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9月も終わりに差し掛かろうとしていた頃、私はクリスさんの事務所に呼ばれた。
普段は実家であるワカバタウンの家を離れ、コガネシティで弁護士としての仕事をしている彼女の、仕事場所だ。
ガラス扉に手を掛けて中に入れば、一人の男性が出迎えてくれた。

「……おや、貴方は確か、シアさんでしたか」

「あ、はい。こんにちは」

空色の鮮やかな髪と目が視界に焼き付いて、私は思わず息を飲んだ。
その色がクリスさんの髪や目の色と全く同じだったので、困惑してしまった。彼女にお兄さんがいることを、私は今の今まで知らなかったからだ。
クリスさんのお兄さんと言うことは、必然的に、コトネさんのお兄さんでもある筈だ。けれどクリスさんやコトネさんから「兄」の話など聞いたことがなかった。

クリスから話は聞いています。今、呼んできますから、少し掛けてお待ちください」

ありがとうございます、とお礼を言い、私は勧められたソファに座った。彼は奥のドアを開けて、クリスさんを呼びに行ってくれた。
……一緒に暮らしているのなら、特に不仲という訳でもないのだろう。
単に話しそびれていただけなのかもしれない。私はそんな風に納得をして、クリスさんがやって来るまでの間、部屋の中を見渡した。

白を基調としたシンプルな空間だが、片側の壁一面に置かれた、背の高い本棚が圧倒的な存在感を放っていた。
立派なそれは、まるでの場所が弁護士事務所ではなく書店なのではないかと疑わせてしまう程のもので、棚一面に綺麗に並べられた本が私の視界に飛び込んできた。
弁護士の仕事を生業としているのだから、当然のように法律関係のものばかりだろうと思いきや、意外にもその本棚には様々なジャンルの本が並んでいた。
経済関係のものから、医学に関するもの、考古学という学問の本まである。
彼女の幅広い知識は、読書の賜物なのだと納得するに足る量の本が、この部屋には詰め込まれていた。

もっと近くで見たい。あの人の知識の源泉を紐解きたい。
私は思わず腰を浮かしかけたけれど、奥の部屋に続くドアが勢いよく開けられたので、慌ててそちらに向き直った。

「ごめんね、待たせちゃって」

「いえ、こちらこそ、時間を作ってくれてありがとうございます」

肩より少し上で切り揃えられた、ウエーブの掛かった髪がふわふわと揺れていた。彼女を象徴するその空色は、やはり先程の男性と全く同じだった。
私は少しだけ迷った後で、気になっていたことをそのまま尋ねてみることにした。

「さっきの男性はクリスさんのお兄さんですか?」

「え? ……ああ、アポロさん、自己紹介をしなかったのね」

どうやらアポロさん、というのが彼の名前らしい。彼の名前を紡いだ瞬間、彼女は本当に嬉しそうに微笑んでいて、その眩しすぎる笑顔に私は思わず目を見張った。
いつも柔和に微笑んでいる彼女が、こうした歓喜のような表情を浮かべることはあまりなかったように記憶していたからだ。
その笑顔だけで、彼がクリスさんにとって特別な存在であることが解ったが、しかし彼女は私の質問に否定の言葉を紡いだ。

「私とコトネ、それにヒビキは髪の色も目の色も違うでしょう? アポロさんと私は確かによく似ているかもしれないけれど、血の繋がりはないの」

「あ、……そうですよね。変なことを聞いてごめんなさい」

「ふふ、気にしないで。よく言われるわ。私も始めて彼に出会った時は、生き別れたお兄さんかと思っちゃったもの」

その言葉はおそらく、冗談ではないのだろう。
だって彼等は、第三者から見ても驚く程に似ているのだ。当人が、双方の持つ同じ色に「兄弟」という単語を連想するのも当然のことであるように感じられた。
アポロさんという男性は、クリスさんやコトネさんの兄ではない。けれど、クリスさんの大切な人であることは間違いないようだった。
それが「仕事上のパートナー」としての想いなのか、それとも、もっと別のものなのかを、察することはできなかったけれど。

彼女は灰色のトートバッグから分厚い書類を取り出して、私の方に差し出してくれた。
私もテーブルに身を乗り出してそれに視線を落とせば、そこには経済や法律関係の単語がずらりと並んでいて、思わず目を見開いて沈黙してしまった。
やや間を置いて「これは?」と首を捻りながら尋ねた私に、彼女はいつものようにクスクスと笑いながらさらりと、息をするようにとんでもないことを告げる。

「言ったでしょう? 私の知識も時間も全部、シアちゃんにあげるって」

「え? それじゃあ……」

「ふふ、今から経済と法律の授業を始めます。しっかり付いて来てね」

スーツの胸ポケットから3色ボールペンを取り出した彼女は、ふわふわとした空色の髪を小さく揺らして首を傾げ、「いい?」と尋ねた。
そんな彼女に、自分の時間を使って、自分の持っている知識を私に伝えてくれようとしている彼女に、いいえと断ることができる筈もなかった。
はい、と上ずった声で大きく答えれば、「うん、いい返事!」と笑ってくれた。

