砂鱗

 

<2>
「あなた……何をしているんです」

  こんな風に肝が冷えたのはアズールのオーバーブロットに居合わせた日以来のことだ。そう思いながらジェイドはその場に屈んで、監督生の左足を掴んだ。軽く持ち上げて、裏を覗き込むようにして見れば、赤の潜んだ靴下にはもう一種類、潜んでいるものがあった。キラキラと光る、ガラスの欠片である。
 ……ここまで来ればもう明白だ。彼女はジェイドがあの場を不在にした十分足らずの間に、ガラスの破片の山、キラキラと光る砂の海へと左足を突っ込んだのだ。不注意による事故を一瞬疑ったが、わざわざ靴を脱いだ状態で都合よく事故に遭いに行く愚か者がいるはずもなかった。そんなものはもう「事故」と呼ぶべきではない。彼女は自ら望んで靴を脱ぎ、自らの意思でガラスを踏んだ。眩暈のするような愚行だが、この状況を鑑みるに、もうそれが事実であるとしか思えなかった。

「少し、此処へ座ってください。靴下を脱がせて傷を見ます」
「……」
「お願いします、許可を」

  跪いて睨み上げた先、目元を隠した彼女の首が縦に動いたのを確認してから、ジェイドは左足の靴下をそっと脱がせる。案の定、ぽたぽたと落ちる血に混じって、ガラスの欠片がキラキラと散った。白い足の裏にも当然のように無数の破片が突き刺さり、血で汚れている。この状態で長距離を歩いてきたのだから、幾つかは皮膚にめり込んでしまっているだろう。あまりにもグロテスクで痛々しい様を目の当たりにしつつ、今できる応急処置を、と考えたが、手持ちのマジカルペンで感覚鈍麻、……麻酔の魔法をかけて痛みをなくしてやることくらいしか思い付かなかった。
 さて治癒系の魔法のコツはどうだったか、と思い出しながらペンを振ったジェイドは、ガラスの透明と血の赤と肌の白で構成された足の裏に、妙な茶色が混ざっていることに気付いた。血が変色したものかと思ったがそうではない。手袋を脱ぎ、指先で拭うや否やそれが「土」であることを察して、ジェイドはこんな事態にもかかわらず笑い出したくなってしまった。

  何十もの瓶により出来上がったガラスの海、それを思い切り踏んだと思しき監督生の足に付いた土。その出処は推理するまでもない、ジェイドが采配を誤って枯らせてしまったあのテラリウムに違いなかった。どうやら監督生はあのガラスの中から、ジェイドの采配を外れた世界たちの成れの果て、彼女が抱いたがらんどうをわざわざ選り好みして、踏み抜いたらしい。
 馬鹿げたもの好きの有様に絶句しつつ、深く俯いた彼女のゴーグルに手を伸ばして、許可さえ取らず無理矢理に外した。ゴーグルのレンズ部分には涙と思しき小さな水溜まりが出来ていて、思わず息を飲む。泣くほどの激痛であったはずなのにこんな愚行、どうかしている。

「ねえ、どうなさったんですかあなた。どうして、こんなことを」
「……」
「もっとまっとうに生きられる方だったはずでしょう。あまりに僕を嫌いすぎて気が触れでもしましたか?」

 彼女はゆっくりと首を振った。制服の袖で何度も目元を拭った。引きつったような嗚咽を零しながら、その合間にたった一言、これだけ紡いだ。

「早く帰りたい」

 零れ出たその音からは潮の香りがした。幻だと分かっていても、ジェイドはそこに海を感じずにはいられなかった。……酷いことではあるが「これ」が、彼女がジェイド・リーチという男に向けて紡いだ初めての言葉となった。記念の音とするにはあまりにも最低な響きに、ジェイドは己が鼓膜をペン先か何かで貫き潰してやりたくなった。

