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プラズマフリゲートの甲板で、私はスケッチブックを広げていた。
スケッチブックを広げるのは実に半年ぶりだった。ほぼ毎日のように描かれていたその絵の続き、真っ白なページに私は鉛筆を走らせていた。
傍らには24色の水彩色鉛筆が置かれている。長さがバラバラになったその24本の中で唯一、緑色だけが真新しい長さでそこにあった。

ゲーチスさんが買い与えてくれたその緑色を、私は彼の不在の間、お守りのように常に持ち歩いていた。
ここ半年ほどは全く絵を描く余裕などなかったから、色鉛筆のケースに加えるのを忘れていた、というのもあるのだろう。
けれどそれ以上に、私はこの緑色を手放すことができなかった。この色鉛筆をそのケースの中に収め、他の23色と同一にしてしまうのは、何かが大きく間違っている気がしたのだ。
しかし、彼は戻って来た。彼はもういなくならない。彼はもう自ら死を選ばない。だから私は、そのお守りをあるべき形に戻すことにした。
さて、その深い緑色を何処で使おうか、と考えながら、私は慎重に鉛筆を動かす。

『貴方の描いた絵が欲しい』

明日、カロスに発つのだと語った少女は、私にそんな懇願を紡いだ。
絵を描くのが好きだと私は彼女に話していたし、海の絵が殆どを占めるスケッチブックを見せたこともあった。
けれど私は、絵画に関しては独学で描き進めてきただけの、誇れる技能も何も持ち合わせていないただの素人だった。
そんな私の絵を欲しいと言ってくれたことは素直に嬉しかったけれど、同時に、こんな絵でいいのかしら、と少し不安にもなった。
けれど「向こうでのお守りにしたい」という彼女の言葉に折れ、私は彼女の隣、プラズマフリゲートの甲板に腰を下ろして絵を描いている。

彼女の腕の中には、いつものようにラルトスがいる。その淡いグリーンの頭を撫でながら、シェリーは私に背を向け、海を眺めていた。
長く伸ばされたストロベリーブロンドが強い潮風に揺られる。お気に入りだという赤いスカートを、彼女は慌てたように片手で抑えた。

「そんなに悩まないで。いつものように描いてくれればいいんだよ」

振り返って紡いでくれたその言葉が、私の気を軽くするためのものであると知っている。しかし鉛筆はあまりいいスピードで動いてくれなかった。
理由はおそらく「その絵が私の手元を離れてしまうから」だろう。
決して名残惜しい訳ではない。絵を描く時にその絵を渡す相手を意識するのは初めてのことで、だからこんなにも鉛筆が頻繁に止まるのだろう。

スケッチは過ぎる一瞬を永遠にする為の、私のための作業だった。

だから、彼女が私の描いた絵を欲しいと言ってくれることは本当に嬉しかった。自分の「一瞬」が、彼女と共有されるようで、確かな幸せを感じたのだ。
だから、それなりのものを描かなければならない。そのプレッシャーは、しかし自分のためだけに今まで描いてきた一介の素人には少々荷が重すぎたらしい。
好きこそものの上手なれという言葉もあるように、数を描けばそれなりに上達はする。しかしそれはあくまで、最初の頃の私を基準にした時の見方だ。
マメパトがマメパトだと解らないと言われてしまったあの酷い絵から一年余り。何とかそれなりになったものの、人に渡せるような代物かと問われれば、頷くことは難しい。

シェリー、どうして私の絵が欲しいなんて言ってくれたの? ……あ、嫌な訳じゃないんだ。少し、気になって」

気になったことは、尋ねてしまう。それが同い年で気心の知れた親友なら、尚更だった。
共に時間を過ごす中で、私とシェリーのそれは、親友と呼ぶに差支えないものになっていると私は思っていた。
彼女はどう思っているのか、それは解らない。私の独り善がりな思いなのかもしれない。それならそれでよかった。少なくとも友達であることには変わりないと確信できたからだ。
鉛筆を傍らに置き、肌色の色鉛筆を手に取る。彼女はそのソプラノの声のトーンを少しだけ落として告げる。

「この間、カロスに引っ越す旨をゲーチス様に報告したの。その時、ゲーチス様に頼まれたのよ」

あまりの驚きに私の手は止まった。ゲーチスさんが?どういうことだろう?何故、彼がそんなことを?
次から次へと溢れる疑問に、シェリーは一つずつ答えてくれた。

「『あれが忙しさにかまけて自分の趣味を忘れているようだから、思い出させてやってくれ』『まだ子供だから、息抜きの手段も必要だろう』って、私に言ったの。
ゲーチス様、きっとシアの描く絵を気に入っていたのね。私が「分かりました」って返事をすると、嬉しそうにしていたから」

「……」

シア、スケッチは「過ぎる一瞬を永遠にするための作業だ」って言っていたでしょう? それと同じことを、ゲーチス様も言っていたのよ。
『あの子供は目の前をただ過ぎる一瞬が許せないのだろう』って」

