クリスさんに貰った休暇も、あと1日だけとなった。
10月も終わりに差し掛かった頃、この時期に「お休み」を貰える理由を、私は正しく理解していた。
明日から11月になる。それは同時に、ゲーチスさんの裁判が数日後に迫っていることを意味していた。
『あの場所は私の舞台。あの場所で彼を救うのは、私の役目。だからシアちゃんは手を出さないで』
クリスさんにやわらかな口調で拒まれてから、私は彼女と裁判の話を一度もしたことがなかった。
私は彼女を信じているし、彼女の実力が本物であることも知っている。
何より、彼女は嘘を吐かない。そんな彼女が『今ならもっと上手くやれる』と断言したのだ。何も不安に思うことなどなかった。
クリスさんを不安に思っているのではない。不安なのは寧ろゲーチスさんの方だ。
私は裁判の日、証言台に立つ。彼が私を「脅迫して」身を隠していたという事実を、他でもない私の口から紡いだ真実によって否定するためだ。
けれど、それをゲーチスさんは望んでいるのだろうか。余計なことをと拒まれないだろうか。相変わらずの冷たい眼差しで、私の行動を否定しないだろうか。
たった2か月、会っていないだけなのに、私は彼を上手く信じることができなくなっていた。
もっとも、それは今に限ったことではなかったのだけれど。ずっと前から、あの冬の日に彼と再会してからずっと、彼を信じられたことなど、ただの一度もなかったのだけれど。
彼はもう居なくならないのだと、彼はもう二度と死を選ばないのだと、私は未だに信じることができずにいるのだけれど。
*
私は休暇の最終日を、イッシュのとある場所で過ごすことにした。
ヒオウギシティに向かい、母とラルトスにいつものように挨拶をしてから、クロバットの背中に飛び乗り、西にある樹海へと向かった。
この樹海は、大人達に「危ないから入ってはいけない」と言われていた場所だった。
生きることを諦めた人のための場所、野生のポケモンが激しい縄張り争いを繰り広げている戦場、霊的な何かが棲みついていて、一度入ったら出られなくなる迷宮。
そんな噂は人々をこの樹海から遠ざけた。だからこそ、ゲーチスさんは自分の身を隠す場所としてこの樹海を選んだのだろう。
カサカサと落ち葉を踏みしめる音。頬を撫でる冷たい風。遠くで聞こえるマメパトの鳴き声。
それら全てを五感で享受しながら、私は樹海を歩いていた。
やがて見えてきたあの家に思わず駆け寄り、窓から中を覗き込めば、あの日と変わらない空間がそこにあって、泣きたくなるような懐かしさが込み上げた。
ああ、あの日からもう直ぐ1年が経つ。
私がダークさん達の前でみっともなく泣き叫んだあの日。一思いに私を殺してしまえと、自分の罪に耐えきれずに世界を捨てようとしたあの日。
『旅なんてするべきじゃなかった。誰とも戦うべきじゃなかった。大事なもの、なんて、増やすべきじゃなかった。私は』
『私はきっと、誰とも出会うべきじゃなかった!』
誰もが誰もを救うことができなかった。この世界はそうした、とても理不尽で苦しいものだった。
けれどその世界の一部が、ほんの少しではあるけれど、変わろうとしている。多くの人達の協力によって、私とクリスさんの夢物語が現実になろうとしている。
『此処はお前の選んだ世界だろう。お前が願った、ポケモンと人が共に生きる世界だろう。捨てるな、見届けるんだ』
ダークさんの言葉を思い出し、私は両手を強く握り締めた。
あの言葉があったから今日まで歩いてくることができた。世界を見限らずにいられた。きっと私はあの日から、この世界に救われていた。
「……」
私はきょろきょろと辺りを見渡し、人が居ないことを確認してから、そっと口を開いた。
追い掛ける旋律は、昨日、私が解読したものだ。ロ長調の柔らかな、子守唄のようなそれを、たった16小節の短い曲を、私は樹海の中で何度も口ずさんだ。
勿論、この曲に歌詞などなかった。だから私は、鼻歌ともハミングとも取れそうな声音で旋律だけを追いかけていた。
落ち葉を踏みしだく音でリズムを取りながら、私はその、たった16小節を何度も何度も繰り返した。
奏でれば奏でる程に、心臓の底に沈んでいたあらゆる感情が波のように打ち寄せてきて、何故だか無性に、泣きたくなった。
『とても愛していた』
当然のように綴られたその一言が、私は、とても羨ましかった。
私には決して踏み入ることのできない優しすぎる境地が、あの壁画には刻まれているような気がしてならなかったのだ。
この歌を奏で続けていれば、あの「王」の心を理解できるような気がした。けれど、できないのだ。
己の首を絞めてしまう程の優しい想いの正体を私は知らない。『とても愛していた』という美しすぎる言葉を、私は自分のこととして感じ取ることができない。
私はあの言葉に共鳴できない。
愛を理解することは、恐ろしい程に難しい。
「え?」