 ジェイドは人魚である。彼の故郷は珊瑚の海にあり、彼女と同じ人間の姿をしているのは今だけだ。片割れや友人と、卒業後の進路について話し合ったことはまだないが、ジェイドとしては「いずれ、海に帰ることになる」という心持ちでいる。その認識を崩したことは今のところまだ、なかった。
 ジェイドの故郷は海である。その事実は揺らがない。故郷への想いが塗り替わることなど在り得ない。ならば監督生にとっての「海」もそうであって然るべきだ。その海が、此処からでは到底辿り着くことの叶わない遠く、遥か彼方にしかないものであったとしても。帰りたいと嘆いてもそう容易くは帰れないような、異世界と呼ばれる場所にあったとしても。

 ジェイドは苛立った。たいそう苛立った。どう足掻いても彼女の心が手に入ることなどないと分かってしまったからである。
 ジェイドの心が海から移ることが在り得ないように、彼女の心がジェイドの辿り着けないその異世界からこちらへ移ることもまた同じように在り得ないのだということが、とてもよく理解できてしまったからである。

「あなたのことが嫌いです」

 そう告げて、監督生の膝裏に腕を差し入れ、抱き上げた。格別痩せている訳でも極端に小柄であるという訳でもなかったが、されるがままにされている彼女の質量をジェイドはひどく「物足りない」と感じた。まるで空の器……がらんどうを抱き上げているかのようだ。

「どうあっても僕に心を許してくださらない、挨拶や他愛ないお話の慈悲さえ掛けてくださらない、非情で卑怯で強情なあなたのことが、誰よりも何よりも嫌いです」

 仮に……彼女の恐れる「脅威」とやらで、力づくで手に入れて閉じ込めてしまったとしても、きっとジェイドの采配では上手くいかないだろう。彼女はどう足掻いても手に入らない。捕らえたとしても、彼女はあのテラリウムのように、瓶の中で大人しく枯れていくしかない。自分の管理できない世界に彼女を置くことをジェイドは望まない。彼では、彼女の神に相応しくない。
 どうせ手に入れられない心だと分かっているから、貶して、汚して、できる限り遠くへ遣るしかなかった。十分すぎる程に距離を取って生きていけば、いつか彼女に対するどす黒い心持ちも薄れるだろうと考えていた。にもかかわらずジェイドの足はそうした「合理」を無視して、頻繁に彼女の元へと向かっていく。一人のとき、フロイドやアズールと一緒にいるとき、その視界に監督生を認めるや否や、ジェイドの足は必ずそちらへ向かう。距離を取られ、後退られ、声を掛ければもれなく睨み上げられ、繰り返し傷付いていくだけだと分かっているのに。

 今日、植物園にてあそこまでジェイドが狼狽したのは、これまで彼の方からしてきた「歩み寄り」を先んじて彼女に許してしまったからだ。割れたガラスの海へと近付き、枯らしたテラリウムの器を抱え持ち、ジェイドにではなくもうそこにはない枯れた植物を思って悲し気に眉を下げた彼女に、どうしようもなく困惑し、苛立ち、焦がれてしまったからだ。
 どうせ手に入らない存在に歩み寄られることはひどく気分が悪かった。不快だった。だから瓶を割り、威嚇めいた行為で彼女を威圧し、ジェイドから遠ざかった。まるでこれまでとは逆の有様である。これまで彼女がしてきたことを、ジェイドが同じように繰り返している。
 馬鹿げている。……馬鹿げている。逃げるのが、困惑するのが、狼狽するのが、焦がれるのが、ジェイド・リーチであっていいはずがないのに。

「わたしも」

 そんな苛立ちを読んだかのように、彼女はジェイドの腕の中でたったそれだけ、紡いだ。
 わたしも。……わたしも? その意味を理解した瞬間、ジェイドは誤って監督生を落としてしまうのではないかという程に狼狽した。まさか、そんなまさか。

 ねえ、まさか僕と全く同じことをあなたが先んじてしていたとでも? 僕に心を許さないのも、挨拶や他愛ない話の慈悲さえかけてくれないのも、睨み上げつつ遠ざかるばかりであったのも、全て、全てそうした理由だったとでも? 一刻も早い帰還を望んでいるような言葉が零れ出たのだって、寂しさとか郷愁とかそうした理由ではなく……「これ以上の無様を晒したくないから」と植物園を出た先程の僕と、やはり全く同じ理由だったとでも?
 困惑していたのも、狼狽していたのも、焦がれていたのも、故に逃げなければならなかったのも、僕だけではなかった? 全て、全てこれらはあなたのものだった? ねえ、あなたは。