シアちゃんの願いに、私の思いを乗せたの。これは私の、自分勝手な我が儘なのよ』
私は、私からあまりにも大きな荷物を奪い取った、彼女の尊い言葉を思い出していた。彼女はその献身を、他でもない自分の我が儘なのだとした。
けれど、その尊さを理解することができたのは、そうした思いに似たものが私にもあったからなのだろう。
私も、今の私がしていることを、プラズマ団員への献身だと思ったことは一度もない。全ては私の我が儘なのだ。
私がしたいから、しているだけ。私の、数え切れない我が儘の内の一つであるだけ。
きっと、彼女の言葉は私のそうした思いに似ている。そして。彼女もそれを解っている。私と彼女は、そうしたあまりにも傲慢な我が儘を抱く点でとてもよく似ている。

それから彼女は、私の知らないことを沢山、……本当に沢山、教えてくれた。
経済や法律のことに関して、自分がどれほど無知であったのかを思い知らされ、あまりにも広すぎるこれからの世界に眩暈がしそうになった。それは高揚という名の眩暈だった。
元々、本を読むのは好きだったし、知らないことを知るのはとても楽しかった。
けれど彼女が教えてくれているそうした知識は、私の知識欲を満たすものでは決してない。私がそれらの知識を使って、プラズマ団を再構築しなければいけないのだ。
その重圧に背筋が凍る思いがしたけれど、もう私は躊躇わなかった。

「これからのプラズマ団を率いるのは貴方なんだよ、シアちゃん」

沢山の専門用語を必死に頭に詰め込んでいると、クリスさんは唐突にそんなことを言った。
私が?と思わず尋ね返せば、彼女は間髪入れずに笑顔で頷く。

「狡い話だけれど、13歳のチャンピオンが立ち上げた会社、ってだけで、人が集まるわ。社会ってそういう単純なところがあるの。
それが、過去のプラズマ団を解散に追い込んだ人間なら、尚更」

「そんなこと、私にできるでしょうか?」

「大丈夫よ、難しいことは私が全部やるわ。ゲーチスさんだって、私がしているようなこと、簡単にやってのけるくらいの知識と経験がある筈だもの。
シアちゃん、貴方は一人じゃないの。だから何だってできるのよ」

何だってできる。
そんな絵空事のようなふわふわした言葉を、ふわふわとした空気を身に纏った彼女が当然のように紡いだ。
不思議なことに、ただそれだけで、その言葉は絵空事ではなくなってしまったのだ。彼女がそう言ってくれるのなら、不可能なことではないのかもしれないと思えたのだ。
だって私には、こんなにも沢山の人が力を貸してくれている。その全員が私に対していい感情を抱いている訳ではなかったけれど、それでも、私は「恵まれている」。
だから私は、彼女の言葉を疑わなかった。

一通りの基礎知識を教わった頃には、もう昼の1時を回っていた。壁に掛けられたシンプルな時計を見て、そのことに気付いた瞬間、お腹が大きな音で鳴る。
顔を赤くして苦笑した私に、彼女は「一緒にご飯を食べに行こうか」と誘ってくれた。
けれど今の私には、食欲よりももっと優先すべき欲があった。ソファから立ち上がり、私は本棚を指差して彼女に尋ねた。

「本を見てもいいですか?」

「ふふ、いいよ。読書が好きなの?」

「はい、大好きです!」

そう言って本棚に駆け寄れば、様々なジャンルの本たちが私の視界を圧倒した。
背表紙に書かれたタイトルには、どれにも難しい単語が鎮座していて、私の知らない世界はまだこんなにあるのだと気付き、胸が高鳴った。その高揚は酷く懐かしかった。
背表紙を一冊一冊、指でなぞりながら追いかけていると、私の頭がぽかんと軽く叩かれてしまった。
慌てて振り返ると、彼女が数冊の本を紙袋に入れて差し出してくれた。驚きに目を見開いた私に、彼女はクスクスと笑いながら説明してくれる。

「これ、今日教えた分の内容をもう少し詳しく説明したテキストなの。目を通してくれると経営のこともずっと解りやすくなると思うよ」

「いいんですか? ありがとうございます!」

「ふふ、そんなに喜んでくれるなんて思わなかったなあ。返すのはいつでもいいから、思う存分楽しんでね」

その言葉に思わず私も笑顔になった。これらの本を「楽しんでね」と伝えてくれるこの人こそ、読書を心から楽しんでいる人の一人であることに気付いたからだ。
この、非の打ち所がなさそうな彼女と、私が共通の趣味を持っているという事実は、私の心をくすぐった。
けれど、彼女の持っている本の内容を、私が理解できるのだろうか。
少しだけ不安になったけれど、それでも読み解いてみせようと思っていた。だってこの高揚感は、あの時ととてもよく似ていたのだ。

『貴方の知りたい世界が見つかりますように』

去年の春にアクロマさんから贈られた言葉が脳裏を掠めた。青いインクで書かれていた、たった一行を、私は宝物のように大事に抱えていた。
忘れていない。忘れられる筈がなかった。

2015.8.8

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