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10月も終わりに差し掛かろうとしている頃、クリスさんから唐突に「休暇」が下りた。

シアちゃん、2か月くらいずっと走り回ったり、勉強したりしてばかりだったでしょう?だから3日間、お休みにします。
プラズマ団の皆のことも、デボンやシルフの取引のことも、明日から全部忘れて、のんびりしてきてね」

その号令は私だけでなく、トウコ先輩やNさん、アクロマさんにも同じように下されていた。
トウコ先輩は「それじゃあ、久し振りにシンオウ地方に遊びに行こうかな」と、早々に荷物を纏めて飛び出していった。
彼女を見送ったNさんは、「シルバーと一緒に、ヒビキのお見舞いに行ってくるよ」と笑ってコトネさんの家へと戻っていった。
「わたしはプラズマフリゲートで自室の片付けをしてきます」と、サザンドラの背中に乗り、飛び去ったアクロマさんを見送ってから、さて、私はどうしようと一人考え込んだ。

ここ2か月程は、目の回るような忙しさだったため、「何もしなくていい」と言われてしまうと、何だか不安になってしまい、そしてそんな自分に苦笑した。
……私は、この夢物語を追い掛けるまで、一体、何をしていたのかしら。

記憶の海を泳ぎ、そうだ、ゲーチスさんのお見舞いに行っていたのだと思い出したけれど、彼はとっくに退院していて、今は別の意味で会うことができずにいた。
それまでは、プラズマフリゲートの中にあるアクロマさんの部屋でいつものように紅茶を飲んだり、ホドモエシティのポケモンワールドトーナメントに参加したりしていた。
……しかし、片付けをするという彼のところにお邪魔するのは気が引けたし、ポケモンワールドトーナメントに出場なんてしたら確実に目立ってしまう。

そんなことを暫く考えていると、海を渡ってくる美しいポケモンの姿を見つけた。思わず目を凝らせば、スイクンであることが確認できた。
そのポケモンの背中に乗っていたクリスさんは、私の前でひょいと飛び降り、手に提げていた紙袋を私に差し出す。

「前に言っていた考古学の本、遅くなってごめんね」

「え、わざわざこのために来てくれたんですか? ありがとうございます!」

「ふふ、どういたしまして。どうしてもすることがなくなったら、私の事務所においで。おすすめの本を見繕っておくからね」

そう言って、彼女は再びスイクンの背中に飛び乗り、風のように走り去っていった。
クリスさんの髪と目は、透き通った空の色をしている。その色が、水の化身と称えられるスイクンにとてもよく似合っていて、私は彼女とスイクンを見る度に感嘆してしまう。

そんな一人と一匹の姿を見送ってから、私は彼女に渡された紙袋に視線を落とした。
読書好きという共通点を見つけて以来、私はクリスさんから色んなジャンルの本を紹介されていたのだ。
専ら、経済や法律に関するものだったけれど、たまに「私のお気に入りの物語なの」と小説を渡されたり、「深海のことが詳しく書いてあるのよ」と図鑑を勧められたりした。

今回の考古学は、私からのリクエストだった。そもそも考古学というものが何をするものなのかを知らなかった私に、クリスさんは勉強の合間に、そうしたことも教えてくれた。
何故、考古学に興味を持ったのか。……それはきっと、あの病室でゲーチスさんがいつも読んでいた本が、考古学に関するものだったからだろう。
彼はアクロマさんのように、自らが詳しい学問について丁寧に説明してくれる人ではなかった。
私の質問には辛うじて答えてくれたけれど、自分からその内容を話すことはなかった。
故に私はその「考古学」というものへの興味を持て余したままでいたのだ。

そうして今、彼女が渡してくれた本は、所謂「おすすめ」の本だった。
博識な彼女が勧める本というのは、総じてレベルが高い。私がいくら頭を捻っても、理解できないことが山のようにある。
きっとこの本も、後日、クリスさんに解説をしてもらいながら読むことになるのだろう。そう思いながら、私は紙袋からその本を取り出して、……絶句した。

ゲーチスさんが毎日のように読んでいた本が、目の前にあったのだ。

「え、嘘、これ……」

心臓が乱暴な鼓動を奏でていた。私は慌てて本をひっくり返した。
そこには、コガネシティの図書館の名前が刻まれていて、ああ、この本が私の手元にやってきたのはただの偶然だったのだとようやく気付いた。
私はその本を抱え、一人笑った。だって、こんな偶然ってあるだろうか。
クリスさんが常に謳っていた「縁」というものの正体を、そのたった一つの単語が為す意味の尊さを、私は今、正に実感していた。

この偶然は、もしかしたら偶然ではなかったのかもしれない。
クリスさんは、これがゲーチスさんの愛読書であることを知っていて、それでわざとこの本を選んだのかもしれない。
けれど、彼女があの人の愛読書を知っていたとしても、彼女は自分が「いい」と思った本以外のものを決して勧めたりしない。
これは他でもない、彼女のおすすめの本で、今回、それがたまたま彼の愛読書と重なった、それだけのことだったのだ。
そんな偶然を「縁」という温かい単語で装飾して、私は本を広げた。