「あなた、僕をそんな風に嫌わなければやっていかれない程に、僕のこと」

 好きだったんですか。
 そう尋ねようとしたけれど、できなかった。彼女が涙に濡れた目でこちらを見て、ひどく挑発的な笑みを浮かべたからだ。

「貴方だって」

 見抜かれている。魔法も使えない、身寄りもない、体も小さい、ろくに喋ろうとさえしない、稚魚にも劣るただの少女が、このオクタヴィネル副寮長を、ジェイド・リーチの心を見抜き、暴いている。

 予定調和が散々に狂う様を、ジェイドはここに来てようやく「面白い」と思えた。見事だと、愉快だと、実に楽しいと、そうしてたいへん満足できた。その上でこの心に深く付けられた傷を思うと……成る程確かに、自ら好んで傷付きに行く愚行も、悪くないのかもしれないと思えてしまった。左足を血染めにしておきながらひどく満足そうに笑うこの監督生も、同じ心地だったのだろうか。

 ねえ、ここまで破滅的なまでに相思相愛なのであれば、こんな不毛なこともうやめてしまいませんか? とは、どうしても言えなかった。
 そんなことをジェイドの側から言い出すのは矜持が許さない、とかそういった理由ではない。たとえこの虚しいだけの冷戦が終わり、互いが互いを本当に、まっとうに正直に、真心をもって大事に想い合えるようになったとしても……そんな幸せは二人の未来を何一つとして保証しないと分かっていたからだ。
 監督生の海とジェイドの海はどこまでも相容れない。陸どころではなく、世界に隔てられているこの距離は、たとえ伝説に聞く「真実の愛」とやらがあったとしても、埋まらないものだ。
 それが分かっていたから監督生は先んじてジェイドを嫌うことにしたのだ。その嫌いぶりがあまりにも徹底していたために、ジェイドもまた彼女に踏み入ることなど叶わないと判断して、同じように嫌わなければやっていかれなくなったのだ。

「ねえ、僕等……僕等なんて不毛で、馬鹿げたことをしていたんでしょうね」

 不毛なこと、馬鹿げたこと。そんなことは互いに重々承知の上。それが愚行だと認めても尚、続けなければいけない理由が双方にある。だからきっとジェイドも監督生も、明日になればまたいつものように互いを嫌い合うようになる。手に入らないと分かりきっているものに対して折り合いを付けるべく、汚して、貶して、遠ざけようとするはずだ。そうとも、明日からまたそうするのだと、そうした決意が込められているかのように、彼女は無言のままに勢いよく首を横に振った。

「貴方の泡を、見たくないから」

 けれども更に零れ出た彼女の側の「理由」が予想外のものであったため、おや、とジェイドは呟き小さく笑うことになってしまった。恋に破れた人魚は泡になって消える、などという、陸の人間がいかにも好みそうな伝説……お伽話を、どうやらこの陸の人間は本当のこととして鵜呑みにしてしまっているらしい。涙声でジェイドの消失を嫌がる様が、随分と幼く、また可愛らしく見えてしまった。なんだかとてもいい気分だ。ねえもう少し、もう少しだけでいいから泣いてくださいませんか。僕のために、僕だけのために。

 左足だけを血染めにして、右足を全く無傷のままにふらふらと揺らす彼女を抱えて医務室へと向かいながら、ふと彼は、逆に監督生が人魚になってしまったらどうなるだろう、と考えた。この人にひらひらとした赤い尾ひれが宿る様は、きっと目が覚めるように美しいはずだ。きっと誰もが彼女を好きになる。片割れも、大切な友人も、そして僕も。そこまで想像して、どうしようもなく虚しくなった。
 そんな未来はあってはいけない。二人はどこまでも相容れないところにいなければならない。どうせ手に入らないのだから、遠ざかり合うしかない。

