56◆

「お前は太っ腹だなあ」

非常食の入った白い袋を背負い、私はサンタクロースのようにその中身を、住む場所を失った人間に配り歩いていた。
専ら、行き先はライモンシティのギアステーション内か、ヒウンシティの路地裏だった。できるだけ短時間で多くの人を回るには、この二つの町が適していたからだ。
こんな私が、誰かのために奔走するなどという、柄ではないことをしているのだ。それくらいの怠惰な選択は許される気がした。

もうすっかり顔見知りになってしまった男性に、非常食とよく冷えたミックスオレを投げ渡す。
笑顔で受け取ったその男性は、こんな荒んだ場所で生きているとは思えない程に朗らかな声音でお礼の言葉を紡いだ。

「気にしないで。お金を一人で抱えていたって何の役にも立たないんだから、こうして必要としているあんたみたいな人に、必要とする形であげた方がいいでしょう?」

「……はは、シアといい、お前といい、本当に物好きな奴だな」

「感謝しているのなら、私の名前くらい覚えてくれたっていいんじゃない?」

冗談だよ、と彼は笑い、当たり前のように「トウコ」と私の名前を呼ぶ。
解っている。彼が私の顔や名前を覚えてくれていることも、私やシアに心から感謝していることも、知っている。
この男性が、イッシュという荒んだ場所に翻弄されて生きてきたにもかかわらず、とても清い心を持っていることだって、解っている。
だからこそ、私はこんなことを言うことができたのかもしれない。

「生きるためのお金ならあげる。居場所が欲しいならシアが作ってくれる。
でも、シアが再建させたあの組織で不正を働いたり、誰かを騙したりしたら、その時は容赦なく放り出すからね」

誰にも不正を働く権利などない。たとえ、不正を働かれた側の人間だったとしても。
それは私の確固たる信念だった。読書を好まない私が珍しく手に取った本の中の、たった一節を、私はずっと抱えて生きていた。
この一節がもし、全ての人の中に教訓としてあったなら、世の中に狡い大人が溢れ返ることなどきっとなかったのに。

けれど私の言葉のすぐ後でこの男性が発したその音は、私のそんな信念を、ガラガラという派手な音を立てて突き崩した。

「あはは、俺にそんな器用なことをする度胸があれば、今頃、どこかの企業で上手くやれていただろうさ」

心臓が締めあげられるような苦しさを覚えた私は、慌てて踵を返し、ヒウンシティの路地裏を元来た方向へと駆けた。
薄暗い場所から大通りに飛び出した私を、10月の高く明るい空が静かに責め立てた。

「ポケモン達の数もかなり少なくなりました。N様のおかげです」

プラズマ団の城で「愛の女神」と呼ばれていた彼女はバーベナと名乗った。桜色の髪をした若い女性だった。
私は「そう、よかった」と返しながら、彼女の案内で、ホドモエシティに構えられた彼等の住居を見て回っていた。

ポケモンの声が聞こえるNが、その声を頼りに元のトレーナーを探し当てていることを、私は当人から聞いて知っていた。
難航していたトレーナー探しは、Nが加わったことで勢いに乗り、ポケモン達は次々に元のトレーナーの元へと帰っていった。
しかし、それでもトレーナーが見つからない場合は、正式にそのポケモンをこの家に迎えた。
元々、ポケモンのことを思うあまり暴走したような、酷く一途な人間の集まりだ。彼等のトレーナーとなることを選ぶのは至極当然のことであったと言えるだろう。

Nがこの家に通うようになってから、ポケモンの数は減っていったけれど、逆にプラズマ団員の数は増えていった。
「N様が戻られた」という噂を何処で聞き付けたのかは知らないが、彼等は3年振りに再会したNをあの頃と同じように敬い、慕った。
「ボクはもう王ではないんだ。できればキミ達の仲間として扱ってほしい」と彼は事あるごとに告げていたけれど、それでも彼等の「N様」呼びは止まなかった。
Nの立場がそうさせているのではなく、彼等のNを敬い慕う気持ちがそう言わせているのだと、私は理解している。Nは……理解しているのかどうか、知らない。

