57◆

前置きしておくと、これはシアの先輩である私が、つい先日経験した拙いエピソードだ。
私にとってはとても重要だけれど、世界に放り込めばとても些末な、私とその「幼馴染」とのつまらない口論だ。どうぞ、笑ってほしい。

私達の活動の拠点は、ジョウト地方にあるコトネの家となっていたけれど、頻繁にイッシュへと赴く日が増えてからは、自分の家で眠ることも少なくなかった。
トウヤも母もいつも通りで、酷く安心したことを昨日のことのように思い出しながら、私はグラスに入った水を一気に飲み干す。
ゲーチスとアクロマが出頭してから、1か月半が経った。10月も半ばに差し掛かった秋の室内は、冷房も暖房も聞かせる必要のない、とても心地いい温度を保っていた。
にもかかわらず、私は手に汗をかいていた。それはきっと、テーブルを挟んで向かいのソファに座る、二人の幼馴染の存在が起因しているのだろう。

『久し振りだね、トウコ

そう告げて私の了解を得ることなく上がり込んだチェレンと、その後に続いたベルは、その目に様々な感情を宿して私を見据えていた。
長い沈黙の後、口を開いたのはチェレンだった。

「1か月も音信普通のまま、どこに行っていたんだい? まさか君が、置いていかれる側の気持ちを推し量ることができなかったわけじゃないだろう」

「あはは、何処に行こうと、何をしようと私の勝手でしょう?」

「……で、でもねトウコ、チェレンも私も本当に心配していたんだよ」

心配、心配。この幼馴染はそればかりだ。そんなものを私に押し付けてどうしようというのか。どうせ何もできないというのに、いざとなったら私に全てを押し付けるというのに。
私は喉の奥でくつくつと笑った。その笑い方は果たして、誰のものだったのだろう。確か、私の大嫌いな奴が同じように笑っていたような気がする。シアに絆された、あの男が。

私は苛立っていた。世界に向けて閉ざしていた筈の扉がよりにもよって、情などというみっともないものによって開かれようとしていることに驚き、苛立ち、そして絶望していた。
そんな時に、よりにもよってこの二人が現れた。私が長い間、ずっと嫌われたくないと思っていた相手が、「心配」などという重すぎる思いを引っ提げてやってきたのだ。
彼等に苛立ちをぶつけたとして、それは私にとって仕方のないことだったのだ。
私の態度は、彼等にしてみれば理不尽以外の何物でもないということに、私が嫌った理不尽を他でもない私が押し付けていることに、私はまだ気付けていなかったのだけれど。

「君はNと再会してから、変わったね。前はもっと……」

その言葉を遮るように、私は声を上げて笑った。
彼の指摘は間違ってはいない。彼は的外れなことを言っているのでは決してない。けれど、そう紡ぐ彼が泣きそうな顔をしていたから、私はいよいよおかしくなってしまったのだ。
おかしさ故の笑いなのだと、思い込もうとしていた。これだからこの二人には会いたくなかったのだ。

3年前、旅に出てから私は確かに変わった。私の世界は急速な広がりを見せ、誰かに嫌われることを恐れなくなった。
同時に私は、人を嫌うことを覚え、世界を閉ざした。変化を恐れ、私とNの狭い世界に安住していた。

チェレンとベルに会うことを今日まで避けていたのは、彼等の顔を見れば、あの旅のことを否応なしに思い出してしまうからだった。
もうあれから、あの旅から3年が経つのに、一向に色褪せることをしてくれない私の醜い感情を、彼等にぶつけてしまいそうだったからだ。
チェレンやベルと相容れなかったとはいっても、彼等は私の幼馴染だ。できることなら無駄な争いは避けたかった。
そうして少しずつ疎遠になっていった私は、チェレンとベルから静かに忘れられていく筈だったのだ。

けれど二人はそれを許さない。それどころか私の心に土足で踏み込み、私の暴いてほしくなかった最も醜い部分に言葉の刃を突き立てるのだ。
ああ、今まで彼等を避けてきたのは正解だった。だってこんなにも、こんなにも胸が痛い。

「もっと、何? もっと優しい人間だったって? 誰かの心配を「ありがとう」って受け止めて、その感情に相応しい自分であるための努力を欠かさない人間だったって?」

解っている。彼等の心配は他でもない、彼等の優しさの象徴なのだと、解っている。
彼等との接触を避けてきた私に向き合おうとする二人の姿勢が、私への誠意を語っていることだって知っている。けれど私はもう、その優しさを背負うことに耐えられない。
……ああ、どうして、どうして世界はこんなにも優しい人間で満ちているのだろう。どうして私は、その優しさを直視できないのだろう。どうしてその優しさを許せないのだろう。
嫌いだ。シアも、チェレンも、ベルも、Nも、大嫌いだ。

「冗談じゃないわ。チェレンやベルの心配なんか知ったことじゃない。そんな思いを貰ったって息苦しいだけよ。
どうせ何もできないくせに、いざとなったら全部私に押し付けるくせに、私のことなんか何一つ解っていないくせに、偉そうな口を利かないで!」

