53

広い会議室の隅で、隣の椅子に深く腰掛けたトキちゃんは、クスクスとそのソプラノの透き通る声音を震わせて笑っている。
解っている。最初から、こうなることは解っていたのだ。彼女は私の、情に脆い部分を酷く嫌っていた。だから彼女の協力を得ることは不可能に近いと考えていた。
それでも、彼女は私の夢物語に力を貸してくれた。その理由が解らずに私は困惑する。
彼女はそんな私に、更なる忠告をする。

シアの周りには優しい人ばかりなのかもしれないけれど、気を付けた方がいいわ。
13歳で会社を立ち上げようとしている女の子なんて、悪い大人の格好の餌食だもの。何も知らない無知な貴方を利用してやろうと思う人間がいたっておかしくないわ」

「……うん、そうだね」

「ねえ、シア。貴方はそれらの人を拒める?
自分を殺しかけた相手にすら絆されたような人間が、優しい顔で迫って来る人を拒むことができる? 彼等の建前と本音を見抜くことができる?」

「自分を殺しかけた相手」という、その言葉が誰を指しているのかを私は解っていた。だからこそ、何も答えることができずに沈黙した。
彼女は、シルフの取引人としてプラズマ団と契約を交わすことには何の異論もないのだろう。「造作もない」と二つ返事で了承してくれたことからも、それは明らかだった。
けれど私の、思い上がった欲張りな思いと夢物語を、こうして鋭く糾弾している。貴方は社会を甘く見過ぎているのだと、その鈍色の目があまりにも重く私を裁いている。
そして私は、彼女の鋭いアルトの声音に反論するための言葉を持たない。

「ふふ、ちょっと意地悪だったかしら。ごめんね。……でも大丈夫よ、シア。貴方の周りには沢山の人がいるんだもの。もし貴方が騙されても、きっと皆が助けてくれるわ。
でも、覚えておいて。そんなにも沢山の優しい人に囲まれている貴方は、これ以上ないくらいに恵まれているのよ」

鈍色をした美しい目が、すっと細められる。

「私は貴方が羨ましい」

その言葉に、私の中の何かが音を立てて割れた気がした。大きすぎる驚愕とほんの少しの憤りが、頭の中で渦を巻いていた。
……それは寧ろ、私の言葉であった筈なのに。どこまでも緩やかな激しい糾弾で私の愚行を裁く貴方のことを、恐れ、羨んでいたのは私の方であった筈なのに。

……息を飲む程に整った彼女の笑顔に、しかし私はもう、押し黙ることを選ばなかった。代わりに静かに、反論した。

「それじゃあ、トキちゃんはどうして私に力を貸してくれたの? どうして、私の傲慢で思い上がった理想論を否定しないの?」

貴方は私のそうした面を嫌っているのではなかったの。それなのに、どうして私のことを羨ましいなんて言うの。
言外にそう集約して、私は彼女の目をしっかりと見据えた。彼女はクスクスというソプラノの笑い声で私の視線を煙に巻く。

「私が今回の件に協力した本当の理由は、シア、貴方を試したかったからよ」

そうして紡がれた言葉に私は戦慄した。つい先程、サインを書いてしまった書類の山にさっと視線を移した。
こうした方面に対して悉く無知であった私を、「気を付けてね」と忠告してくれた当人が騙そうとしている、その可能性を、微塵も考えていなかったのだ。
ボールペンで書かれたその書類のサインを、今更消すことなどできやしない。とんでもないことをしてしまったのだと、一気に顔が青ざめた。
けれど彼女はすかさず私の顔色を読み取り、笑いながら「そうじゃないわ」と否定した。

「貴方を罠に嵌めようと思っている訳じゃないの。貴方がこれから背負う会社については、シルフは全面的にサポートするわ」

「……それじゃあ、私の何を試していたの?」

「正確には、これから試すのよ」

彼女は椅子に体重の殆どを預け、まるで玉座に腰を下ろしているかのように尊大に微笑み、右手の人差し指をすっと伸ばして私に突き付けた。
私には似合わないその行動も、彼女がやってみせると様になる。その身に有り余る自信を示す、彼女らしい仕草だった。

先程の「試す」という発言に、勢い良く跳ね上がっていた心臓は、しかしまだ鎮まってはくれなかった。
それどころか更に大きな音を立てて揺れている。その揺れに共鳴するように、くらくらと眩暈すら覚える。
この心臓の音を、彼女に聞かれてしまっているような気がした。聞こえていなくとも、彼女は私の心臓の揺らぎを見抜いているように思えたのだ。
それ程に彼女の彼女らしい仕草は美しく、圧倒的な迫力があった。

「私は、どこまでも情に脆くて絆されやすい貴方が、世界を変えられるかどうかを見たい。
お人好しで、誰も切り捨てることのできない貴方が立てた夢物語、その末路を見届けたいの」

