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「お前はそのようなことも知らずに約束を交わしたのですか」

大きな溜め息が彼の自室に木霊した。私はあまりの絶望に沈黙するしかなかった。
知らなかった、などという言い訳は何の役にも立たなかった。シェリーの涙は私との別離を悲しむものだけではなかったのだと、私はこの時、ようやく気付いた。
彼女は、カロス地方で上手くやっていく自信がなくて泣いていたのだ。だから「カロスなんかに行きたくない」と零していたのだ。
シェリーは、不安だったのだろう。今思えば、それは当然のことだったのだ。誰が好んで、言葉の通じない土地に身を投じようと思うだろう。

イッシュとカロスでは、使われている言語が異なっていた。

私は今まで、カントーやジョウト、ホウエンなど、幾つかの土地に足を踏み入れていたけれど、そのいずれの人とも正常なコミュニケーションを取ることができていた。
ジョウトのコガネシティでは、少しその土地の訛りのようなものがあって、聞き取りにくい部分も多くあったけれど、それでも使われている言語はイッシュと同じものだった。
けれど、カロスで使われている言語は、イッシュのそれとは「異なっている」。
「言語の壁」という圧倒的な敷居を知ってしまった私は、あまりの驚きと絶望に愕然とした。

「お前の愚かさは最早呆れを通り越して尊敬に値します」

「す、すみません……」

「それに、お前は自分の立場をまだ解っていないようだ。業務の大半を私が請け負っているとは言え、お前はプラズマ団の代表です。
長の不在が長期間続くようでは経営に支障が出る。代表補佐として、そこまでの自由は許可しかねる」

彼の言葉は至極もっともだった。一つの組織の代表が、他の地方へと旅に出るなんて、普通に考えればあってはならないことだ。
この立場にはそうした拘束と責任が伴うのだと、私は今更ながら噛み締めることとなった。
しかし、「そうですよね」と続けようとした私の声を遮るように、彼はその紅い隻眼をすっと細めて微笑む。

「しかし、お前をこの組織に縛り付けることもしたくない」

その言葉には、どれ程の感情が含まれていたのだろう。
得意気に微笑む彼の表情からは、それを全て拾い上げることはできそうになかった。

計算されたままごとのように、私達の関係は新しく造り上げられていた。
私はプラズマ団の代表に、彼はそんな私を支える代表補佐に。それでも私は代表補佐であるゲーチスさんに敬語を遣い、彼は上司にあたる私を「お前」と呼んだ。
その立場に就き、プラズマ団を以前のように率いる彼は、私に一度も文句を言わなかった。寧ろ、この関係を楽しんでいるようですらあった。
私にはその理由がどうしても解らなかった。

この人は何故、私の造り上げた夢物語の住人となってくれたのだろう。
私の愚かな欲張りを嗤うことも、拙い理想論を蔑むこともせず、寧ろ私の意志を肯定するようにその立場を継いでくれたのは何故だろう。

「お前はまだ頭が弱すぎる。この機会にもう一度、新しい場所で一から学んで来させるのも悪くないと思っていたところだ。……ただし、条件が三つあります」

彼は得意気に微笑んで左手を掲げた。三本だけ立てられたその長い指のうち、一本が緩やかに折られていく。

「一つ目ですが、期間を設けます。いくら「見聞を広めるため」という名目があったとしても、無期限の自由が許される身ではないことくらいは理解していただかなくては。
それと、こちらが呼んだ時には直ぐに戻って来なさい。私が代理人として働くことのできる業務にも限界がある」

ゲーチスさんはデスクの上に置いてあるカレンダーをこちらに向け、一枚だけ捲ってみせた。
「期間は、来月1日から5月の末までの3ヵ月とします」と言われ、予想以上に長い期間の自由が与えられてしまったことに驚き、思わず声を上げてしまった。
訝しげな視線を向ける彼は、小さく咳払いをした後で再び口を開く。

「二つ目。これから3月に入るまで、私がお前にカロスの言語を教えます。カロスの言葉を完璧に使えるようになるまでは送り出しませんので、そのつもりで」

「え、ゲーチスさん、カロスの言葉を使えるんですか?」

「ええ、昔あちらに住んでいたことがありますから。それに、イッシュはカロスと親交の深い土地ですからね。今後のためにも、言葉を覚えておいて損はない。
もっとも、カロスとイッシュの言語構造は似ていますし、単語の音は概ね同じですから、お前なら一週間もあれば使いこなせるようになるでしょう」

私のことを「頭が弱い」と称したその口で、私ならカロスの言語を一週間で習得できると断言してみせる。
その圧倒的な矛盾に吹き出しそうになりながら、解りました、と承諾の意を示す。
けれど、それは決して、どちらかが嘘の言葉であることを意味するものではないのだろう。
彼は私のことを頭の弱い子供だと思っているけれど、それと同時に、私の力をそのように評価してくれてもいるのだ。
本当にカロスの言葉を一週間でマスターできるようになるかは、この際、問題ではなかった。今はただ、この人が私に向けた軽蔑と信頼を喜んでいたかったのだ。
彼は暫くの沈黙の後で、三つ目、と呟き、最後の指を手の平の中に折り畳んでみせた。

