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少女が泣いている。次から次へと零れる涙を右手で拭っては、痛々しい嗚咽を零している。拭いきれない涙が白い頬を伝い、プラズマフリゲートの甲板に落ちて弾ける。
出会い頭に飛びついて来たこの少女は、たった一つの報告を終えた後でせきを切ったように泣き出してしまっていたのだ。
……今まで、泣き虫なのは寧ろ私の方であった。事あるごとに泣きじゃくっていた私の涙を、いつも誰かが拭ってくれていた。
そのことに慣れ過ぎていた私が、今、こうして彼女の目元にそっと指を伸べている。

アクロマさんは、どんな風に私の涙を拭ってくれていたかしら。みっともなく嗚咽を零していた私の涙を、クリスさんはどんな風に止めていたかしら。
トウコ先輩はどんな言葉で、私の心を落ち着かせてくれたのかしら。ゲーチスさんはどんな顔で、私が泣き続けることを許してくれたのだったかしら。
それらを必死に思い出しながら、私はぎこちない手つきで少女の涙を拭った。彼女は泣き顔まで美しいのかと、そんなことを思いながら茫然とその姿を見ていた。

「嫌だよ。私、カロスになんか行きたくない。ずっと此処にいたい」

シェリー

「やっと、居場所を見つけたと思ったのに。やっと友達ができたのに……」

駄々を捏ねるようにシェリーは泣き続けていた。
腕の中のラルトスをぎゅっと抱き締めて、ソプラノの嗚咽を苦しそうに吐き出す。人の感情の機微に敏感なそのポケモンは、不安そうに赤いツノを淡く光らせた。
プラズマフリゲートの甲板に冷たい風が吹き荒ぶ、とても寒い冬の日のことだった。

シェリー」は、私と同い年の女の子だった。
仕事柄、イッシュの各地へと引っ越しを繰り返していた両親と共に、彼女は次から次へと住む場所を変えざるを得なかった。
そんな彼女が「引っ越しによって奪われることのない、自分だけの居場所」として選んだのが、このプラズマ団だった。
プラズマ団がどんな活動をしているのか、どのような理想を掲げているのか、彼女は何も知らなかったという。
知らないままに入った組織で、しかし彼女はそれなりに順応して暮らしていたらしい。
此処にいれば、見知った人達と一緒に暮らせる。彼女にとってこの組織はそうした場所だった。

プラズマ団の解散から1年と半年の月日を経て、ようやく組織が新しい姿で再興された時、きっとシェリーは誰よりも喜んだのだろう。
失ったと思っていた居場所が、またこうして戻って来た。誰にも奪われることのない場所に、もう一度戻ることができた。
彼女は生活に困窮していた訳ではなかったけれど、それでも彼女がプラズマ団での生活を愛していたことは、その口ぶりから十分に察することができた。

彼女は社交的な人ではなかった。それどころか仕事場である調理室でも寡黙を貫き、団員とも最低限の会話しかしなかったという。
けれど、それでも彼女は「楽しかった」と語った。自分が誰かの役に立っていること、毎日、同じ人に挨拶ができること、そうしたことがとても幸せだったのだと教えてくれた。
今でも私以外の人とはあまり話をしない。けれど、それでも彼女は楽しそうだった。

そうした「居場所」を得るためにプラズマ団へと入った彼女だが、その一員として働く中で、やはり何か思うところがあったのだろう。

『ねえ、シア。ポケモンって何なのかな?』

そう尋ねた彼女に、私は一匹のポケモンを託すことにした。
アクロマさんが私にロトムのタマゴを託したように、私も、ポケモントレーナーとして、彼女にその道を示すことができるのではないかと思ったのだ。

彼女に渡すポケモンとして、私はホウエン地方で出会ったラルトスを選んだ。
ヒオウギの実家で私の母と静かに暮らしていたラルトスは、しかし彼女に酷く懐いた。
彼女も自身の腕に収まる程に小さなポケモンを気に入ってくれたようで、それからラルトスは彼女と一緒に暮らしている。

まだ小さなラルトスを、彼女はポケモンバトルの場に送り出すことはしなかった。代わりにずっとボールから出して、腕に抱いていた。
以前のプラズマ団に属していた彼女にとって、やはりポケモンをボールに入れておくことには抵抗があったのかもしれない。
そう思い、一度尋ねてみたけれど、「ううん、そうじゃないの。ずっと一緒にいたいから、出しているだけ」と笑って答えてくれたので、
彼女も彼女なりにラルトスとの生活を楽しんでくれているのだと解り、まるで自分のことのように嬉しかった。

引っ込み思案で臆病で、何事にも酷く怯えたところのある子だった彼女は、やはり他のプラズマ団員と話をしようとはしなかった。
けれど私の前では、饒舌に話を交わした。同年代の人間が私だけであったこともあり、毎日のように顔を合わせる私達が親しくなるのに、そう時間は掛からなかった。
彼女が私に心を許してくれたことが、素直に嬉しかった。私も、同い年の女の子と友達になったのは初めてのことで、少しはしゃいでいたのかもしれない。
気付けば私とシェリーの間には、皆から「仲がいいな」と言われる程のとても短い距離しかなかった。それでもよかった。その距離を躊躇う理由など、何処にもなかった。