 好きになってしまったのだから、嫌うしかない。
 
*

 慎重に人目を避けつつ校舎へと向かい、医務室の扉をジェイド一人で叩いた。出てきた校医に適当な嘘を告げて医務室から追い出し、人払いを済ませ、廊下の角で隠れていた監督生を再び抱き上げて医務室のベッドへと座らせた。感覚鈍麻の魔法がまだ効いていることを確認した上で、棚から消毒液やガーゼやピンセットなど、使えそうなもの一式を取り出してテーブルの上に並べた。

「怖がらないで。痛くしたりしませんから」

 そう告げた上で、土に汚れている部分の消毒を手早く済ませる。綺麗になったことを確認してからピンセットを構えて、足の裏に突き刺さったガラスの破片を一つずつ慎重に取り除いていった。色とりどりのガラスがあの中にはあったというのに、監督生の足に刺さっているのは透明なものばかりだった。ああやはりあのテラリウムのガラスを狙って踏み抜いたのだといよいよ確信する。そんな彼女のもの好きを、けれども今度はクスクスと笑いながら祝福してみせるだけの余裕があった。彼女もまた、植物園にいたときよりも随分と緩い表情でジェイドの手捌きを見てくれていた。
 警戒心や敵意の完全に取れた彼女はひどく穏やかで大人しく、眼差しはひたすらに優しかった。とても好ましい有様ではある。心を許し合うとはこういう状態のことを言うのかもしれない、とも思う。そうした理想に近い状態が目の前にある、にもかかわらず、ジェイドはそんな彼女を少し「物足りない」と感じてしまった。そう、これでは頼りない。物足りない。ジェイドが焦がれ、何としてでも手に入れたいと願った彼女の心は、こんなにも穏やかで大人しく優しいだけのものでは、在り得ない。

 であるならばきっと……互いを徹底的に嫌い合ってきたこれまでの、いやこれからも続いていくこの不毛で馬鹿げた関係は、もしかしたら二人にとっての最適でさえあるのかもしれなかった。
 彼女は容易くない人。彼女は惨たらしい人。その方がいい。そうであってほしい。そうした残酷な相手はとても愉快で、興味深い。思うようにいかないことがあるのは面白いものだ。予定調和の崩れは歓迎されるべきだ。ジェイドの矜持を損なわない限りにおいて。そして少なくとも、自身と少女のどうしようもない想いの在り様を知った今の彼ならば、もう彼女のもたらす「予定調和の崩れ」に傷付かなくて済む。矜持を失わずに済む。ならば楽しみ尽くしておこう、ガラスの海に赤を溶かす遊びに激痛を承知で挑んだ、彼女のように。

「もう、いい」

 あと一つ、小さな欠片が埋まっていると思しき膨らみを残した状態で、けれども監督生はジェイドの処置を拒み立ち上がった。今は麻酔が効いている状況であるために痛みはないだろうが、切れてしまえば体重を掛ける度に激痛が走るはずだ。最後の一片は土踏まずに相当する部分であったため歩行が立ちいかないレベルにはならないのかもしれないが、それでも取り除くに越したことはないはず。それを「もういい」として拒む理由。そんなもの、もうジェイドにはただ一つしか思い付かなかった。思い付かなかったが故に彼は「分かりました」と頷いて足首から手を離すしかなかった。

「ありがとうございました」

 彼女は裸足のまま、スタスタと医務室を歩いて扉に手を掛けて、開く前に一度だけ振り返った。ジェイドの予想に違わず、彼女はひどく穏やかな、満たされたような目をして。

「……っ」

 声には出さず口だけで「わたしのもの」と奏でて、とろけるように微笑んだ。

 その直後、勢いよく扉を開けた彼女は、オレンジ色の夕日がきつく差す廊下に裸足で飛び出していった。足を貰えた人魚のような喜びようがとても綺麗で、綺麗で、嫌いだった。

 ああ、あなたまさか「それ」が欲しかったんですか? こうしたいがために、あんな愚行をなさったんですか? ガラスを踏んで血を流して、痛みに耐えながら長距離を歩いて、破片を足に食い込ませて、たった一つだけ取り出さずに、あなたのもの、あなただけのものにするために。

