清涼湿原に咲く青や白や赤の花々の名前をセイボリーは知らない。花はすべからくエレガントであり、愛でる対象には違いなかったが、それに関する知識を有することに彼はあまり意義を見出せない。それは水辺の脇に咲く黄色い花においても同じことであり、名前も品種も、一年草か多年草かも彼は知らない。名前がなければ区別ができない。区別ができなければ、人の記憶に刻まれない。覚えておかれないものは、忘れゆくしかない。
故に彼はその黄色い花の名前を知っておきたいと思った。この場所が、そしてこの花が、彼にとって特別な意味を持つことを、その花を特別たらしめたあの日のことを、彼は「名前の所有」という正当性をもって彼の記憶に留めおこうとしていたのだ。名前を得るためには情報が必要である。情報を得るためには特徴を確認することが必要である。彼がこのよく晴れた昼下がりにこの場所へ足を運んだのは、そうした理由があってのことだった。
「あの、もし。……ユウリ?」
「……」
「こんなところで眠っていてはまた風邪を引きますよ。ミセスおかみの『実力』をまたしても見せつけられたいのなら止めはしませんが……」
そう、セイボリーはあくまで花の情報を得るために来たのだ。まさかこの場に彼女がいるなどということ、予想できたはずもない。セイボリーが随分前に惨たらしくむしり取った花々、その再生と開花を喜ぶように、その色と同化するように、水辺の傍で体を丸めて横になり、そのまま眠ってしまったと思しき彼女を揺り起こす羽目になるなど、予見できたはずもない。彼には残念ながら「みらいよち」は使えない。
……ああでも、予想できるだけの「情報」はあったはずだ、とセイボリーはあの夜のことを思い出しながら目を伏せる。二人が同じことを同じように考えていると気付くに至ったあの夜。私はずっと前から君のことを好きだった、などと、とんでもない優位性を振りかざして泣きそうに笑った彼女の、喉の奥から押し出すようにして紡がれたあの震える声。同じような喜び、同じような困惑、同じような懇願、同じような好意。それらを示し合った二人はやはり同じようにくしゃみをした。あの日、何もかものそうした揃いがただどうしようもなく喜ばしかった。同時に起こったくしゃみでさえ、全ての正解に思えた。
なるほど、それならばこの現象もまた生じて然るべきだ。セイボリーの向かうところに彼女の足も向かってしまうのは、別に稀有なことでも偶然でも何でもなく、二人の思考が似たところに置かれている以上、いっそ必然のことであるに違いない。そのような、ひどく浮かれた驕りがセイボリーの頬を僅かに染める。ゆるい確信が口元まで緩めてしまう。
花が咲くようにゆっくりと目を開ける彼女を見ながらセイボリーは思う。あの日はどうかしていた。ワタクシも、彼女も、お互いに。同じようにどうかしていた。そして、それはきっと今でも続いている。
「おや、おはようセイボリー。どうして君がこんなところに」
「ハイハイ、ごきげんよう。さてその台詞は『ミラーコート』待ちと捉えてよろしいか?」
「ふふ、どうぞ? 君が此処に来た理由と同じものしか返ってこないと思うけれど、ね」
そう告げてクスクスと笑いながら彼女は上体を起こす。セイボリーは自らの頬が更に赤くなるのを自覚し眉をひそめる。そんな彼を見て彼女はいよいよ声を上げて笑い始める。大きな溜め息と共に、花を避ける形で彼女の隣へと腰を下ろした彼にはまだ笑える程の余裕がない。
「何ていう花なんだろうね。辞典を借りたりスマホロトムに検索を依頼したり、色々試したにもかかわらず結局絞り込めなかった」
「なっ! あ……あなた、いつの間に特性を『テレパシー』に変えたんです? カプセルを飲んだのなら予めそう言いなさいな!」
「ふふ、何のことかな? それはさておきこの花の名前は、できることなら私か君の手で明らかにしてみたいものだね。こんな場所に咲く花を此処まで大事に想う酔狂な人間なんて、そう多くいるものでもないだろうし?」
そんなことを、ほら、どうということはないように口にしてみせる。朝日を浴びて花が開くより、夜に連れられて月が昇るより、ずっと自然な心地で、まるでそれが世の摂理であるかのような自信に満ち満ちた心地で彼女は語る。
この子はどうやら自らが抱く想いを隠すつもりがついぞないらしい。セイボリーのように「告白」などと気合を入れずとも、それこそ「おはよう」と挨拶をするような気軽さで、彼女はそれを告げてしまえるのだ。流石にあの夜は多少の照れを見せたものの、互いに一度その心を開き合ってしまえばその後の彼女は随分とあっさりしたものだった。彼女はセイボリーへの好印象を隠さないし、セイボリーが彼女に寄せる同程度のものについて微塵も疑っていない。その安定は彼女の強さを益々強固なものにした。白状するなら本日の特訓においても、セイボリーはこの妹弟子に惨敗であったのだ。