相変わらず、彼女は私以外の人と交流を持とうとしなかったがけれど、それも少しずつ変わっていくのではないかと思っていた。
だって彼女にはポケモンがいる。ポケモンを通して人との関わりを深めていくことは私にとって最早当然のことで、シェリーにもそんな時期がやって来るのだろうと信じられた。
そうして彼女はこれからも、この組織の一員として暮らしていくのだと、当然のように思っていた。

けれど時は流れる。全てのものは変わっていく。私も、彼女も。その理に抗うつもりは微塵もなかった。きっと彼女だってそれを解っている。
ただそれが、私達が考えているよりもずっと早く訪れてしまっただけ。その事実を受け入れることができなくて、駄々を捏ねているだけ。
解っている。解っているけれど、彼女の嗚咽があまりにも痛々しくて、私はかけるべき言葉を失って沈黙するしかなかった。

彼女の両親の転勤先が、カロス地方に決まったのだ。

彼等はシェリーを連れて、3人でイッシュを出るつもりだったらしい。
当然のように彼女はそれを拒んだ。私にはイッシュに居場所があるから、一人でも大丈夫だから、と。……けれど両親はそれを許さなかった。
彼等は、シェリーが再びこの組織に属することをあまりよく思わなかったようだった。
子供を想う親として、彼等の感情は当然のことだ。それが世間で言うところの悪であった「プラズマ団」ならば、尚更だ。

「プラズマ団がもう悪事を働くことはない」ここ2か月程でイッシュに浸透したその風潮により、団員たちは肩身の狭い思いをすることなく町を歩くことができるようになった。
しかし、プラズマ団という組織に対する世間からの風当たりが、完全になくなった訳ではない。
この組織を疑ってしまう心理は、私もよく理解している。それが自分の娘のこととなれば、尚更だ。だから彼等を責めるつもりはなかった。
加えて、彼女はまだ13歳だ。一人でこの地に残していくわけにはいかないと判断したのだろう。
彼等は全面的に正しい。だからこそ、私は何も言うことができなかった。

一頻り泣いた後で、シェリーは喉を苦しそうに震わせながら、しかしようやく笑顔を作ってみせた。

「我が儘を言ってごめんね。泣いたってどうにもならないこと、解っているのに」

私は大きく首を振った。「いいよ」とだけ告げて、彼女の美しいストロベリーブロンドをそっと撫でた。
何の解決にもならない涙の量ならば、きっと彼女よりも私の方が圧倒的に多い。私の方がシェリーよりずっと泣き虫で、だからこそ、彼女の涙を咎めることができなかった。

シア、私を覚えていてくれる? 私が向こうに言っても、変わらずに私の友達でいてくれる?」

縋るような声音が私の鼓膜を震わせた。壊れる寸前といった様子の儚い笑顔を湛え、彼女は泣き腫らした目でそう懇願する。
シェリーとは、友達だ。それは勿論、彼女が何処にいようと変わらない。けれど彼女に会えない毎日は、酷く寂しいものだろうと思った。
たとえ、彼女がイッシュの何処にいたとしても、私はクロバットに乗って直ぐに飛んで行ける自信があった。
あの日、ゲーチスさんを見つけ出したように、彼女に会いに行くことはとても容易いことである筈だった。

では、その「容易い」ことは、その場所がイッシュからカロスへと変わった瞬間に「不可能」となってしまうような、そんな脆いものだったのだろうか?

喉から熱いものがせり上がって来るのを感じていた。
それは今までで最も突発的で計画性のない発言で、けれどどうしても叶えたいという強い意志の付随するものだった。だからこそ、私は躊躇うことなく口を開いたのだろう。

「私も行くよ!」

叫んだその声は上擦っていた。その大きすぎる声音にシェリーは勿論のこと、発した本人である私でさえ驚いてしまっていた。
けれど私は自身の驚きに気付かない振りをして、続きを紡いだ。
それが私の嘘だったとしても、カロスへ行くことができなかったとしても、構わなかったのだ。
だって私には、「積み重ねた嘘を真実にする力がある」から。
カロスへ行くと宣言したからには、私はそれこそ血眼になって時間を作り、いずれはこの少女に会うために海を駆けることになるのだと確信していたから。

「私も、カロスへ行く。そうすれば、いつでも会えるでしょう?」

カロスという土地が、イッシュからかなり遠く離れた場所にあることは知っていた。
けれど私はこれまで、カントーやジョウト、ホウエンにもクロバットと一緒に飛んでいったのだ。カロスにだって、きっと行ける。いや、行ってみせる。
縋るような声音で「私を覚えていてくれる?」と紡ぐ彼女のためではなかった。私が、寂しいから。私が、彼女に会いたいと思ったから。
いつだって私は欲張りなのだ。それでいいと私の大切な人が紡いだのだ。だから私は躊躇わない。迷わない。

けれど、イッシュとカロスを阻む壁がその「距離」だけではないことを、私はこれから嫌と言う程に思い知ることとなる。

2015.8.27

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