閑話2:Dreaming morning glory

 朝食の時刻をとうに過ぎているというのに兄弟子は姿を見せない。この道場の「家族」に加えてもらった初期の頃は、彼に対して「朝に弱い人」という印象など抱いていなかったのだけれど、それが徐々に崩れてきている。夜更かし紛いの大特訓を始めたのか、それとも元から朝に弱い体質であったのを、私への見栄のために隠してエレガントに振る舞っていたのかは分からない。ただ事実として、彼が非常に眠そうな顔で食堂へと姿を現す頻度はかなり上がっていた。そして今日、ついに寝坊をやらかしている、という訳である。

「セイボリー、そろそろ起きた方がいいよ。冷めたスープと硬いパンに眉をひそめたくないのなら、ね」

 こういった場合、男性の寝室へ呼びに行く訳だから男性が向かって然るべきだ。もしくは相当な「実力」を有するミツバさんが向かえば彼の目も一発で覚めるだろう。とにかく、同年代の異性が向かうべきところではないはずだ。家族、と呼称しているとはいえそれくらいの分別はあって然るべきだと思う。5歳や6歳の子供ならともかく、私も彼も相応の年齢であるのだし。

「ねえ、セイボリー!」

 けれどもミツバさんはよりにもよって、寝坊というささやかな罪を犯した彼への罰の「執行人」に私を任命した。「ユウリが起こしに行くのがあいつにとっては一番効く」との見解であるようだ。ドアをノックして、怒鳴りつけて、出てこなければ侵入して布団を剥ぎ取っても相棒の水をかけてもいいからとにかく起こしてくれ、とのご依頼だ。
 曲がりなりにも女性である私が向かうのは不適切では? などと為そうとしていた反論は「布団を剥ぎ取っても相棒の水をかけてもいい」というくだりを聞くや否や、ぱちんと私の脳内で勢いよく弾けて、あっという間に消えてしまった。それはまた随分と楽しい役割じゃないか、受けて立とう。そういった具合に私は浮足立っていた。彼がこの段階で起きてしまわないよう、ノックの音と呼び声の大きさに気を遣いさえしたほどだ。つまり私は彼の端正な顔に水を、具体的にはインテレオンの「ねらいうち」をお見舞いしてみたかったのだ。いや「ねらいうち」でなくとも構わない。水でなくとも構わない。とにかく何らかの形で彼に奇襲を仕掛けたかった。彼の水色が勢いよく開き、甲高い声で取り乱す様を見てみたかった。それがミツバさんの指示という「合法的な」ものであるのだから、躊躇う理由など何もなかった。

 自らの質の悪さに微笑みつつ、私はドアを開けた。私が眠っているのと同じ型の簡素なベッドの上、緩やかに盛り上がった布団の端からブロンドが零れている様が異様な美しさで目を穿つ。僅かに出来ているカーテンの隙間、そこから差し込む朝日が原因だろうと無理矢理に結論付けて私はそっと歩を進める。起こしに来たはずなのに、まだ起きてくれるな、などと利己的にも願っている。彼にしてみれば、自室に私という他人が入ってくること自体が随分な奇襲には違いないのだろうけれど、此処まで来たのだ、もう少し大きなことをやって帰りたい。

「……」

 キラキラと瞬く金色の川、その上流を辿れば彼の寝顔はすぐそこに在った。水色を包んでいる目蓋に異様な羨望を覚えた。思わず膝を折ってその枕元に跪くような形になった。先程まで抱いていたはずの、合法的な悪戯への期待と高揚が一瞬にして凪いでいく。おかしい、こんなはずではなかったのだけれど。
 静かな寝息を立てるのみの彼、いつもの破天荒な物言いや独特のファッションに身を包んでいない彼は、眠っているという隙だらけの状態であるはずなのに、何故だか一分の隙もなく絵画のように美しい。大好きな水色が見えずとも、既にこんなにも美しい。高度な芸術は人の心を奪うものだ、こんなものを常に世へと晒していたら皆きっと気が狂ってしまう、などと本気で考えた。彼は自らの造形に宿る神秘性と芸術性を分かっていて、それらに他者が心を乱されるのを恐れていて、それ故にその神秘性や芸術性を崩す形であの破天荒な物言いや独特のファッションを、自らの装甲として、また他者への保護手段として、その身に纏うのかもしれなかった。そうした突飛な発想に至ってしまう程度には、彼の寝顔は綺麗だった。そんな彼から布団を引き剥がしたり、あまつさえインテレオンの「ねらいうち」をお見舞いしたりしたい、などという邪な願望が、この期に及んで私に残されているはずもなかったのだ。