私はそんな彼等を、一歩離れたところで眺めていた。とてもではないが、入っていけなかった。
そもそも私は、シアがこんな大きなことを企てなければ、プラズマ団の奴等に顔を合わせることなど二度とするまいと思っていたのだ。
プラズマ団は私にとって憎悪の対象だった。
直接的な危害を加えられた訳でも、ポケモンを奪われた訳でもない。私の旅を掻き乱した彼等を許せないのは、私の個人的な感情の理由だった。
だからこそ、私は彼等を許す理由を持たず、彼等と和解することも望まなかった。

今回のことだって、こうして手を貸しているのは他でもない、Nのためだ。
Nがプラズマ団にもう一度関わりたいと言ったからだ。愚かで無謀なシアの選択に、手を貸したいと他でもない彼が望んだからだ。
だから、私はこれからもずっと、彼等から目を背けて生きていく筈だったのだ。……けれど。

「ねえ、どうしてあんた達はシアの夢物語を切り捨てずに、今もこうして付き合っているの?
シアはまだ13歳の、ただの子供よ。あんな子にできることなんて、たかが知れていると思うけれど」

バーベナさんに尋ねたその言葉は、寧ろ自分に言い聞かせた言葉だった。脳裏で私の冷静な声が反響した気がして、私は思わず眉をひそめた。
どうしてお前はあんな子供の手助けをするの?
お前は自分とNの世界が守られていればそれでいいのではなかったの?
お前は、こんな組織の連中に絆されてしまったの?

「いいえ、私は、シアさんが無力であるとは思っていませんよ。彼女でなければ、ゲーチス様の心は動かなかった」

「……そう、なんだ」

「ええ。彼女はただ純粋に、私達の拠り所となろうとしてくれています。それに縋ることを許されたのですから、せめて私達も協力しなければと、思っているんです」

春の花のように微笑んだ彼女のそれが、あまりにも眩しすぎて思わず目を逸らす。その度に胸が大きく痛んで、ズキズキと喉の奥が刺すような痛みを訴える。
解っている。解っていた。彼等が根っからの悪人ではないということ。私が嫌った狡い大人は、寧ろまっとうに器用に生きている側の方に潜んでいるということ。
かつて私からポケモンを引き離そうとした、私にとって憎悪の対象であった筈の彼等にも、確かな心が宿っているのだということ。
知っていた。解っていた。
けれどその事実に向き合い、彼等の心を真っ直ぐに見据えるには、私はあまりにも弱すぎた。私はそうした、酷く臆病な人間だったのだ。

だって彼等に人の心を見てしまえば、彼等の中に狡さを見つけることができなければ、私はこの組織を憎めない。
Nを苦しめた組織であるプラズマ団を、嫌悪することができない。彼等から距離を置くことができない。
そんな組織を解散に追い込み、彼等の居場所を奪った自分のことを、私は責めてしまうかもしれない。……そう、シアのように。
だから、ずっと気付いていない振りをしていたのだ。彼女の情に絆されたが故の行動を、今までずっと咎めてきた私が、彼女と同じ道を辿る訳にはいかなかったのだ。

「会いたい人が、いるんです」

足元に駆け寄って来たリグレーを抱き上げ、愛おしむように頭を撫でながらバーベナさんはぽつりと零した。

「相容れなくなってしまったけれど、再びプラズマ団が一つになったら、また会えるかもしれない」

とても嬉しそうにそう言うものだから、私は小さく頷くという素朴な相槌しか打つことができなかった。
彼等もまた、シアの夢物語に懸けているのだ。各々の願いを彼女に託しているのだ。彼女は彼等の思いを背負って、今日も何処かで走り回っているのだ。
そんなシアに、「どうして、こんな馬鹿なことをしているの?」などと、あの雨の日と同じように言い捨てられる筈もなかった。

お前も絆されてしまったの?

脳裏で誰かがそう囁き続けていた。
まさか、とその問い掛けに対して嘲笑するだけの余裕はもう失われていた。私は絆されたりなんかしない、と、拒絶するだけの気力もその大半が擦り減ってしまっていた。
だって、ゲーチスですら絆されたのだ。あの世界を掴もうとした男は、あんなにも小さな少女の言葉に、彼女の誠意に、絆された。
だから、きっと私がその道を辿ってしまったとして、きっとそれはどうしようもないことだったのだ。
寧ろ世界に向けて心を開くという行為は、そうした情の先にあるのではないかと少しだけ思えたのだ。

2015.8.11

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