話と呼んでいいのならば……することができるのかもしれないという、馬鹿げた期待に心臓が妙な弾み方をした。その会話の内容が、ジェイドが陸に上がって以来傾倒し続けてきたテラリウムであるのだから、尚の事。 「陸の植物は不思議ですね。同じ山にたくましく生えているものなのに、ひとところに集めてしまえばにわかに繊細になる」 同じ山を出身としているはずなのに、すぐ近くに別の存在が寄せられることを嫌う植物もいる。一定の距離を取らなければ安全でいられない生き物たちがいる。その残酷さがジェイドにとってはとても愉快で、興味深い。思うようにいかないことがあるのは面白いものだ。予定調和の崩れは歓迎されるべきだ。ジェイドの矜持を損なわない限りにおいて。 監督生はその丸い瓶を両手で抱え、土で汚れた底の部分に視線をそっと落とした。かつてその中にあった世界を慈しむような所作がジェイドの心臓に鋭く爪を立てていった。あなたそんな顔もできたんですね、などと揶揄する余裕などあるはずもない。それは勿論、監督生がジェイドを嫌い、またジェイドも監督生を嫌っているから起きる胸のざわめきである。そう……それ以外に理由などあるはずもない。ただそうした個人的な問題を抜きにして見ても、彼女の、今はない世界を思ってがらんどうを抱くその姿、その横顔は、素朴ながらも妙に綺麗だと思えた。 「気遣ってくださっているんですか? 大丈夫ですよ、気にしていません。その小さな世界を管理する神に……僕は相応しくなかったというだけのことですから」 「……」 「おや、そうではない? 気にしているのは僕の心持ちではなく植物の方だと? ……ふふ、そうでしょうね。僕としたことが見誤りました。あなたが僕を気遣うなんて、在り得ない」 そうした、あらゆる意味で鑑賞に足る空気を宿した彼女から、土に汚れた瓶をジェイドは奪い取る。すぐにそのまま長い腕を大きく掲げ、勢いよく振り落とした。 「……」 ガシャン、パリン、パキパキ。 小気味よい音を立てて割れたガラスを、踏み抜き防止の加工が施された安全靴で踏み潰し、体重を掛けることで更に細かく割った。がらんどうの世界がキラキラと瞬く細かい砂へと変わっていく様を、監督生は無表情で見つめていた。がらんどうの瞳だった。ジェイドがかつて死なせたあの世界を映しているかのようだった。何を考えているのか本当に分からなくて、それがいっとう不快に思われてジェイドは更に踏み拉いた。何度も何度も砕いた。止まらなかった。 まるで空気を殴っているようだ。陸の諺ではこれを「焼石に水」と言うのだったか。ジェイドが何をしても、何もせずとも、彼女の心を動かすことなど叶いはしないのだということが、彼が何かする度にこうして証明されていく。声を掛けても返事は来ない。瓶を奪い取っても抗議しない。叩き割っても悲鳴のひとつさえ上げやしない。がらんどうの世界などに向ける慈愛はあるというのに、虚空にさえ向ける情をあなたは持っているというのに、どうしてその分を少し、ほんのひとつでも僕に寄越そうとしてくださらない? 何故僕が、僕だけがここまで嫌われなければならない? 「あなたも、割ってみますか?」 キラキラと光る砂から顔を上げ、彼女はこちらを見た。目が合ったことに僅かな期待の色を見る。たったそれだけのことでジェイドの溜飲は僅かばかり下がる。少しばかり浮ついた心地のままに、言葉が零れる。 「よければこちらもどうぞ。ひび割れや欠けがあるものばかりです。ゴミ出しをする際、小さくまとめるためにどうせ割ることになるので……あなたの気晴らしに使っていただけるのであれば、こちらとしても手間が省けて助かります」 彼女はしばらく悩む素振りをしたが、やがてジェイドが「目の保護に」として渡した実験用ゴーグルを受け取り、しっかりと装着した上で小さな丸い瓶を手に取り、振りかぶった。 ガシャン、パリンと豪快に音を立てて散らばるガラス。それを見て彼女はふっと微かに笑った。息を飲む音を誤魔化すようにジェイドは大きな破片を安全靴で踏み潰した。情けないことではあるが、ジェイドはこの至近距離で彼女の笑顔を見る機会にはこれまでついぞ巡り合えていなかったのだ。ささやかな破壊衝動を満たす爽快な遊びの中、思わず零れ出たと思しきその笑顔に、驚くなという方が無理な話だったのだろう。 