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借りた本を2日かけて読み終えた頃、私はクリスさんと共に、デボンコーポレーションやシルフカンパニーへと赴いた。
彼女は相変わらず難しい言葉を用いて、会社の社長である彼等と対等に話をしていた。
驚くべきことに、デボンの社長もシルフの社長も、彼女のことを知っていたのだ。古くからの友人のように親しく挨拶を交わす彼等を、私は呆気に取られて茫然と見つめていた。

クリスは有名な弁護士であると同時に、一流のポケモントレーナーでもあるんだよ。君も機会があれば、彼女とポケモンバトルをさせてもらうといい」

ダイゴさんのお父さんは、少しだけ含みのある笑顔で私にそう告げた。
彼女がモンスターボールからポケモンを出す姿を見たことがなかった私に、彼女がポケモンバトルをしている姿を想像することはとても難しかった。
持っている二つの鈴で、二匹のとても大きなポケモンを呼ぶけれど、彼等はクリスさんの手持ちではないようだった。
この人は、どんなバトルをするのだろう。そんなことを思いながら、私は彼女があまりにも流暢に、二つの会社の社長と契約を交わす姿を傍で見てきた。

「一応、今は代理人として私の名前を書いているけれど、この役はいずれゲーチスさんが担当することになるわ。だから、心配しないでね」

彼女はそう言って私の頭を撫でた。私はその言葉に不安を抱くことなく頷く。
私と彼女の夢物語は、こうして少しずつ、形を帯びてきていたのだ。

「ねえ、シアちゃん。元プラズマ団の人達を見て、どう思った?」

そんな日が数日続いた頃、彼女はいつもの笑顔を湛えて私に尋ねた。
コガネシティの事務所で、経済の諸々について説いていた彼女が、勉強の最中に他所事を切り出すのは珍しいことで、私は少しだけ驚いた。
驚いたけれど、それ故にその疑問は尊重すべきこととして大切に扱われなければならないのだと知っていた。
だから私は、饒舌にこれまでのことを語った。

シアさんが責任を感じることじゃありませんよ。元々、非合法なやり方で社会に無理矢理居座っていたような、横暴な組織でした。居場所を奪われて当然です』
『しかし嬢ちゃん、お前に何ができるっていうんだい。大人である俺達が生き抜いて来られなかった世界を、お前のような子供がどうやって変えるつもりだ』
『皆が、生きることに必死だった。それでいて、ポケモンのことを想っていた』

ここ数週間の間で、私は多くの人と話をしてきた。
表社会で生きることができず、住処を得ることもできずに路地裏や駅のホームで暮らす彼等の姿を、ずっと見てきた。そんな彼等の悲痛な声をずっと聞いてきた。
イッシュを旅しているだけでは見えてこなかった、社会の複雑で残酷な部分をずっと見てきた。
だから、極限状態に追い込まれた彼等が、生きる手段を選べなくなってしまっていることも知っている。非合法なやり方でしか生き抜けなくなっていることも、解っている。
彼等だって、できることならまっとうに生きたいと願っている。けれどその場所がない。そのためのチャンスを掴めない。
そうして彼等は追い出されたまま、ひっそりと生きていくしかない。

一度、表社会から逸脱した人間に対して、社会はあまりにも厳しい。
だからこそ、そうした人達の居場所を作らなければいけない。
誰も、生きる権利を奪われていい筈がない。たとえそれが、不正を働いた人間であったとしても。たとえ、誰かを殺しかけた人間であったとしても。

彼女はそんな私の拙い話を、最後まで黙って聞いてくれた。彼女が重ねてくれる小さな相槌に縋るように、私は懸命に言葉を重ねた。

「……そうだよね。私も、そうした人達をずっと見てきた。何とかしなきゃってずっと思っていたけれど、一人の力は小さすぎて、夢を夢のままに揺蕩わせておくしかなかった」

「……クリスさんは、大きな力を持っていると思いますよ。私はクリスさんから沢山のものを貰いましたから」

「ふふ、ありがとう。それでも私が今まで、何の行動も起こすことができなかったのは事実なの。……でも、今なら声を張り上げて夢を謳うことができる。
社会にはそうした人のための受け皿がもっと必要だと思う。新生したプラズマ団をお手本にして、他の地方にもそうした組織を作っていきたい。それが、私の夢なの」

囀るような心地良い声音で紡いだ彼女は、テーブルに少しだけ身を乗り出して私を見つめた。
空を映したような透き通った目には、少女のような幼さが残っていて、私よりもずっと可愛らしいその瞳に思わず息を飲む。