そして今、私はイッシュのサザナミ湾に潜っている。その理由は言うまでもなく、あの本にあった。

クリスさんが勧めてくれた考古学の本には、各地方のあらゆる遺跡や神殿の話が書かれていた。
アルフの遺跡に住むアンノーンのこと、石の洞窟にある大きな壁画のこと、遠くの地で起こった3000年前の戦争のことなど。
その中で、私はイッシュ地方にある海底遺跡に目を付けた。どうしても、実物をこの目で見てみたいと思った。
マリンチューブを通ってセイガイハシティへと抜けるルートしか使ったことがなかった私は、その海に潜ったことがなかったのだ。

『遺跡の周囲には潮が特殊な流れを形成していて、長時間の調査は不可能である』
『一部の文章は解読に成功しているが、未だに現代の言語に当て嵌めることのできない単語も数多く存在する』
『遺跡の壁に描かれた絵画の一部を此処に掲載する』

解読された文章の中に繰り返し登場する「王」。現代に生きる私達には全く意味を紐解けない、不思議な絵画。
それらは強烈な引力をもってして、私をこの遺跡へと運んだ。私がこの海に潜る理由など、それだけで十分だと思った。

10月という、海水浴には適さない季節に海へと潜ることへの抵抗はなかった。
アクロマさんがいつか「海の温度は陸上のそれよりも3ヵ月程遅れて変動するのですよ」と教えてくれたことがあったからだ。
彼の言葉通りならば、10月の海は、陸上で言うところの7月の温度だ。おそらく、一年で最も水温が温かい頃だろう。風邪を引く心配はなさそうだった。
セイガイハシティで予め借りてきたマリンスーツに袖を通し、波の中へ飛び込めば、彼の言葉を証明するかのような、温かな海水をスーツ越しに感じ取ることができた。

ダイケンキの力を借り、遺跡へと潜った。簡易ボンベを口に加えて遺跡の入り口を目指した。
その本にあったとおり、遺跡の周辺には不思議な海流が、遺跡の中への侵入を拒むように通っていた。
その流れに逆らい、遺跡へ入ることができても、私の後を追い掛けるように潮の流れが迫ってくる。その恐怖を振り払うように、私は夢中で遺跡の奥を目指した。

予め、カメラを透明な袋に入れ、水が入らないようにしっかりと封をしておいた。そのカメラで、手当たり次第に目に留まった壁画を撮って回った。
壁に書かれた文字もついでとばかりに撮影していると、あっという間に海流がやってきて私を遺跡の外へと押し出してしまう。
自慢の泳ぎもこの強すぎる海流では全く意味を為さなかった。ダイケンキがいてくれて本当によかった。

遺跡の1階はまるで迷路のように入り組んでいて、東西南北、4つの入り口からそれぞれ入り、全ての通路をなんとか渡りきった。
何度も挑戦を重ね、遺跡の2階、3階へと上がれるようになった。どうやら恐ろしい程に広いのは1階のみのようで、2階、3階はあまり探索を必要としなかった。
一体、この遺跡はどこまで続いているのだろう。少し恐ろしくなったけれど、屈することなく奥へと進んだ。
けれど私が屈しようと屈すまいと、やはり海流が私を外へと押し出していく。成る程、これは調査が難航するのも頷ける。私は苦笑しながら、もう一度海に潜った。

4階にまで辿り着いた頃には、海に夕日の色が滲み始める時刻となっていた。
今までの迷路のような廊下とは異なり、そこには大きな部屋が一つ、構えられているだけだった。
私を追いかけるように遺跡の中へと流れ込んでいた海流の音も、今は聞こえない。どうやら4階にはあの海流はやって来ないらしい。
私は簡易ボンベの残量に気を付けながら、遺跡の中を見て回った。

部屋の最奥に、不思議な形をした花が描かれていた。

私はその大きな絵を写真に撮り、ダイケンキに部屋を出るように促した。
3階へと下りれば、先程の海流が待ち構えていたかのように私達を絡め取り、遺跡の外へと押し出した。
海面に勢いよく顔を出せば、沈みかけている夕日が凄まじい眩しさで私の目に焼き付いた。

陸に上がれば、水の中に居た時には全く感じなかった、身体の疲労がズシンと重くのしかかってくる。
今にも倒れてしまいそうな程の倦怠感に、「ちょっと夢中になり過ぎたかな」と、ダイケンキと顔を見合せて笑った。
マリンスーツと簡易ボンベを返した頃には、もう陽が完全に沈んでしまっていた。
私は久し振りにヒオウギシティの実家に戻り、母とラルトスへの挨拶もそこそこにベッドへと倒れ込み、眠りについた。

こうして、1日目の休日は過ぎていった。

2015.8.13

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