私の、決して大きくはない手に握らされた、ダークストーンの冷たい温度が私の心臓をすっと撫でたような気がして、それを振り払うように声を張り上げていた。
あの旅で得たものは沢山、本当に沢山あった筈なのに、それらが私の首を絞める。嫌だ、思い出したくない。イッシュのことなど忘れていたい。放っておいてほしい。
けれど私の叫んだ声の比ではない大きさで、目の前の彼が怒鳴ったのだ。

「ふざけるな! 君と何年友達をやっていると思っているんだ! 君の考えていることくらい、僕もベルも解っている!」

そう叫んだ彼の隣で、ベルが堪え切れなくなったものを吐き出すようにわっと泣き出した。私はあまりのことに言葉を失い、瞬きすら忘れて息を飲んだ。
今、この幼馴染は、何と言った。彼は、何を。

「君が強さに焦がれた僕を憐れんでいたことも、自分のポケモンすら守ることのできないベルに苛立っていたことも、ダークストーンを受け取りたくなかったことも知っている!
僕やベルを甘く見るなよ。僕は君に嫌われようと、君の友達をやめたりしない。ベルだってそうだ、いつだってトウコのことを思っていた。
自分のような弱い子がトウコを守れる筈がないと知っているけれど、それでも元気だろうかと案じてしまうんだと言っていた! それが友達というものじゃないのか!」

「チェレン、もういい。もういいよ」

ベルが嗚咽を零しながらチェレンの言葉を止める。
訳が解らない。私に対して激情を露わにする、この知的な男の子のことも、この荒んだ空気に耐えられずに嗚咽を漏らす女の子のことも、何一つ解らない。

彼等が私のことを知らないことと、私が彼等のことを知らないことは同義なのだと、今の今まで思っていた。けれど、……けれど、チェレンは私の心を言い当てる。
私が理解しようとしなかった幼馴染が、私を悉く理解している。どうして、などと唱えた私の言葉があまりにも野暮であることに気付いた瞬間、心臓が不思議な鼓動で揺れていた。
理由を告げることなく距離を置き、悉く接触を避けた私のことを、彼等は、きっと心から。
……けれど私には、彼等の優しすぎる激情が私に向けられている、その理由が、解らない。

「僕は僕から逃げてばかりの君が嫌いだ。それでも僕は君の友達だ、幼馴染なんだ!
君が3年前の僕やベルを認めることができなかったように、僕やベルだって君の全てを認めることなんかできない。それでも僕等は友達だ。僕はそう思っている。
君は違うのか? 君は君が拒んだ世界の中に、僕やベルも放り込んでしまうのか?」

『私の世界は私とNを中心に回っているのよ』
『その結果、イッシュ中が氷漬けになろうが知ったことじゃない。私は私とNの世界が守られていればそれでいい』
『私はあんたと違って、誰もを想うことはできないの。……ごめんね』

私の確固たる信念であった筈のそれらが揺らぎ始めていた。世界に向けて閉じられた筈の扉を、何かが乱暴に叩いていた。
その「何か」に名付けるべき名前を、私はまだ知らない。知りたくなかった。……いや、違う。私は、

「……私は、大勢のことを想える程、優しい人間じゃないの」

「知っている。それでもいい。君に足りない所は僕やベルがフォローする。
君にとっての僕等は3年前の姿で止まっているのかもしれないけれど、僕もベルもあれから変わったよ。いつまでも君に凭れ掛かってばかりの人間ではなくなったつもりだ」

「……今だって、チェレンやベルのことが大嫌いなの」

「いいよ、トウコ。嫌いでもいいから、あたしやチェレンを頼って。前みたいにいっぱい、話をしようよ」


私はずっと、こう言ってほしかったのかもしれない。


……ああ、なんてみっともないのだろう。こんな私ではきっとシアに笑われてしまう。情に絆された彼女を窘めていたのに、もうその叱責も意味を為さなくなってしまう。
だってこんなにも嬉しいのだ。私の「幼馴染」が私の心の奥底に、土足で踏み入ってくれたことにこんなにも安堵しているのだ。
私の矜持が、拙いプライドが、音を立てて崩れていく。ベルのものではない嗚咽が聞こえる。

その日、私は初めて、彼ではない人間の前で透明な血を流した。

血が止まらないのは、きっと開いた扉から差し込んだ日差しがあまりにも眩しいからだ。その隙間から吹き込む風があまりにも温かいからだ。そう、思うことにした。
こんなみっともない私を、シアには秘密にしておこうと思った。そして明日も、いつものように「私の世界は私とNを中心に回っているのよ」と豪語してやるのだ。
その方がいい気がした。きっと紡ぎ続けたその常套句は、今までよりずっと温かな響きで奏でられるのだろうと確信していたからだ。

「君がイッシュに暮らす人間のために奔走する日がやって来るなんて、予想もしていなかったよ。君はイッシュが嫌いなのではなかったのかい?」

空白の3年を埋め合わせるように、私の部屋のリビングにはひっきりなしに言葉の嵐が吹き荒んでいた。
その中でチェレンが、私の「友達」が、呆れたようにそう紡ぐものだから、私はいつものように笑ってみた。

「そうね、大嫌いだったわ。今だって大嫌いよ。チェレンやベルを嫌いなのと同じくらい」

その言葉にチェレンは声を上げて笑い、ベルはその瞳を見開いて首をこてんと傾げた。

ね、つまらない話だったでしょう?

2015.8.11

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