「……」

 一人医務室に残されたジェイドは、血濡れのピンセットを床に放り投げて笑った。ひどく愉快な心地だった。血の臭いに酔ってしまったかのような有様だった。ああどうしよう。いつまでもこうしてはいられないのだけれど。この医務室を片付けて、道中のアスファルトの血もできる限り拭き取って、植物園の片付けをして、ゴミに出すガラスの破片をひとまとめにして。ラウンジに遅刻の連絡を入れる必要がありそうだ。そういえば彼女はちゃんと魔法薬学に使う植物を回収しただろうか。そうしたあらゆる考えを巡らせつつ、肩を震わせて笑った。肩の揺れを数えるように、ピアスが三回、四回、サラサラと小気味よく鳴った。
 フロイドと二人でチョウザメの人魚に挑み、鱗をそれぞれ三枚ずつ手に入れた日のことを思い出す。加工と防腐の処理を経て、今もジェイドの左耳で揺れているそれ。自らよりも圧倒的に強い相手を、片割れと……知恵と力を合わせることで凌駕したあの日。相手の鱗はいわば勝利の証であり、強者たる証明。ジェイドはそれを、彼女の左足に埋められたガラスの欠片に重ねたくなった。

 あのガラスは、ジェイドで言うところの鱗に相違ないものだったのではないか。あれはまさしく、彼女の勝利の証なのではなかろうか。
 あれを取り除くことができなかったジェイドこそ、真の敗者に他ならないのではなかったか。

 彼女を言いくるめられなかったことが致命的なのではない。全て取り出しきれなかったことが罪という訳でもない。彼女が後で痛みに耐えかねて校医に相談したとしても、後日あの欠片が改めて取り出されるようなことがあったとしても、そんなことで彼女の勝利は揺らがない。彼の敗因、それは彼女が「もういい」と告げた理由を我が事のように理解できてしまったこと、そして理解した上で「ならば取り除かれるべきではない」と思ってしまったこと、これに尽きる。
 想像してしまったのだ。彼女にまつわる「何か」が、文字通りジェイドの体に埋め込まれる様を。簡単に取り外せてしまうアクセサリのようなささやかな揃いではなく、肉を食らうような蛮行でもなく、髪を飲み込むようなありふれた狂気でもなく、血を啜るような吸血鬼の真似事でさえない、もっと別の方法で為された共存を。外科的な処置を行わなければ絶対に取り除けないような場所、誰にも見えることのない内側に、それが未来永劫鎮座することを。いつもいつでも一緒にいられるかのような無様な幻想に浸れることを。その喜びを。悲しいくらいの幸福を。

 もし、彼女にまつわる「何か」と共に人魚の生を終えられたなら? 遠い遠い将来、それを体の中に宿しつつ泡に還ることができたなら? 主要な血管を害することなく周りの肉と癒着し、薄い脂肪に抱かれ、真珠めいた様相を呈したグロテスクなその欠片と共に旅立てるなら? 泡の中、たったひとつ残った小さなガラス、鈍い光の煌めきが、二人の共存の証として海の中、どこまでも揺蕩い続けてくれるのなら?
 そんなの、嬉しいに決まっている。泣きたくなる程に幸せに決まっている。

 足の痛みと引き換えに、その幸福を手に入れたのは彼女だけ。ジェイドではない、彼女だけ。人魚は陸の姫に敗北を喫したのだ。もうどうしようもなかった。そのどうしようもなさを味わうようにジェイドは笑った。面白くて悲しくて悔しくて、笑うしかなかったのだ。

 あなたを好きになってよかった、と思う。
 それ以上にあなたを嫌える僕でよかった、と心から思う。
 あなたも同じ気持ちであることを、この上なく幸せに思う。

「ねえ、僕等ずっと愚かでいましょうね」

 硝子の鱗がその後どうなったのか、ジェイドには最早知る由もない。

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