ガラスを細かく砕きながら、これは一度、距離を取るべきかもしれないとジェイドは考えた。これ以上、傍に留まって彼女との何かが良い方向へと変わる可能性より、彼が彼女の前で無様を晒すリスクの方が遥かに高いように思われたからだ。 ゴーグルを外し、いつもの靴に履き替えてから監督生へと声を掛ける。ゆっくりと割り進めていた彼女は顔を上げ、やはり真っ直ぐにこちらを見た。 「遠くへ散った小さな破片のことは、どうぞ気にしないで。全部割り切ってから、魔法で集めるようにしていますので」 「……」 「少し席を外しますね。どうぞ気が済むまで遊んでいってください」 歩幅を違和感のない範囲で限界まで大きくして、植物園の出口へと向かう。コツコツという己が靴音が妙に耳障りだった。パリン、パリンと割れていく瓶の音は、植物園の扉を閉めることでほぼ聞こえなくなった。 * 平静を取り戻すためにジェイドが外へと出ていた時間は僅か十分くらいのものだった。慣れている彼ならともかく、破片を恐れながらのんびりしたペースで瓶へと手を掛けていた彼女が、たかだか十分で全てを割り切れるはずもないだろうとジェイドは予測する。「気が済むまで」と告げた以上、本当に気が済んでしまう、あるいは飽きてしまうなどすればいなくなっている可能性もあるが、何となく、彼女はまだあの空間で瓶を割り続けてくれているのではないかと思ってしまった。 そうしたジェイドの予想に反して、植物園には静寂が下りていた。容易くないな、とジェイドは思った。惨たらしい人だ、とも思った。彼にとってそうした残酷さはとても愉快で、興味深い。思うようにいかないことがあるのは面白いものだ。予定調和の崩れは歓迎されるべきだ。ジェイドの矜持を損なわない限りにおいて。 そう、故にこの崩れを今の彼は歓迎できない。思うようにいかないことの連続は、こと彼女との関係においてはジェイドをただただ疲弊させ、その矜持を損なわせるばかりだ。焼石に水。空気を殴っているかのよう。分かっているのに足は、もう彼女がいないと分かっている元の場所へ向かおうとする。止まらない。これでは自分から傷付こうと捨て身で特攻しているようなものだ。馬鹿げている、本当に。 「えっ」 植物園の扉を後ろ手に閉め、視線を園内へぐるりと泳がせた彼は思わず間抜けな声を零した。植物園の奥へと続くアスファルトの道に、異様な色の模様が点々と付いていたからだ。屈んでじっくり確認せずとも臭いで分かる。赤……明らかに人の血だった。此処が海であれば、そして自分が人魚の姿であれば、水に溶けた血液が誰のものであるのか即座に嗅ぎ分けることができただろう。けれども此処は陸であり、自分は人間の姿をしている。にもかかわらず、海にいるときよりも遥かに鈍くなった感覚でさえ、ジェイドはこの血が誰のものであるのか、即座に思い至れてしまった。 確信を得るためにあのガラスの海へと戻る暇さえ惜しく、閉めたばかりの扉へと再び手を掛けて植物園の外へと飛び出した。アスファルトへと視線を落とせばそこにも鮮明な赤がしっかり滲んでいる。考え事をしながら歩いていたためか、違和感に気付かなかったらしい。風も強く吹いていたため、血の臭いが鼻腔に飛び込んでくることさえなかったのだ。 血濡れのアスファルトを蹴り飛ばして、ジェイドは全速力で道を駆けた。何処へ向かったのかと推測するまでもなく、散らばった赤が彼女の行方をはっきりと示してくれていたので、道に迷うなどということは最早あるはずもなかった。血の跡の方向を見るに、彼女はメインストリートではなく人通りの少ない小道の方を選んで、本校舎に向かおうとしているようであった。 グレートセブンの石像を遠くに認めたあたりで、それよりも少し近いところに彼女の背中が見えた。左足を引きずるようにして歩いている。ゴーグルさえ掛けたまま植物園を出てきたらしい。いや、それよりも何故、靴を履いていない? 何故、黒い靴下を赤く染めてまで外に出た? 何故、そんな状態で此処までの長距離を歩いた? 何故、そんな怪我を? それら全てを問い詰めるべく、体内で暴れ回る心臓にもうひと頑張りしてくれと叱咤し、尾びれが裂けてしまうのではないかと思う程の歩幅で疾走して。 「待ちなさい!」 ぐらぐらとふらつきながら逃げようとしていた彼女の肩を、掴んだ。