52

翌日、私はクロバットに乗り、カントー地方のヤマブキシティに向かっていた。
ジョウトやホウエンには馴染みがあったけれど、カントー地方に足を着けるのは今回が初めてだった。

ジョウト地方の隣にあるとは思えないくらいに、その町はジョウトの雰囲気と一線を画していた。
美しく舗装されたアスファルトと、規則正しく列を作るように交差点を行き交う人の群れにくらくらと眩暈がしそうになる。
イッシュのヒウンシティと、人混みの濃さは大して変わらない筈なのに、どうしてこんなにも緊張するのだろう。
きっとそれは、初めての町に不安になっているからではない。この町の中央に位置する、最も大きなビルに足を踏み入れようとしているからだ。
その一点において、私は緊張していたのだろう。
この緊張は、この町のせいではない。私が今から取ろうとしている愚行のせいだ。その愚行が裁かれる場所に踏み込もうとしているせいだ。

それでも、私はその愚行を勇気に変えると誓った。

大きく息を吸い込んで、足を踏み出した。
自動ドアが小さな音を立てて開き、あまりにも美しいカーペットが私を迎えた。ドアの近くに待機していた警備員の人に会釈をして、私はロビーのカウンターへと歩を進める。
緊張で頭が上手く働かない。えっと、この後は何をすればいいんだっけ。
窮地に陥った私の思考を、しかし思わぬ方向から飛んできた声が救ってくれた。

「ふふ、シア。右手と右足が同時に出ているわよ?」

その心地良いソプラノの声音に振り向けば、入り口付近の立派な柱に凭れ掛かるようにして、ラベンダー色のドレスを着た少女が微笑んでいた。

トキちゃん!」

「久し振りね、シア。少し痩せた?」

ひらひらと手を振りながら、彼女は柱から背中を浮かせてこちらへと歩いてくる。
一歩を踏み出す度に、長いブラウンの髪とラベンダー色のドレスの裾がふわふわと揺れる。鈍色の瞳はぱっちりと見開かれ、私を真っ直ぐに見据えていた。
その身のこなしはあまりにも美しくて、思わず見惚れてしまう程だ。

「ここじゃ人が多いから、会議室を借りておいたわ。そこで話をしましょう」

彼女はそう言って私の手を強く引いた。
たった二人の、しかも子供である私達のために会議室が貸し出される。その意味を、私は正しく理解していた。
そう、この少女こそ、カントー随一の大企業、シルフカンパニーの社長令嬢だ。一つ年上だけれど、私は彼女のことを「トキちゃん」と呼んでいる。

ホウエン地方に観光にやって来ていた彼女と、私はミナモシティで出会った。ゲーチスさんがミナモシティに入院して間もない頃のことだった。
2日間、一緒にミナモシティやキンセツシティを歩き、道路の草むらを掻き分けてポケモンを探した。短い間だったけれど、とても楽しかった。
草むらで出会ったプラスルに懐かれてしまった彼女は、その子を連れてカントーへと戻っていった。
実は私もその時に、とあるポケモンと出会っていた。ラルトスという、緑の帽子をかぶったような小さなポケモンだ。
彼女は今、ヒオウギの実家で母と一緒に暮らしている。元気にしているだろうか。そんなことを思いながら、私は広い会議室へと足を踏み入れた。

美しい木目のテーブルが、円を描くように並べられている。トキちゃんはそのうちの一つを無造作に引き、尊大な構えで腰掛け、足を組んでみせた。
一つしか年は変わらない筈なのに、彼女には私にはない、堂々たる貫禄のようなものがあった。
クリスさんはそのふわふわした個性の中に力を閉じ込めているけれど、彼女はその美しさの中に寧ろその力を故意に滲ませている。
それはおそらく、上に立つ者の性だったのだろう。その、彼女が纏わざるを得ないその雰囲気が、果たして彼女が本当に望んだものだったのか、私には解らないけれど。

「さあ、座って。お父様から取引役を任せられているから、遠慮せずに、何でも言ってくれて構わないわ」

あまりにも恐れ多いその言葉に思わず怯んだけれど、しかしそれは一瞬だった。
それと同時に、彼女は既にシルフカンパニーを背負うだけの力を身に付けているのだと知り、胸の奥がざわついた。
ダイゴさんは「ボクにはまだ取引をする権限がない」と言った。デボンの全権は社長にあり、彼はまだその息子というだけで、会社の中に属する人物ではないのだ。
けれど彼女は違う。まだ14歳である筈の彼女は、この大きすぎる組織を背負うための力を身に付けつつあるのだ。
その結果が、彼女への「取引の委任」であり、つまるところ、私にとっては彼女もまた、クリスさんと同じくらい、私には届きそうにない高みに位置する人間だったのだ。
けれどそのことと、私がこの件に関して遠慮せずに希望を申し立てるのとはまた別の話だ。私は小さく息を吸い込んで、口を開いた。