「さあ、起きて」

 それでも、せめて責務は果たして帰るべきだという思いが、私に、想定よりもずっと穏やかな声を出させるに至った。彼が僅かに身じろぐ。金色の川がふわりと揺れる。予想よりもずっと早い覚醒だ、と安堵しつつ、これくらいなら問題ないだろうと判断して肩へと手を伸ばし、揺する。
 けれどもそれは悪手だった。何故なら大きく動いたからだ。彼自身ではなく、彼の周りにあるものが。シルクハットや眼鏡やマグカップといった小柄なものから、丸型のミニテーブルや椅子といったそれなりに重量のあるものまで、一斉に淡い水色を纏いつつ、ふわりと。重力を忘れたように佇むそれらは彼が未だ覚醒していないことをはっきりと示していて、まだ夢の中にいたい、とぐずる子供のようで。
 それだけなら微笑ましい光景であったかもしれない。普段はその指先で完璧にテレキネシスをコントロールする彼が、彼等への指揮を怠る様というのは、物珍しさもあり、またその水色の光のせいもあってか妙に華やかだった。けれども私は青ざめた。夢うつつの状態で発揮された大技に見惚れている場合ではなかった。大変なことが起きていると気が付いたからだ。
 だって彼は周りのものを見境なく浮かせて漂わせている。指という指揮のないテレキネシスによって、あまりにも無秩序かつあまりにも気紛れに。そして私は、そんな彼のすぐ傍に跪いている。

「待ってセイボリー、待っ、うわっ!」

 ほら、こうなると思った。私だけ浮遊を免れるなんて、そのような都合の良いことが起こるはずがなかったのだ!
 常日頃から、彼のシルクハットに住み着くボール達に強い羨望を覚えていた身としては、彼のテレキネシスを味わうことの叶ったこの状況というのは願ってもないことで、私は喜ぶべきだったのだろう。けれどもそれは、普段の完璧な指揮を執る彼であればの話だ。今の彼は半ば眠っている。浮かすだけ浮かせておいて、急にぷつりとその糸が切れてしまう可能性だって否定できない。彼を疑うつもりは微塵もないけれど、今のこの人は私の知る覚醒状態の彼ではないのだ。流石に肝が冷えるし、不安にもなる。

 既に宙へと掬い上げられて使い物にならなくなった足。あらぬ方向へ飛び立っていくニットベレー。自分の体の制御が効かなくなる感覚が恐ろしく、唯一自由に動かせる手で私は彼の髪を掴んだ。風船のようにどこまでも浮き上がってしまうことを避けるための咄嗟の行動だったけれど、彼はそこでようやく、彼自身の周りにある「もの」の中に、明らかな有機物、つまり人間が紛れていることに気が付いたのだろう、僅かな呻き声の後で、ゆっくりと目を開けた。その水色に強張った表情の私が映っていることを、私はこのような状況下でさえ光栄に思ってしまった。

「……」
「や、やあおはようセイボリー。早速だけれどお願いがあってね、迅速に私を下ろしてくれないかな。夢うつつの君に浮かされるのは、その、流石に心許なくて」

 彼はまた目を閉じた。すぐに開けて、また閉じた。ひどく緩慢な動作だった。モーニンググローリーという、朝早くに開いて昼にはすぐ閉じてしまう花があることを思い出した。彼の目は硝子のようであり、空気のようであり、水のようでもあると思っていたけれど、どうやらそこには花も隠れているらしい。