どうにかして一矢報いてやりたい、という思いは、あの夜よりも前から彼の中で燻っている。目の前で楽しそうに、幸せそうに笑う彼女を見て、その悔しさはより一層強くなる。
「月筏」
「何ですって?」
「君が作った花弁の船のことだよ。エンジュシティという町の川には、温かい季節になると、ピンク色の船が沢山出来るらしくてね。風流な人間はそれを『花筏』なんて呼ぶそうだから、真似をしてみたんだ」
綺麗なものには綺麗な言葉が似合う。自身の憎からず想っている相手であれば尚の事、品のある造語の煌めきは増して見える。故にセイボリーはその表現を自分に「不適正」なものだと判断した。そのような綺麗な言葉を、自身が殺した花弁の塊に当て嵌められては堪ったものではないとさえ思った。
常々、エレガントでありたいとは思っているが、そこまでの美しさで評価してもらえる謂れなど自分にはないはずだと彼は思った。月筏なんてものを作った自分ではなく、あの花弁の残骸に月を見た彼女の、雅を解する心こそ称えられるべきところだ。そう見ることの叶う彼女の目、多めの茶葉で長めに抽出した紅茶の色、あれこそ美しいものであって然るべきだ。彼は本気でそう思っている。祈るようにそう思っている。
「この花は特別なんだよ、あの夜に、君がこれで月を作ってからずっと」
けれども彼女がそのような、耳触りの良すぎる綺麗な言葉を作ってまでこの花に特別なものを見ようとしているのだという事実、それはもう、此処まではっきりと開示されてしまっては疑いようのないものだ。そしてその事実を銃弾のように浴びせられてしまったセイボリーはもう、敗北に苛立つことも羞恥や屈辱に打ちひしがれることもできやしない。ただ身に余る喜びと過ぎた動揺が心臓を揺さぶるばかりであった。茫然と頬を染めるだけの彼を見て彼女はまたしても楽しそうに笑った。
ただ、連敗に甘んじ続ける訳にもいかない。
「あのですねユウリ、ワタクシは本日、あなたに一矢報いるために来たんですよ」
「えっ。……ふふ、あはは! それは怖いなあ! 身構えておくことにするよ。でも私をどうにかしたいのなら、矢は一本なんかじゃ足りないと思うけれど?」
楽しそうに、かつ得意気な心地で彼女は目を細める。セイボリーの言葉を待っているのだ。さていつまで余裕ぶっていられるだろう、と、勝利できる算段などありはしないのにあくまでも強気に彼は考える。その穏やかな表情が驚きや羞恥に崩れてしまうのであれば、それが一番いい。一矢報いるとはそういうことであるからだ。でも全ての矢をいなして涼しく笑う彼女はきっと相応に凛々しく美しいのだろう。それを見ることが叶うなら、報いられずともあまり大した問題にはならないかもしれなかった。それでも勝ちたい。勝ってみたい。妙な子供っぽさで彼は強くそう思う。彼女の前で子供に戻ってみることは存外、楽しい。
さて、そんな彼がこの時のために用意した矢は三本ある。どれか一本でいいから的中してくれ、という心持ちで持ち込んでいた。「一本では足りない」という見解を持っていたのは彼女だけではなかったのだ。さてどれから放ったものかと少しばかり迷う。迷って、そして実に彼らしく、最も威力の高そうな矢を真っ先に選ぶ。
「あなた本当は、今も『不適正』が怖いんでしょう」
先ずは一本目、常日頃から彼女に一矢報いたいと思っているセイボリーの、それ故に彼女のことをずっと見てきたセイボリーの、渾身の一矢である。効果の程を確認するために背を折って顔を覗き込むようにしようと思ったが、そんなことをせずとも彼女の方から弾かれたようにこちらを見上げてきた。幼さを残す小さな口が「どうして」と動いていた。大きく見開かれた目が、零れ落ちそうであった。
「どうして分かったのか、ですって? ワタクシとて、そこまで愚鈍じゃないんですよユウリ。あなたのことを何一つ察せないような、ノン・エレガントのままではいられなかったということです」
「……」
「あれは、このワタクシを安心させるための方便だった。違いますか?」
「ご、ごめんなさい!」
そう尋ね終えるや否や、空気を切り裂くような鋭い謝罪が、肯定の意味を為す形で勢いよく飛んできた。これはセイボリーにとって少々予想外のことであった。彼が期待したのは、驚きに目を見開いた彼女が「あれ、よく分かったね」と苦笑しながら降参の意を示してくれること、それだけであった。そのささやかな勝利を喜べるだけで十分だったのだ。彼が見たかったのは、この顔ではなかった。こんな、心苦しさをその顔いっぱいに貼り付けて為される謝罪を引き出したかった訳ではなかった。
