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休日の2日目、私はヒオウギシティの自室で、全身を襲う筋肉痛に頭を悩ませていた。
長時間、海に潜っていることが、こんなにも体力を消耗するなんて思ってもいなかった。陸で生きることに慣れ過ぎてしまった人間は、長い時間、海に居ることはできないらしい。
泳ぎは得意な筈だったんだけどなあ、と思いながら、私は久し振りに、母の作ってくれた朝食を食べた。

そうしてヒオウギシティのポケモンセンターに併設されたショップに、使い捨てのカメラを渡し、昨日の写真の現像をお願いした。
20分ほどで現像された30枚の写真を受け取り、私は直ぐにジョウトのコガネシティへと向かった。目的は勿論、クリスさんに会うためだ。

「もう読み終わったの? 相変わらず、早いね」

彼女は感心したような声音を紡ぎながら、しかしいつものように柔和に微笑んで考古学の本を受け取った。
本が好きな私が、これくらいの本を数時間で読み終えてしまうことなど、クリスさんは当然のように予測していたのだろう。
けれど、流石に私が、その日のうちにイッシュの海底遺跡に潜ったことまでは予測できなかったようで、現像した写真の束を差し出すと、その目に驚愕の色が宿った。

「……ふふ、シアちゃんは考古学の博士にでもなるつもりなの?」

「そんなことありませんよ。ただ、私もずっと気になっていた場所だったので、この機会に見ておきたいなと思って」

シアちゃんは、思い立ったことを直ぐ行動に移せるんだね。そのフットワークの軽さは、これから先もいろんなところで活きると思うよ。
でも、あまり焦り過ぎないようにね。これだけの写真を取るためにずっと潜っていたんだから、筋肉痛で全身が痛くなっているんじゃない?」

鋭い指摘に苦笑しながら「その通りです」と頷けば、彼女は笑いながら私の頭を撫でた。
そうして彼女は私が差し出した写真を、感心したように1枚ずつ眺めていたのだが、その視線がある1枚でぴたりと止まった。
それは4階の部屋の奥にあった、不思議な形をした花の絵だった。
3枚の尖った花弁の間から、更に小さな花弁が開いていて、全体で見れば6枚の花弁が確認できる。こんな花は見たことがなかった。クリスさんもどうやら知らないらしい。
この時代の遺跡が、今では海の底に沈んでいる。それ程に昔の出来事なのだから、今の私達がこの花を知らないのも無理のないことなのではないかと思っていた。

「遺跡の4階にあった、広い部屋の奥に描かれていたんです。下には小さな絵が並んでいました。これは……古代文字でしょうか?」

「うん、そうだね。海底遺跡の文字は既に解析が進んでいるから、資料があれば直ぐに読み取れるよ」

彼女はそう告げながら、その写真に顔を近付けてじっと見つめていた。やがて下りた沈黙を持て余し、私は写真を見つめている彼女をじっと観察した。
クリスさんが貸してくれたあの本の中には、この資料の写真は含まれていなかった。
もしかしたら、この花の壁画はとても珍しいもので、だから驚いているのかもしれないと私は思ったけれど、
やがて彼女の視線が、その写真の中央に写る花ではなく、周囲に描かれた波のような模様に落とされていることに気付き、首を捻った。

クリスさんはその波のような模様に何度も人差し指を這わせ、一瞬の思案の後でいつものように微笑み、信じられない言葉を紡いだ。

「これ、楽譜に見えるね」

……きっとその時の私の頭上には、大きな疑問符がぷかぷかと揺蕩っていたことだろう。
楽譜とは、音楽を演奏する時の譜面のことだ。五線譜という五本の線の上に、規則に従って黒い点や白い点を描いていく。
私はもう一度、その波のような模様をじっと見つめてみた。しかし五線譜であるべきその波には、七本もの線が彫られていて、音符であるべきものはよく解らない形をしていた。
尚も首を捻る私に、彼女はクスクスと笑いながら続きを説明してくれた。

「だって、大昔の遺跡なんだもの。文字が変わっているように、楽譜の描き方だって変わっていてもおかしくないでしょう?」

「……これに似たものを、見たことがあるんですか?」

「ううん、ないよ。ただの勘。でも私なら、愛したポケモンにこうして音楽を捧げたくなるだろうなと思って」

彼女の言っていることが、私にはどうしても解らなかった。そこに私は、私と彼女との大きすぎる知識の隔絶を見た気がした。
博識な彼女は、資料がなくても古代文字を読み解くことができるのではないか。
私にはただの小さな絵の羅列にしか見えないそれを、彼女は既に「言葉」として捉えることに成功しているのではないか。
この古代文字は、「愛したポケモンに捧げた音楽」のことを綴っていて、彼女はその文字を踏まえて、七本の線で描かれたその波を「楽譜」だと推定したのではないか。
私は思わずテーブルに身を乗り出し、「何て書いてあったんですか?」と尋ねたけれど、彼女は笑顔で首を振り、私の質問をやわらかく拒んだ。