「……ああ、これは失礼」

 そう口にして、彼は私の手首、彼の髪を掴んでいる方のそれを掴んで引っ張った。小さな花を摘むような緩い力でしかなかったはずなのに、水色の光を纏った私の体は呆気なく彼の手に引きずられていく。
 違う、違うんだセイボリー、君は何も分かっていない。確かに私は「下ろしてくれ」と言ったけれど、その降下先に君の隣、ベッドの上を指定したつもりは更々ない。もっと言えば、私は君を起こしに来たのであって、君とこうして微睡むために来たのではない。分かるね?

 そうした全てを饒舌に口にしたかったのに、喉に何かを突き刺されたかのような衝撃に息さえ詰まって何も言葉にできなかった。ようやく震える声で口にした言葉だって、このような、実に間抜けな形しか取ってくれなかったのだ。

「ごめんなさい。髪を乱暴に、掴んでしまって」

 私を布団の上から抱きかかえた彼は、そんな私の言葉を受けて、声を押し殺すように肩を震わせ無音で笑った。そして一気に息を吐いて諦めたように眉を下げ、今度は左手で額を押さえて天井を仰ぎつつ、声を上げてコロコロと笑い始めたのだ。「ああ、ワタクシはなんてことを」「急に浮かされて怖かったでしょう、すみませんね」「でもどうしてあなたが此処に?」「呆れたでしょう、ワタクシのことを」……そうしたことを、寝起き特有の掠れた声でゆっくりと、けれども至極楽しそうに微笑みながら、それも目の前で紡いでくる。
 違う、違うんだセイボリー、君はやっぱり何も分かっていない。私はミツバさんの指令により、合法的に君への奇襲を仕掛けに来たんだ。すなわち、息を飲ませるのは私の側だったはずなんだ。君じゃない。私は君のそんな姿に、そんな笑顔に、そんな言葉に、息を飲まされるために来たのではない。分かるね?

「……いいよ、もういい。気にしないで。確かに少し怖かったけれど君はちゃんと下ろしてくれたし、こんなことで君に呆れたりなんかしない。君が寝惚けてくれていたおかげで私も楽しい思いができたからね」

 そうした全てをやっぱり饒舌に口にしたかったのに、こちらへと向き直った彼のやわらかな笑顔で完全に勢いを削がれてしまった。そんな私の口から零れ出たのはこのような、先程までの混乱や憤りをなかったことにしようとする不格好な言葉ばかりで、けれども今日は彼だって相応に不格好であるから、結果としては「引き分け」ということで問題ないだろうと思った。互いに白旗を上げ合っている状態であるならば、勝敗はつかないままである方がきっと正しい。それでいい。

「さて、私はミツバさんに頼まれて君を起こしに来たんだ。なるべく早く支度を済ませた方がいいよ。外で待っているから、一緒に行こう」
「ええ、ええそうですね、ありがとうございます。ですがもう少しだけ此処にいてもらっても?」

 此処とは? と尋ねるまでもない。もうテレキネシスは発動しておらず、シルクハットも眼鏡も椅子も沈黙している。私の体にはもうあの淡い光がない。だからいつでも此処から抜け出せる。私の自由を許した上で、彼は「此処に」と依頼している。それを聞き届けることはあまりにも容易い。だから私はそのまま彼の腕の中、つまり「此処」から、ある種の確信をもって別の質問を投げる。

「もう少し、ねえ。具体的には?」
「あと1分」

 予想通りの回答が耳元へと吹き込まれる。思わず私は笑い出す。唐突に零れた大きな笑い声に今度こそ彼の目がぱち、と開く。
 ねえ、いい加減にしないか。私はそんな言葉、信じないよ。だって君の1分が「1分」であったことなんか、今まで一度もなかったんだから!

2020.7.4

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