軽く小突く程度に楽しむつもりだったはずの「一矢」は彼女の喉を深々と貫いていた。最早それは「報いる」などという可愛らしいものではなくなってしまっていた。すぐにでも引き抜いてやらねば息さえ止まってしまいそうだった。
「違う、君を騙そうとした訳じゃないんだ!」
「ユウリ、あなたを責めている訳では」
「でも君は騙されたと思ったんだろう。酷く傷付きさえしたんだろう? あれも君にとっては『配慮』かな? だとしたら本当に、ごめんなさい。でもあの時の私はもう、ああするしか」
「ええい、分かりましたからもう落ち着きなさいな! 今度こそ骨を折られたいんですか!」
質の悪い言葉選びは功を奏したようで、彼女の勢いはあっという間に削がれていった。刺さった矢はぽろりと根本から折れて、消えていった。けれども呼吸を再開した彼女は、やはり酷く傷付いたような表情であることに変わりなく、すぐにでも泣き出しそうにその笑顔を歪めつつこんなことまで言う始末だ。
「もう、いっそ折ってほしいよ」
そんなこと、してやるものですか。
そう言い返す代わりに指を伸ばした。地面へぽとりと無造作に落とされ、力を失い項垂れている細い手首に、己の指をゆるく回してみた。あなたの骨を折るだけの力などワタクシの腕にあるはずもない、という意味を込めて握った。勿論、物理的な意味ではなく、心理的な意味での話である。細く滑らかなその肌に、爪を立てる勇気さえセイボリーは持てそうになかった。
折ってくれないのか、という落胆が彼女の横顔に見える。非言語的な糾弾である。セイボリーはそんな彼女の態度を微笑み返すことで柔らかく窘めた。生まれた沈黙は、黄色い花のさわさわと揺れる音が、いっそ誠実なまでに心地良く埋めていった。
「あなたが『適正』からの逸脱を恐れていることは、何となく察しが付いていました。ワタクシの適切な支援者であろうとして骨まで差し出してくるのですから、それへの拘りは相当なものでしょう」
「……残念ながら君への適正化は望めなかったけれどね。『とんだ的外れ』だとして拒まれてしまったものだから」
「そう返してくると思っていましたよ。あなたって本当に……」
彼女は空を仰いで笑った。先程の軽い錯乱を恥じるような、己と揃えた「質の悪さ」を誇るような、複雑な笑顔だった。色とりどりの花を散りばめたようなそれは、目を逸らせなくなる程の眩しさである。やはり彼女はそのままで十分すぎる程だと思う。この指が指揮するテレキネシス、あれを象徴する水色なぞに染まらずとも、ええ、もう十分に。
「でもこの島の外へワタクシと一緒に出ていき、あの街で『不適正』な振る舞いばかりを見せたあなたは、……ワタクシの贔屓目であるかもしれませんが、とても楽しそうでした。ですからあの虚勢が、一時凌ぎの軽薄な嘘であったとは思っていません。むしろ」
不自然に言葉を切る。勿論、意図的なものである。彼女は続きを促すように、天の空色からこちらの水色へと視線を移して首を傾げる。ぱち、と双眼がまたたく。たっぷりの茶葉で長く蒸らされたと思しき紅茶の色、苦く強い香りを放つ、恐ろしい程に綺麗な色だ。
ほら、捕らえた。
「あなたにそこまで言わしめたのがこのワタクシであるかもしれないという可能性を、光栄にさえ思います」
可能性、のところに語気を強めて告げてみる。彼女の目が大きく見開かれる。これは察しの付いた顔だと彼は確信して、にっと口角を上げる。彼女は恐る恐るといった調子で、けれどもどこかうんざりしたような様子も見せつつ切り出してくる。
「ねえ、もしかして君は私に、その『可能性』を『確信』に変えろと言っているの? 君の確信を支えるだけの情報、私が君に対して想っている全てを、今ここで全部吐き出していけ、って?」
「流石はワタクシの妹弟子ですね、なかなかに筋がよいです」
「……やれやれ、しばらく探偵かぶれの振る舞いは控えたほうがいいかもしれないな。嫌な勘の的中率ばかり上がってしまって、とてもいけない」
「探偵かぶれ、ですって?」
過去にも似たような「嫌な勘の的中」を経験していたらしく、彼女は諦めるような目の細め方をした。セイボリーはというと、彼女が零した「探偵かぶれ」という単語に衝撃を覚えていた。喉元に雷を落とされたような心地になってしまっていた。そうして長い沈黙を挟んでから、ようやく合点がいった、という風に、口角を更に上げてしまう始末であった。
そうか、そうか、探偵。そういうことか。
つまりはそれがあなたの装甲か。それがあなたの「鎧」か。
あなた程の人でさえ、そんなものを必要とするのか!