「ジョインアベニューっていうイッシュの大通りにお店を構えて、シルフの会社の商品を売りたいの」

「……つまり、シルフの支店をそこに置きたい、ということよね?
私としては特に断る理由はないけれど、そんなことを私に相談するに至った経緯を、是非、貴方の口から聞いておきたいわ。話してくれるかしら?」

その問い掛けを皮切りに、私は驚く程饒舌にこれまでのことを話した。
私の旅のことや、そこで出会ったアクロマさん、ゲーチスさんのことは、これまでの文通や電話で彼女も把握していた。
プラズマ団が解散し、路頭に迷った彼等を再び集め、新しい居場所を作りたい。非合法なやり方で社会に居座るのではなく、正しいやり方で組織を復活させたい。
そのための活動を数週間前から続けていて、そのための協力を皆に求めていて、シルフカンパニーにも協力を仰げないかと思って今日、此処に来たのだと。

彼女はその全てを、淡々と相槌を打ちながら聞いていた。
とんでもない夢物語を語る私に驚くことも、思い上がった理想論を頭ごなしに否定することもしなかった。
ただ、その美しい目には少し、ほんの少し、呆れの色が宿っていたような気がした。
それでも私は、自分の口が紡ぐ言葉を止められなかったのだけれど。彼女に何と言われようと、これが私の意志なのだと貫き通すだけの覚悟は既にあったのだけれど。

最後まで話を聞いてくれた彼女は、小さな溜め息の後で、その華奢な肩を竦めるようにして笑った。

「そういうことだろうと思って、既に私の方で書類作りを進めていたのよ」

得意気に笑った彼女に、私は絶句する他なかった。だって、こんなことになっているなんて、全く想定していなかったのだ。
彼女が私に協力的な姿勢であることは、先程の発言からもよく解っていたけれど、私の途方もない夢物語を聞けば、彼女は少しばかり呆れると思っていたからだ。
少なくとも、全面的に賛成してくれる筈がないと思っていた。だって、彼女は私を、

シアは経営とか、取引のことに関して何も解らないだろうから、大体のことは私の方でやっておいたわ。後はシアがそれぞれの書類にサインをするだけ。
専門用語ばかりで何も解らないと思うから、一枚ずつ私が説明するわ」

彼女はクスクスと笑いながら、持ってきていた鞄から書類を取り出す。
あまりにも協力的な彼女の姿勢に驚いたものの、それはとても喜ぶべきことだと思い直し、私は心からの感謝を紡いだ。

「ありがとう、トキちゃん」

「気にしないで。少し頭を使ったけれど、造作もないことだったわ。シアもこれから経営に関わるのなら、こういうことも少し勉強しておいた方がいいわよ」

「造作もない」それは彼女の口癖だった。彼女は本当に、ありとあらゆることを「造作もなく」やり遂げてしまうのだ。
その、揺らぐことのない自信から発される一言は、私を酷く安心させた。

トキちゃんは用意してくれた書類の説明を、事細かに私にしてくれた。
一つの会社を形にするために、こんなに多くの要項が必要だとは思ってもみなかったため、私は驚きと感動に目を輝かせながら読み進めていた。
会社の代表者として私の名前を書くことにはかなり抵抗があったため、「それじゃあ、代理人ということにしておけばいいわ」という彼女のアドバイスに縋ることとなった。

しかし、14歳にして堂々たる貫禄を持った、このあまりにも美しい雰囲気を纏う少女が、私の思い上がった理想論に手放しで賛同している筈がなかったのだ。

シアは相変わらず、お人好しね。誰も見限ることができない。誰も切り捨てることができない」

その、あまりにも冷たい声音に私は息を飲む。
彼女は柔和で美しい笑みを絶やさないけれど、その口から零れ出る言葉は、時に異様な非情さを孕んでいるのだ。
彼女はその透き通ったソプラノの声音のトーンをすっと落とし、落ち着いたアルトの声音で次の言葉を紡いだ。
彼女はこうした、真剣な話をする時に声のトーンを落とす。それは友人のちょっとした癖だった。

「貴方はその力と心が許す限り、皆の手を掴んでしまうのね。皆の安寧と幸福を願ってしまうのね。それが、貴方を殺しかけた男であっても」

「……」

「私ならそんな人、放っておくのだけれど」

……そう、彼女が私の思い上がった理想論に、手放しで賛同する筈がなかったのだ。
だって彼女は、私の一つ年上の友人は、私のそうした、情に脆いところを酷く嫌っていたのだから。私の一部は、彼女にとても嫌われていたのだから。

2015.7.27

© 2024 雨袱紗