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「へえ、あんたが先輩になるのね」

食堂でロールパンを食べていたトウコ先輩は、私の方を見て楽しそうに笑った。
まだこんなに小さいあんたに後輩だなんて、と付け足すものだから、つい「小さいは余計です」と反論してしまった。

確かに私の背はかなり低いけれど、それでもその身に恥じない経験をこの2年間で得てきた筈だ。
それはポケモントレーナーになったばかりであるシェリーの歩みを支えられるだけの質量を持っていると信じたかった。
だって、信じていなければ、迷ってしまいそうだったからだ。そのような姿を彼女に見られる訳にはいかない。
私は彼女の親友であると同時に、彼女の先輩でもあるのだから。

けれどトウコ先輩は豪快な笑い声で、私のそんな決意を一掃した。
呆気に取られた私の前で、彼女は一頻り笑った後にいつものようにまくし立てる。

「ああ、そうね。あんたには私が「迷っていない」ように見えたのね。それならあんたの前で張ってきた意地も張り甲斐があったってものだわ」

その言葉で、私はようやく理解する。
トウコ先輩の、何事にも動じないその気丈な態度は彼女の虚勢だったのだと。
……勿論、それは彼女の一部であることには違いないのだけれど、彼女は殊に私の前では、それ以外の不安や葛藤といった感情を「見せないようにしていた」のだと。
彼女だって私と同じ人間だ。私よりも4歳年上だったとしても、イッシュを一人で救った英雄だったとしても、彼女は一人の少女なのだ。
私はそれを、当たり前である筈のそのことを、忘れていた。

「私だってただの人間よ。不安になることだって沢山ある。泣くこともあるし、弱音を吐くことだってあるわ。あんたにはそうした部分を隠していただけ」

「そう……だったんですね」

「気を張るのはシェリーの前だけにしておきなさい。「先輩」のレッテルを自分に浴びせていたら疲れ果ててしまうでしょう?
先輩でいることが苦しくなったり、気丈に振舞うことが難しくなったりしたなら、あの子のいないところで泣けばいい。
私はNの前でしか基本的に泣かないけれど、あんたにもそうした相手がいるでしょう。あんたの血が溢れる度にその手で拭ってくれる、白衣の優男が」

私は驚いた。彼女がNさんの胸を借りる形で泣いていたという事実にではない。
気丈な彼女にも私と同じような、迷ったり不安になったりといった心が宿っていたのだという告白にでもない。
彼女がNさんに縋ったように、私が縋る相手として、彼女が当然のようにアクロマさんを提示したことに、私は息が止まる程に驚いたのだ。
彼女にとってのNさんと、私に取ってのアクロマさんが並列されている。そのことは私に計り知れない程の衝撃を与えた。

「……私とアクロマさんは、トウコ先輩とNさんのような関係じゃありませんよ」

「あはは、愛だとか恋だとかいうことは解らないって? 構わないわよ。そんなこと、あいつだってちゃんと解っているわ。
あいつのことが何よりも誰よりも大切だって、あんたの想いがそれ以上の域を出ないのだとしても、それはそれでいいじゃない。少なくともあいつは待ってくれる、絶対に」

絶対に、と断言した彼女の言葉があまりにも強い語気を帯びていたので、本当にそうなのではないかと私は思ってしまった。
私にとって彼がどのような存在なのか、私は彼にどういった感情を向けるべきなのか。
そうしたことに迷い続け、一向に「大切な人」以上の答えを出すことができない私を、しかし彼は許してくれるのではないかと思えた。待ってくれるのだと信じられた。
少なくとも、彼のことは大切だ。誰よりも、何よりも。今はそれでいい気がした。
そんな彼に私の弱さを見せたとして、彼の前でみっともなく泣いたとして、それはきっと恥じるべきことでも何でもないのだろう。
私と彼の距離というのは、きっとそれくらいの近さにあるのだから。

「勿論、泣きたいのなら私の腕の中でもいいわよ。あんたはシェリーにとっての先輩になるんでしょうけれど、私からしてみれば、あんたはいつまでも私の後輩なんだからね」

その言葉に私は笑って頷いた。ああ、私は先輩でも後輩でもいられるのだと思うと、その立場が酷く贅沢なもののように思えたのだ。
そんな贅沢が許されていることが素直に嬉しかった。私はこんなところでも欲張りなのだと、そのおかしさに微笑まざるを得なかったのだ。