「本当のことを言うと、シアちゃんには、プラズマ団だけで満足してほしくないんだ。
シアちゃんの持っている力を、シアちゃんの大切な人達にだけじゃなくて、もっと多くの人のために使ってほしい」

けれど、その口から紡がれた言葉は紛れもなく、私よりも長い時間を生きてきた女性のもので、それ相応の重さと輝きを持って私の心臓に突き刺さった。
かと思えば、その重厚な言葉に似合わないふわふわした笑顔を湛え、困ったように笑ってみせるのだ。

「私は自分の野望のために、シアちゃんを利用しているの。私はとっても狡い人なのよ。きっと、ゲーチスさんと同じくらい」

私は思わず吹き出した。確かに、クリスさんとゲーチスさんはとてもよく似ていると思ったからだ。
彼等は狡い。こうして簡単に私から重い荷物を奪い取っていく。そして当然のように笑ってみせる。これは全て私の罪なのだと、私の我が儘なのだと、自ら背負うことを厭わない。
それを私はよく理解していた。だからこそ、その言葉を否定することはしなかった。それでも、その狡さに私が救われていることは伝えておきたいと思った。

「もし、これを狡さと言うのなら、クリスさんが狡い人でよかったって、思います」

そう告げれば、彼女はクスクスと笑いながら右手を伸ばし、私の頭をそっと撫でた。
さて、頭を撫でられることを受け入れられるようになったのは、一体、いつからだったのだろうか。

「……ふふ、ありがとう。私もシアちゃんに出会えて、毎日がとっても楽しいよ」

イッシュのホドモエシティに赴けば、町の北に構えられた元プラズマ団のホームから、見知った顔が出てきて私に手を振ってくれた。
あの人を連想させる緑の髪を持った長身の青年の元へ駆け寄れば、彼は「そんなに急がなくてもよかったんだよ」と肩を竦めて苦笑した。

「けれど、よかった。キミが忙しく走り回っているから、トウコも嬉しそうだよ」

「え、そうなんですか?」

「うん。以前の迷っているキミよりも、今のように全力で突き進んでいくキミの方が「らしい」と笑っていたよ。迷っているキミを見て、トウコも随分と辛そうだったからね」

……それは、果たして私に知らせていい内容だったのだろうか。
Nさんに他意はないのだろうけれど、トウコ先輩はおそらくその言葉を、私に聞かれることを想定して発した訳では決してないのだろう。
けれど、思わぬ形で彼女の思いを聞くことができたことを、素直に嬉しいと思えた。
ああ、やはり人は一人で生きてなどいないのだと、生きてはいけないのだと思い、だからこそ私を支えてくれる彼女という存在に、胸の奥が温かくなる心地がした。

Nさんは此処で、トレーナーと引き離されてしまったポケモンの声を聞き、彼等の元のトレーナーを探す活動を手伝ってくれている。
ポケモンの話す「元のトレーナー」の姿や、彼等との思い出の場所といった情報を、彼はポケモン達の声として聞き取ることができたのだ。
おかげでホームに暮らしていたポケモン達は、次々に元のトレーナーの元に戻ることができていた。

少しずつ減っていくポケモンとは対照的に、ホームに集まるプラズマ団員の数は少しずつ増えていった。
「N様が戻られた」という噂は、風に乗ってイッシュの至る所に届いていたらしい。こうして白服のプラズマ団員も、一つに集まりつつあったのだ。
協力してくれたNさんには、何度お礼を言っても足りない。
けれどNさんは、私のそんな感謝に「それはこちらの台詞だよ」と苦笑した。

「ゲーチスに寄り添い、プラズマ団員に手を差し伸べることを選んでくれたシアに、ボクは心から感謝しているよ。
本当は王だったボクが先陣を切ってしなければいけないことであった筈なのにね。……すまない」

「いいえ。私だって、一人じゃ何もできませんでしたから。皆の助けがあって、初めて行動に移せたんです」

だから、これから一緒に頑張りましょう。
そう付け足して、思わず差し伸べた手を、私は慌てて引っ込めた。毎日顔を合わせている彼に今更こんなことをするのは、酷く恥ずかしいことのように思えたからだ。
けれどNさんは少しだけ考え込むような素振りをした後で、私に尋ねた。

シア、これがキミの夢なのかい?」

その問いに間髪入れず頷けば、彼はトウコさんを連想させるような明るい声で笑い、先程、私がそうしたように手を差し伸べた。

「そうだね。その夢、一緒に叶えよう!」

彼がかつて、トウコ先輩にも似た言葉を伝えたことがあったということを、私が知るのはまた別の話だ。

2015.8.10

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