59▽

シアちゃんは勇気の子なんですよ」

ボールペンをくるくると回しながら少女は笑う。3回に1回の頻度でボールペン回しは失敗し、テーブルに落ちる。面会室に軽い音が響いた。
「ああ、失敗」そんな風に零しながら、しかし彼女は懲りることなく再びくるくると回す。
肩上で切り揃えられた、ウエーブのかかった空色の髪が、彼女がペンを回す度にふわふわと揺れた。

「私達が諦めてしまった全てのものを持っているんです。彼女となら世界を変えられるかもしれないって、思ったんです」

「……」

「私、自分の野望のために、シアちゃんを利用しているんです。酷いでしょう? かつての貴方が、自分の野望のためにNさんを利用したのと同じくらい」

いつものように笑顔で男を叱責しながら、彼女は歌うように紡いでクスクスと笑う。
解っている。この男がNという少年を自分の私欲のために育て上げたことと、この女性があの子供と協力して世界を変えようとしていることとでは、天と地ほどの差があるのだ。
にもかかわらず、彼女は他者を巻き込み自分の野望を叶えようとしている点で、自分と男は同じなのだと笑顔で言い放つ。自分はこんなにも酷い人なのだと謳ってみせる。
食えない人だと思いながら、男は小さく溜め息を吐いた。

「しかし、あの子供を買い被りすぎでは? あれはほんの少しポケモンバトルが強いだけの、ただの子供ですよ」

呆れたようにそう紡げば、その瞳と髪に空を宿した女性は少しだけ驚いたように目を見開き、しかしすぐにいつもの笑顔をとりなした。

「ゲーチスさん、シアちゃんのことが好きなんでしょう?」

そのような浮かれた単語を、よもやあの子供との関係に当て嵌められるとは思っても居なかっただけに、男は驚き、僅かに狼狽えてしまった。
何を馬鹿なことを、と一笑に付せるものなら付してやりたかったが、その単語への驚愕が男にそうさせるだけの余裕を奪っていたのだ。
その様子を楽しそうに見つめながら、彼女は更に続けた。

「あの子を守りたかったんでしょう? 貴方自身の何を犠牲にしても」

そう紡いで彼女はすっと目を細める。その顔は確かに微笑みの様相を呈していたのだが、そのあまりの底知れなさに男は息を飲む。
常に笑顔を絶やさぬこの女性の、その瞳に映る壮絶な深みを垣間見てしまったような気がして、背中を冷たい汗が伝った。

『ゲーチスさんですね。私はクリスと言います。シアちゃんに頼まれて、11月に行われる貴方の弁護をすることになりました』

20歳になったばかりだというその女性は、彼がイッシュの国際警察支部に出頭した後、検察側の起訴とほぼ同時に現れた。
いかにも新米、という雰囲気を纏った、少女の面影を残す女性だった。
自分に当てられた弁護士を信用する気など端からなかったこの男に、しかし彼女が紡いだ「シア」という名前は、殊の外、鋭く突き刺さったのだ。
以来、定期的にこの弁護士と面会を重ねてきた男だが、彼女は驚く程に「弁護」の話をしなかったのだ。

話題に出ることと言えば、専ら「シア」のことだった。
どういう経緯で知り合ったのか、彼女が何をしているのか、どんな目的でイッシュを走り回っているのか、男ともう一人の急な出頭が彼女をどれだけ不安にさせたか。
クリスと名乗ったこの弁護士は、驚く程饒舌にその少女のことを話した。楽しそうに、時に憧憬を込めた声音で、時に柔らかく男を責めるように。
彼女はその話の中で、男の反応を笑顔のままに観察していたが、男にはその観察があまりにも丁寧で、鋭いものであると気付いていた。

彼女は長い時間を掛けて、男がシアの元へ帰るべき人物であるか否かを見定めようとしていたのだろう。

「……それは違いますね。私はあれに恋慕めいたものを抱いたことなどありません」

「でも、貴方はこうして此処にいます。他でもない、シアちゃんのために」

そうして彼女は、男の真意を見抜くに至ったのだ。
現に次の質問は、既に質問の響きを呈していなかった。疑問の形をしたその言葉は、既にこの空色を宿した女性の中で真実になっていたのだろう。