シアちゃん、考古学は自分で調べてこそ価値があるのよ。コガネシティの図書館に、古代文字と譜面に関する本があるから、調べてみたらどうかな?
この譜面を解析できたら、シアちゃん、考古学者になれるかもしれないよ」

「……もし、楽譜じゃなかったら?」

「その時は「ああ、残念だったなあ」って溜め息を吐いて、おしまい。考古学は最短ルートで正解を導き出せる訳じゃないもの。
何度も何度も失敗して、やっとそれらしい答えを手に入れることができるのよ。出会うことができなかった昔の人のことを覗くんだもの、それくらいの覚悟と気概がないとね」

私はその写真を手に取り、考え込んだ。
……確かに、七本の波の上に不規則に置かれた歪なバツ印や星型の模様は、音符を示しているように見えなくもない。
調べてみようか、という思いが浮かぶのに、そう時間は掛からなかった。
幸いにも現代の楽譜なら読むことができるし、もしこれが本当に、何らかの「曲」を示しているのであれば、こんな楽しい発見は他にないだろうと思った。
そして何より、私は昨日の長時間のダイビングで、全身を痛めていた。これでは外を歩き回ることなどできやしない。
クリスさんがくれた休暇の間、図書館に入り浸るのも悪くないのではないかと思えた。

「私、行ってみます」

「ふふ、もし解析できなかったとしても、ゲーチスさんはきっと喜んでくれると思うよ。自分が興味や関心を誰かと共有できるって、とても嬉しいことだから」

その言葉に私の心臓は大きく跳ねた。ああ、やはりクリスさんは、この本がゲーチスさんの愛読書であることを知っていたのだ。
彼の弁護人であり、定期的に彼と話をしている彼女なら、それくらいの情報を得ることなどきっと容易いことだったのだろう。
「その本、私も好きなんですよ」と、二人で談笑したのかもしれない。そんなことを思いながら私は笑った。
頑張ってね、と手を振るクリスさん私も大きく手を振り返して、私はその足でコガネシティの図書館に向かった。

……今、思えば、きっと彼女は「勘」ではなく「確信」していたのだろう。
あの不思議な波の模様が「楽譜」であることを、あの波が「曲」を表していることを。
博識なクリスさんのことだ、その気になれば直ぐにでも、この波を解読することだってできたのだろう。
けれど彼女は敢えて私にそれを託した。その意図は解らないけれど、私は、「私にもできるレベルの解読だから私に託してくれた」のだと解釈していたかった。
彼女は私の力を信頼してくれたのだと、そう信じていたかったのだ。

だからその数時間後、ようやく手元のノートに「それ」を書き上げることができた時の、身を焦がす程の感動と歓喜は最早、説明するまでもないだろう。
私は机の上に十数冊の図書を積み上げ、ひたすらにその「波」の解読に勤しんでいた。

それと同時に、今までただの絵の羅列だと思い込んでいたものが、古代文字であることも知り、そちらの解読にも努めていた。
古代文字は現代の言語への対応表が既に完成していたため、私はそれを探し、文字を当て嵌めていくだけでよかった。
そうして出来上がった文章と、たった16小節の短い曲を、私は交互に見比べた。

『男とポケモンがいた。とても愛していた』
『戦争が起きた。男の愛していたポケモンも戦争に使われた』
『数年が経った。小さな箱を渡された。男は生き返らせたかった。どうしても、どうしても』

……ここから先のことは、私の想像に過ぎない。けれど、限りなくこうした状況に近い場面だったのではないかと思う。
この譜面はきっと、海底遺跡の古代文字に何度も登場した「王」が作り上げたものだ。
そして、この楽譜はその「王」が、愛するポケモンのことを悼むためのものだ。生き返らせたいと望む程に、狂おしい程に想う曲なのだ。

『愛していた』

死んでしまった命が、元に戻ることはない。それは世界における普遍の理である筈だった。
死んだ命は、生き返らない。当然のことだ。生き返らせたいと願っても、どうにもならないことを、きっとこの「王」も解っていた筈だ。
けれど、それでも彼は『生き返らせたかった』と綴った。
当然の節理に対して王を盲目とさせたのは、そのポケモンへの『愛していた』という想いなのだろうか。

強すぎる想いは、時として盲目となる。私は私の旅で、それを痛い程に理解していた。
愛故の激情を、愛故の怒声を、愛故の暴動を、私は数え切れない程に見てきた。その「正気を手放してしまいそうな想い」の正体を、私はまだ、計り兼ねていた。
ゲーチスさんやアクロマさんが突如としていなくなってしまったあの時、私は酷く狼狽したけれど、あれは少し、違うような気がした。
あれに「愛」を当て嵌まるのは、酷く滑稽であるような気がした。あれは紛れもなく「恐怖」によるもので、愛などという優しいものでは決してない。

けれど、その優しい愛が、その優しい筈の想いが、時として人の首を絞める。
そんな「愛」の持つ悲しい温度が、この曲には綴られているような気がした。

思わず窓の外を見る。もう陽はすっかり沈んでいて、閉館のアナウンスが流れ始めていた。
私は大量の本を元あった本棚に返すため、慌てて立ち上がった。

2015.8.13

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