鈍色の目がすっと細められる。その色に、吸い込まれてしまいそうだった。彼女のそうした笑顔には、引力のようなものがあるのだ。
けれどそうして目を細めて、真っ直ぐに相手を見つめる彼女というのは大抵の場合、その笑顔の裏に静かな激情を秘めているものなのだ。
彼女が美しい笑顔を湛えれば湛える程に、彼女の激情は程度を増す。半年前から彼女を知っていた私は、彼女のそうした面をとてもよく理解していた。

「そのための援助なら、シルフは惜しまない。私の采配が許される範囲で、できる限りのことをするわ、本当よ。
ただ、もしそれでも貴方の立てた夢物語がみっともない破綻を迎えたら、その時は、……覚えていてね」

そして案の定、彼女はその顔からすっと笑みを消した。
たった一瞬、時間にして3秒にも満たない間だったけれど、それ故にその一瞬の冷え切った視線は私を突き刺し、標本のように動けなくした。
いつも笑顔を絶やさないこの少女を、これ程までに恐ろしいと思ったのは初めてだった。


シア、私は貴方を軽蔑するわ」


あまりにも冷たい音の響きが私の心臓を震わせていた。
彼女は直ぐにいつもの美しい笑顔に戻り、クスクスと笑いながら悲壮な顔をしている私をからかう言葉を紡いだ。
困ったように肩を竦めて笑うことが求められていると知っていたけれど、笑うことなどできる筈がなかった。私の心臓は彼女に握り潰されそうになっていたのだから。

「誤解されているかもしれないけれど、私、貴方のことは好きよ」

ビルの入り口に歩みを進めた私に、彼女はそんなことを言った。
思わず振り返った私に、クスクスと鈴を転がすようなソプラノの音が降ってくる。先程までの、静かな激情を表す低いアルトの声音の面影は何処にもなかった。
彼女はそうして、声音すらも自在に操り、自らを演出するのだ。

きっと、そんな彼女の言葉に、私が呆気に取られたような表情をすることも、驚きに沈黙することも、彼女は解っていたのだろう。
私はきっと、彼女の舞台の上で吊り下げられ、踊らされていたのだ。マリオネットの操り糸はずっと彼女が握っていて、私はその糸の通りに動いていたに過ぎないのだ。
この視線も、言葉も、顔色も、そして、心臓の音すらも。

「だって、たった一人の友達なの。私の立場を気にせずに、同じ目線で話をしてくれること、とても嬉しく思っているの」

「……そう、ありがとう」

だから、彼女の意に反する言葉を紡ごうとしても、きっと、それは意味のないことだったのだ。
私よりも何倍も上手な彼女は、私が彼女の糸に抗おうとしていることさえ、解っている。抗おうと思案を巡らせる私を舞台の上から見て、いつものように、楽しそうに笑っている。

この状況を、きっとあの人なら「屈辱」と表現したのだろう。その屈辱を晴らすために、その身を削るような不断の努力を重ねたのだろう。
けれど、私は違う。私は彼女に敵わないけれど、私の糸はきっと彼女に握られているのだけれど、私はその糸だけに吊り下げられている訳では決してない。
私は、糸がなくても自分の足で立って歩いていける。だから、彼女の舞台に縛られる必要も、その舞台の上で吊り下げられていることに屈辱を抱く必要もない。

「私も、トキちゃんのことが好きだよ。
……だから、もし貴方に軽蔑されることになったとしても、いいんだ。だってそれでも私は、貴方を嫌いになんてなれないだろうから」

だって私には、しなければいけないことがあるのだから。あのイッシュでの旅から1年、ようやく、自分にできることを見つけたのだから。
私は何としてでも、彼女が吊り下げた糸を断ち切り、彼女の意に反する結末を見せなければいけないのだから。

『お人好しで、誰も切り捨てることのできない貴方が立てた夢物語、その末路を見届けたいの』
私の夢物語に、みっともない破綻を迎えさせる訳にはいかないのだから。

「……力を貸してくれてありがとう。私、トキちゃんがくれた力に相応しい人になるよ」

「!」

私はくるりと踵を返して、駆け出した。
彼女が何か言ったような気がしたけれど、その音を拾うことなく外へと飛び出し、クロバットの入ったボールを投げた。
アスファルトを強く蹴って、その背中に飛び乗る。彼の大きな羽ばたきが私を空へと運ぶ。

『ただ、もしそれでも貴方の立てた夢物語がみっともない破綻を迎えたら、その時は、……覚えていてね』
シア、私は貴方を軽蔑するわ』
あれが彼女なりの叱咤激励だったのか、それとも私は本当に見限られようとしているのか、私には解らなかった。
その美しい笑顔に星の数ほどの感情を宿らせる彼女の心を、私は読み取ることができなかった。
けれど、彼女の心が、彼女の真意がどうであれ、私がこれからすべきことに変わりはない。だから、今は解らないままでいいと思えた。

小さくなるカントーの町並みを見下ろしながら、私は私を吊り下げていた糸の主を思い、泣きそうな顔で笑った。今度こそ、笑うことができた。

2015.7.29

© 2024 雨袱紗