「三つ目。アクロマを同行させます。あれと行動を共にするように」

その条件には、何の説明も付加されなかった。私は驚き、そして少しだけ訝しく思ってしまった。
確かに私にとってカロスは未踏の地だけれど、それでも、旅をするのはこれが初めてではないのに。二度目の旅路を案じる必要など、ない筈なのに。
……それは、プラズマ団の代表への危害を最小限に留めるためのものだったのだろうか。それとも、もっと別の意味が含まれていたのだろうか。

渦巻く思考は結論を出してはくれない。けれど暫くして「あれにもカロスでしかできない仕事を用意します」という言葉が飛んできたので、私はその言葉を信じることにした。
カロスに行きたい私と、カロスでの仕事を命じられたアクロマさんが、同じ行き先であるが故に行動を共にするだけのことなのだと、そう思うことにした。
それに、彼の思惑は別として、私はアクロマさんと共に旅ができることを心から喜んでいた。勿論、この場でそのような歓喜を顔に出すような真似はしなかったけれど。

「それから」と付け足すように紡いだ彼は、今まで私の方へと真っ直ぐに向けていた隻眼を、デスクの上の書類に向けてから言葉を続ける。

「カロスではライブキャスターが使えません。地方を越えて連絡を取ることのできる機器を後日与えますから、持っていきなさい。
基本的にこちらからお前を呼び出す際に使う予定ですが、そちらでも何かあれば連絡するように」

「え……」

私は思わず、今までの彼の言葉を数えた。
3ヵ月以内に戻って来ること。今から一週間でカロスの言語を使いこなせるようになること。アクロマさんと行動を共にすること。
ゲーチスさんが最初に言っていた条件は、この三つで全てである筈だった。まさか、数え間違えたのだろうか。そう思い、私は浮かんだ疑問をそのまま口に出してしまった。

「それは、四つ目の条件ですか?」

「そう聞こえましたか?」

ああ、違ったのだと理解するや否や、彼が私から視線を逸らした理由にも同時に思い至り、心臓が少しだけ跳ねた。
この言葉は条件ではない、懇願なのだと、繰り返せば跳ねた心臓が熱を持った。
案じてくれているのだと理解して、私は戸惑う。おかしい。私達はそうした距離にいたのかしら。この人はそんな「らしくない」感情すらも許せるようになったのかしら。
どうしてこの人は、そんな私がまた強欲にもこの土地を飛び出そうとしていることを責めないのかしら。

「私の欲張りを、どうして貴方は許してくれるんですか、ゲーチスさん」

アクロマさんは「貴方が間違っていてもわたしが支えます」と笑ってくれた。トウコ先輩は私とNさんのために力を貸してくれた。
クリスさんは私の欲張りな理想論に共鳴してくれた。プラズマ団の皆は私の欲張りに各々の願いを託してくれた。
けれど、私のこんな欲張りを許す理由を、この人は持っていないように思われたのだ。それなのに、彼は何食わぬ顔でその強欲さを受け入れる。
私は彼を紐解けなかった。だからこそ、そんな言葉を尋ねてしまった。

けれど予想もしていなかったことが起こった。彼が笑い始めたのだ。
声を上げて、その唇に確かな弧を描き、赤い隻眼を細めて、この世で最も面白いことを見つけたかのように、笑っている。
彼がこんな風に笑っているところを、私は初めて見た。
「ああ、お前は何も解っていないようだ」と、一頻り笑った後で彼はその目に鋭さを宿し、茫然とする私に口を開く。その左手が不自然に宙を泳ぐ。

「お前のその強欲さが何を造った? その欲張りが誰を救った? 呆けるのもいい加減にしなさい」

「何」のところでその指先がこの部屋の床へと向けられた。「誰」のところでその指が同様に、その人物に相当する相手を指した。
彼の心臓に向けられたその中指を、しかし私はこの目で上手く捉えることができなかった。私は涙の流し方すら忘れて息を飲んだ。

「その力を私が、他でもない私が評価して送り出そうと言っているのです。まさか未だに自分のことを、無力なただの子供だと思っている筈はあるまい。
組織の代表をこれからも名乗るのなら、自分の力量くらいは把握しておくべきだ。……少なくとも私は、無力な人間の下に就いたりしません」

「……」

「思う存分、遊んで来るといい。お前がカロスでその波をどのように揺蕩わせるのか、見てみたい」

何も、考えることができなかった。何も言うことができなかった。あまりにも多くの感情が溢れすぎて、それらは確かな思いと言葉の形を取ってはくれなかったのだ。
私は泣かなかった。何か月も走り回っていた私は、どうやらその過程で零すべきものをどこかへ忘れてきてしまったらしい。
けれどその忘れ物のおかげで、笑うことができた。彼は私への興味を失ったかのように手元の書類へと視線を落とす。

2015.8.28

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