「これが愛というものだと思ったのですが、違いましたか?」


先程から妙に浮ついた言葉ばかりを選ぶこの女性は、その切れる頭や柔らかな叱責、鋭い指摘に似合わず、とても少女めいた心を持っている。
そのアンバランスに強い懐かしさを覚えて男は小さく微笑んだ。同じ感情を確か、雨の冷たさに恐怖を覚えて震えているあの子供にも抱いた気がした。

あの子供に敵う筈がなかったのだと、認めてから約半年が過ぎた。
半年という月日は、男がこれまで生きてきた長い時間に比べれば些末なものだったが、それでも「懐かしい」と思わせるだけの温度をその想いは孕んでいたのだ。
そして、目の前の空色を纏ったこの女性は、その想いを「愛」だと断言して笑う。自身には酷く不釣り合いなその単語も、しかしあの子供には相応しい気がした。
それならば、あの子供に向けられた想いがそうした浮ついた単語で表現できたとして、それは至極当然のことだったのかもしれないと思えたのだ。

「その「問い」に答える義理はありませんが、しかし随分な自信ですね。お前には人の心を読む力でも備わっているのですか?」

「いいえ、私に読めるのは未来だけです」

またしても驚くべきことを平然と紡いだ彼女に、今度こそ男は目を見開いて「は?」と素っ頓狂な声を上げてしまう。
その様子に彼女はお決まりのようにクスクスと笑いながら、「大したことじゃありませんよ」と告げた。

「予言を聞く訳でも、白昼夢が未来の映像を映してくれる訳でもありません。だいたいこうなるだろうなっていう可能性の計算です」

「……計算」

「ふふ、大丈夫ですよ、ゲーチスさん。貴方には必ず執行猶予が付きますから、判決と同じ日にシアちゃんに会うことができます」

私を、信じてください。
そう付け足した彼女に、しかし男は喉を鳴らすようにくつくつと笑いながら「それは難しいですね」と返した。
酷いなあ、と零しながら、しかし別段傷付いた様子を見せることなくいつものように笑っている。
「未来」が見えるという彼女にとって、男がそう返すことも解っていたのかもしれない。だからこその柔和な笑みがそこにあったのだ。

この少女のような幼さを残す女性は、かつて男が利用するために手に掛けた青年と同じくらい、いや、それよりももっと凄まじい力を内に秘めているのではないか。
そう思わせるに十分な気迫を、彼女はそのふわふわとした笑顔の中に隠していた。
……ああ、どうして天というものはたった一人にあまりにも多くの才能を授けたがるのだろう。そう思いながら男は、からかうように次の言葉を紡ぐ。

「お前の依頼人は私ではない。あの子供でしょう。あの子供は本当に、私が此処から出ることを望んでいるのですか?」

「ふふ、ゲーチスさん。もし本気でそんなことを言っているのなら、また首を絞められてしまいますよ」

そして彼女はまたしても、男と少女、それに男の忠実な僕しか知り得ない筈の過去を当然のように暴いてみせる。
ダークトリニティが自らその話をするとは思えない。となると、必然的にあの子供が口を滑らせたことになる。
厄介なことをしてくれたと思いながら、その実、男は全く苛立っていなかったのだ。
あの小さな手が男の首に添えられた日のことを、驚く程の穏やかさで回想することができていた。半年という短い筈の月日は、男にとってそうした時間だったのだ。

シアちゃんは、ゲーチスさんのことが大好きなんですよ。貴方が彼女に抱いているものと同じものを、彼女は持っているんです。
半年もあの子と一緒にいて、気付かなかったなんてこと、ありませんよね」

……やはり、この女性には人の心を読む能力でも備わっているのではないか。計算から未来を導き出せる彼女なら、そうしたことも容易いのではないか。
そんなことを思いながら、決して屈することをしない朗らかな声音に、男は眉をひそめる。
ああ、どうにも最近、透き通った空気や水を思わせる目に絆されていけない。この女性も、あの子供も。

「私を信じられないのなら、シアちゃんを信じてください。貴方が、シアちゃんの信頼に足る人間であることを願っています」

「……お前に言われずとも、そのつもりですよ」

息をするようにそう告げれば、彼女は今度こそ声を上げて笑い始めた。男は大きな溜め息を吐いてから、その声に耳を傾ける。
鈴を転がすようなメゾソプラノは、あの子供のそれに酷く似ている気がした。

2015.8.13

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