読まれている。その事実は私の手から色鉛筆を握る力さえも奪った。カラン、と肌色の色鉛筆が甲板に落ちて転がっていく。
私はそれを拾いに行くために席を立ち、彼女に背を向けて片手を頬に当て、自分の頬の温度を確かめた。赤らんだような、青ざめたような、複雑な熱を持っていた。
そうだった。ゲーチスさんは、かつてこの大きなプラズマ団を率いた人間だ。人の心を見抜き、操ることに長けた人間だ。そうした精神論でポケモン解放を目論んでいた人間だ。
どうして私の考えていることが解るのだろう、なんて、今更だった。
彼にとって、私の考えていることを見抜くことなど、それこそ息をするような容易さでこなせてしまうことだったのだろう。

彼がシェリーに掛けたその言葉が、私を案じたものだったのか、私の絵をもう一度見たいという彼の思いによるものなのか、それとも単なる気紛れだったのか、私には解らない。
彼はいつも容易く私の心を読むようだけれど、私は彼の心を読み取れない。だからこうして、言葉にして貰わないと解らない。私は彼に共鳴することを許されない。
だからこそ、シェリーを介して届いたその言葉は確かな温度をもって私の心臓を揺らした。
カロスで描いた風景画を、送ってみようか。そう思ってしまう程には、私も絆されていたのだ。絆されていたのは、寧ろ私の方だったのだ。

席に戻り、色鉛筆を握り直せば、思いの他スラスラと手は動いた。先程までのぎこちなさが嘘のように、私はスケッチブックに色を落とすことができた。
黙々と色鉛筆を動かし続けた。次から次へと色を持ち替え、白いページを彩った。
ずっと海の方を見ていた彼女は、私の隣へと歩み寄り、スケッチブックを覗き込んで息を飲んだ。

「私……?」

「そう。スケッチじゃないけれど、いいかな」

私が絵の題材として選んだのはこの少女だった。
かつて、毎日のように私は絵を描いていたけれど、それらは全て、目の前にある風景や人物を手元のページに落としていただけのことで、それこそがまさしく「スケッチ」だった。
今回のように、記憶の中の一瞬を引っ張り出して描くのは、スケッチの趣旨には反するのだろう。
それでも、私は彼女を描きたかった。どうしても留めておきたい一瞬があったのだ。

私がシェリーに会ったあの日、私が最初に見た彼女の姿がスケッチブックの中には収められていた。
奇しくも今日の彼女は、出会ったあの日と同じブラウスとスカートを見に纏っていた。
出会った頃と変わらないその姿に、あの日の、白いカーネーションに水をやっていた少女の姿を重ねたのは無理もないことだったのだろう。
私はその、湧き上がった記憶に従うように鉛筆を動かしていた。
俯きがちに伏せられた横顔、風に揺られるストロベリーブロンド、水滴を含んだ、秋に咲く春の花。それら全ての一瞬を永遠とするために、私は彼女を題材に選んだのだ。

彼女の赤らんだ頬は、少なくともマイナスの感情を示すものではないと理解し、私は安心した。

「……綺麗。私じゃないみたい」

けれど彼女がぽろりと零したそんな音に、私は思わず笑ってしまった。
何を言っているのだろう。シェリー、貴方はこんなにも美しいのに。私の鉛筆なんかじゃ描き表すことのできないくらいに、美しすぎる何もかもを持っているのに。

『ああ、お前は何も解っていないようだ』
あの時のゲーチスさんの笑いの正体を、私は今更ながら思い知ることとなる。
ああ、彼は私の持っていた力に不相応な私の言葉が滑稽で堪らなかったのだ。だからあんな風に声を上げて笑っていたのだ。
私はようやく理解する。理解して、改めて隣で嬉しそうに微笑む少女に視線を移す。

酷く、怯えたところのある少女だった。臆病で卑屈な子だった。
人並み外れた美しさを全てに纏わせているにもかかわらず、それに相応しい量の自尊心を全くと言っていい程に持ち合わせていなかった。
彼女はそうした、酷くアンバランスで脆い存在であるように感じられた。
それが悪いことであるとは思わなかった。その危なっかしさは気になっていたけれど、私が支えればいいだけの話だと割り切っていた。

ああ、トウコ先輩もこんな風に、自分の両手に相応しくない重すぎるものを抱えようとする私が、危なっかしくて見ていられなかったのだろうか。
だから「Nのためよ」と言いながらも、私を影で支え続けてくれていたのだろうか。
私はシェリーにとって、「私にとってのトウコ先輩」のようになろうとしているのだろうか。後輩から先輩になろうとしているのだろうか。
私はトウコ先輩がそうしてくれたように、この手でシェリーを支えることができるのだろうか。

シア、私ね、このお守りを持って旅に出るよ」

ぐるぐると低迷する思考を切り裂いたのは、シェリーの凛としたソプラノだった。
旅、という言葉に私は息を飲む。彼女は腕の中のラルトスを抱き締めて、微笑んだ。

シアが託してくれたこの子と一緒に、旅に出る。ポケモンって何なのか、私、自分で答えを探してみる。……私に、できるかどうか解らないけれど」

私は間髪入れずに彼女の手を掴み「できるよ」と大声で紡いでいた。
臆病な彼女の、外の世界に開かれたその決意の芽を、絶対に摘んではいけない気がした。
私の方が縋るような目をしていたことに気付き、慌ててその手を緩めて笑った。彼女もそんな私にクスクスと微笑んでみせた。
腕の中のラルトスが、彼女の決意の強さを示すようにその赤いツノを瞬かせた。

2015.8.28

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