また別の日、ジョウト地方のコガネシティで、私はクリスさんの働く事務所にお邪魔していた。
彼女とは、あれからも頻繁に連絡を取っている。読書好きという共通点を見出した私は、クリスさんからいろんな本を紹介してもらっていたのだ。
冬の間の数か月で、私が読んだ本は30を超えた。まだまだ彼女の博識には及ばないけれど、それでも様々な分野のあれこれを自身のものとして行く行為は純粋に楽しかった。
彼女はあれからも、ジョウトで弁護士の仕事を続けている。変わったことといえば、シンプルな指輪が彼女の薬指を飾っていることくらいだろうか。

「ふふ、いいんじゃないかな。シアちゃんはこれからもっといろんな世界を見て、いろんなことを知るべきよ。本だけじゃ、経験は得られないもの。
ゲーチスさんもそう思っていたから、シアちゃんを送り出してくれたんじゃないかな」

プラズマ団を空けてもう一度旅に出るという報告に、彼女は肯定の意を示してくれた。
知識だけでなく経験が必要だというその意見は、誰よりも多くの本を読み、私よりも長い年月を生きてきた彼女により発せられることにより、強い説得力をもって私の胸を穿った。
「それで、行き先は何処なの?」と尋ねた彼女に、カロス地方ですと告げれば、その空色の目が大きく見開かれた。
これに驚いたのは私の方で、カロス地方に何かあるのだろうか、と少しだけ不安になる。しかし彼女はその後、クスクスとそのメゾソプラノの声音を震わせて笑い始めた。

「ふふ、素敵だね。これも縁なのかもしれないね」

その反応が気になって「どういうことですか?」と尋ねてみる。
彼女は暫く考え込むような素振りをした後で、私に一つの情報を与えてくれた。

シアちゃんが解読した「花の歌」。あのルーツがその場所にあるかもしれないよ」

「え……」

「あの遺跡に書かれた王のこと、壁画にあった不思議な花のこと、調べてみるといいんじゃないかな」

そう言った彼女が、カロス地方に行ったことがあるのかどうかを私は知らない。
けれどそれは確実に、その「王」や「不思議な花」の真実を知る者の言葉だった。彼女は全てを知っていて、それでいて全てを話すことはせず、調べてごらんと提案しているのだ。
あの壁画に書かれた楽譜を読み解いてごらんよと提案した時のように、彼女は全てを読み解いているのだろう。
そして私に、それを読み解くだけの力があると判断したから、私に敢えて答えを教えることをせず、調べてごらんと提案したのだ。
今回のそれも、きっとそうなのだろう。

それが私の経験となるのなら、何より、彼女が私に紐解くことができると評価してくれているのなら、是非、取り組みたかった。
頷いた私に、彼女は嬉しそうに頷いてからこんな言葉で私をカロスへと送り出してくれた。

「カロスはね、とっても美しい場所なの。シアちゃんはあの世界でどんな人との縁を繋ぐのかな」

よく晴れた春の日だった。足元に吹く風はまだ少し冷たかった。

この日のために新調した鞄の中には、4つのモンスターボールが入っている。
新しい土地で旅をするのだから、新しいポケモンと歩みを進めるべきだったのかもしれないけれど、私はどの子もイッシュの家に置いてくることはできなかった。
2年前に旅に出た時からずっと一緒のロトム、そしてダイケンキ。誰よりも速く空を駆けるクロバット。美しい声音を奏でるメロエッタ。どの子も、自慢のポケモンだ。

新しいスケッチブックと、使い古した24色の水彩色鉛筆。ゲーチスさんが買い与えてくれた、連絡用の小さな青色の通信機器。少しの非常食と、空のモンスターボール。
それらを鞄に詰め込んで、履き慣れたスニーカーの踵でアスファルトを叩いた。
私の右肩のあたりには、ロトムがいつものようにふわふわと漂っている。そして、その更に右。

シアさんのことが心配なら、自分が付いていけばいいものを。……おかげでわたしは楽しい思いができますから、今回ばかりはゲーチスに感謝しなければいけませんね」

二つの太陽がそっと細められる。白い手袋を嵌めた手が、私の頭をそっと撫でる。
思わず頬を綻ばせて微笑めば、ロトムが待ちきれないといったように先へと駆けていった。

「では、行きましょうか」

当然のように差し出された手を、当然のように握り返す。二人分の足音がアスファルトに木霊する。
ロ長調のメロディを脳内で繰り返しながら、まだ見ぬ土地に思いを馳せた。
あまりにも懐かしい旅立ちの高揚、それを告げる胸の高鳴りは、きっと隣を歩く彼にも訪れているのだと信じられた。
こうして共鳴した二人の音が、彼等を新しい土地へ運んでいく。

2015.8.28

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