そんなことを思いながら、私はもう何度目になるか解らない音を紡いだ。それと同時に、驚きの余り素っ頓狂な声を上げてしまった。
私のすぐ隣から、別の音が聞こえてきたのだ。ソプラノの美しい声音にはっと隣に視線を移せば、見たこともないポケモンが私を見上げていた。
翡翠色の大きな瞳がぱちぱちと瞬きをした。五線譜を模したようなその姿は私よりもずっと小さく、手を伸ばせば抱き上げられそうな程だった。
私と目が合うと、そのポケモンは慌てて木の影へと逃げ帰ってしまった。
追いかけようとしたけれど、怯えている子の後を追っても怖がらせるだけだと思い、私はその場から動くことを止めて、もう一度あの旋律を奏でた。
暫く歌っていると、やはりそのポケモンはこの音が気になるのか、木の影からひょいと顔を出し、白くて細い脚でステップを踏むようにそっと駆け寄って来た。
私は目を合わせないように、けれどそのポケモンを視界に入れつつ、同じように歌っていた。
そうして再び私の隣にやって来たその子は、私の音に合わせてコーラスを歌い始めたのだ。
音楽を奏でることのできるポケモンがいるなんて、知らなかった。私は驚いたけれど、もう歌を止めることはしなかった。
ああ、なんだ。一緒に歌いたかったんだね。
私はそのポケモンの、五線譜を模ったような頭をそっと撫でてみる。すると今度は甘えるかのように、音符を模した両手をこちらへと差し出してきた。
小さな身体をそっと抱き上げて、私はそのまま歌い続けた。ポケモンは私の音に合わせて見事な和音を奏でていて、心が弾むような楽しさを覚えた。とても、楽しかったのだ。
あちこちを走り回ったり、皆と話をしたり、遺跡に潜ったり、本を読んだりするのも勿論、楽しかった。
けれどこうした旋律がもたらす高揚は、他の何物にも代えがたい尊さがあるのだ。私はこのポケモンとのコーラスで改めてそれを思い知ることとなった。
目を閉じて歌っていた私は、いつの間にかそのポケモンの姿が変わっていたことに気付かなかった。
故に目を開けたその瞬間、腕の中のポケモンが、淡いグリーンから明るいオレンジ色に変わっていて、あまりの驚きに思わず彼女を取り落としてしまった。
「わ! ……ご、ごめんね、大丈夫?」
慌てて謝る私に、しかしそのポケモンは意に介する様子を見せず、楽しそうに笑いながら落ち葉の上を軽やかなステップで舞った。
安堵の溜め息を吐いた後で、私は近くにあった木の幹に凭れ掛かるようにして腰を下ろし、彼女に旋律を提供した。
私とそのポケモンとの間で共鳴するメロディがとても心地よくて、とても楽しくて、私は時間を忘れていた。
目を閉じて、私はこれまでのことを思い出していた。
『解っているの? これはあんたの欲張りが高じて起こったことなのよ?』
『変えよう、シアちゃん。私達で、その不条理を覆すの』
『私は、傲慢だと思う。プラズマ団の人達が居場所を失ったことも、ゲーチスさんが衰弱して死の淵を彷徨っていたことも、全部を自分のせいにして背負うなんて、欲張りだよ』
『……貴方は、俺達の罪悪感を奪い取るのがとても上手ですね。あの時も、今も』
『ああ、なんだ。さっきの言葉は偽善でもなんでもなくて、君の本当の思いだったんだね。まったく、なんて欲張りな子だろう!』
『ただ、もしそれでも貴方の立てた夢物語がみっともない破綻を迎えたら、その時は、……覚えていてね。シア、私は貴方を軽蔑するわ』
『そうだね、その夢、一緒に叶えよう!』
『私、ずっと貴方を待っていたの』
『貴方が間違っていても、わたしが支えます。だから不安にならなくていいのですよ』
『待っていなさい。迎えに行きます』
たった16小節の短い旋律に、これまでの記憶を乗せながら私は歌った。
不思議なことに、不安だった全てのことに希望が持てた。大丈夫だと確信することができた。
大嫌いだった筈の理不尽な世界すらも、いつか受け入れることができる気がした。愛という理解の及ばないものに対しても、恐れる必要などないのだと思うことができた。
だって私達はこの世界で生きているのだから。私達の居場所は今までもこれからも此処だけで、だからこそ、立ち止まっている訳にはいかないのだから。
私達は、変わることができるのだから。
このポケモンの奏でるメロディには、心を元気づける力があるのかもしれない。
そんな風に思いながら、私は「ありがとう」と感謝の言葉を紡いだ。
「君のおかげで勇気が出てきたよ。素敵なメロディをありがとう」
すると彼女はその姿を先程の淡いグリーンに戻し、慌てたように私の方へ駆け寄ってきた。
音符を模した手で、縋るように私の服を強く掴んでいる。「一緒に来る?」と尋ねれば、ソプラノの歓声と共に私の腕に飛び込んできた。
どうやら明日からも、この不思議なポケモンと一緒にコーラスができるらしい。
私はポケモン図鑑を取り出して、腕の中のポケモンにかざしてみた。彼女はどうやら「メロエッタ」というらしい。
2015.8.14