おおよそローティーンとは思えない程の、力強い弁舌と豊富な語彙。比較的高頻度で飛び出す、妙に古めかしい言葉たち。こちらが隠した傷さえ暴いて来ようとする程の、悪趣味な詮索好きと好奇心。男勝りを通り越して、いっそ男性的だと思わせる程のかたい口調。盤石かつ強情な合理を礎として、まるで謎解きの如く相手を論理的に追い詰めていく追究性。その謎解きを可能にするだけの知識や経験。そして自分は「見抜く側」であり「見抜かれる側」ではないのだと鮮やかに主張する、自信と矜持に溢れたその笑顔。
それらは全て、セイボリーと「揃い」の生き辛さを抱えた彼女が、この世を生き抜くために身に着けた装甲であったのかもしれない。彼はようやくその可能性に思い至る。思い至って、そして愕然とする。
中途半端な存在にはお高くまとうことなど許されず、何かしらの「隙」を晒して気丈に陽気に快活に振る舞っていなければ、このままならない世界から石を投げられ後ろ指をさされ、つまはじきに遭うばかり。二人にはそれが分かっていた。二人はなるべく上手に生きていたかった。
……つまり、彼女は必要に迫られて「探偵かぶれ」になったのだ。セイボリーが同じような必要性によって、愉快な道化、そう「ジョーカー気取り」とでも呼べそうなものへ化けたのと同じように。
勿論、彼が自らの装甲として、自らの肌と心によく馴染んだ「道化師の如き滑稽な愉快さ」を纏うことを選んだのと同じ理屈を当て嵌めるなら、彼女が「悪趣味な探偵めいた振る舞い」を選んだのもまた、それが彼女の性に合っていたからに違いないのであろう。誰かに期待されたものでもなく、強いられたものでもない、彼女自身が好ましく思い取り込んだものとして「探偵」があるという事実はいくらか救いがあるように思われた。そして形は違えど、身に着ける装甲の分厚さまでもが一ミリも違わず「揃い」であることはセイボリーをいくらか喜ばせていた。
けれど。
「ユウリ、今のワタクシは『ジョーカー気取り』に見えますか?」
「え? ジョーカー? ……いいえ、あまりそうは見えない。最近の君はとても穏やかだよね、以前の調子付いた喧嘩腰が嘘みたいだ」
「ええ、そうでしょう。でも今のあなたは探偵に見える」
「それはよかった。願ってもないことだよ、いつだってそう在るようにしているからね」
「捨ててください」
息を飲む音は、強い風が掻き消していった。名前が分からないままの黄色い花が二人をからかうようにさわさわと揺れていた。雲一つない晴天は少女の愛した水色よりもずっと濃い青を天へと流し込んでいた。空より薄く海より澄んだ青をこの身に宿せていることをひどく誇らしいと思えた。
「ねえ、あなたがワタクシのありのままを認めてくださったんです。これでもいいと思わせてくださったんです。ワタクシも同じことをしてみたい。あなたを、認めてみたい」
「……」
「揃えてみませんか」
そんなもの、外してしまえばいい。あなたのような小さな体に、その鎧はきっと重すぎる。
ワタクシにだってできたのだ。あなたにできない道理などあるはずがない。
丸い目がこちらを真っ直ぐに射抜いていた。ひどく傷付き、困惑し、狼狽した表情だった。「私に余すところなく開示を求めておいて、更にこの鎧まで外しにかかるつもりか」と、その紅茶の色は雄弁に責めていた。けれどもすぐにその叱責の色は奥へと沈み、代わりに不安が浮き上がってくる。「君のように上手に外せる訳じゃない、これを失った私を、君は本当に私だと思えるのか」と、重い鎧を脱ぎ捨てることへの躊躇いがチカチカとその目に点滅している。その色さえもやがて消え失せ、あとはただ静かな、諦めと覚悟のそれが漂うばかりであった。
長い、長い時間をかけて、彼女は自らの脳内に吹き荒れる情動の嵐を収めようとしていた。他の誰でもない、彼のためにそうしていた。彼の願いを叶えるというただそれだけのために、彼女は魂を削るようにして必死に思考を巡らせていた。その懸命さや真剣な心持ちというのはセイボリーにも痛い程に伝わってきた。その表情から、瞳の色の変化から、そして彼女の沈黙した時間の長さから、あまりにも鮮明に感じ取ることができていた。この一連の時の流れにおいて、彼女の魂は他ならぬセイボリーのためだけに在った。
ああ、と、彼は息を飲まずにはいられない。
この、惨たらしい程に健気な生き様が、美しくなくて何だというのか。
2020.7.8