「さて、具体的な話をしましょうか」
トウコ先輩が、二杯目のオレンジジュースを一気に飲み干した。氷を口に含み、噛み砕きながら考え込むような表情をする。
あれ程、私の欲張りな行動に否定的であった彼女が、積極的にこの場の指揮を取ろうとしている姿は私に衝撃を与えた。
私は欲張りにも全てを求めながら、結局のところ、それらを自分一人の手で手に入れることなどできやしないのだ。
ゲーチスさんを生に繋ぎ止めたあの時も、私一人の力ではどうにもならなかった。私はどこまでも無力だった。
『貴方は自分が無力であることを知っています。しかし、それでも力を求めるのなら、誰でもいい、頼りなさい。あの時のように、愚行を勇気に変えてみせなさい』
アクロマさんのあの時の言葉が脳裏を掠めた。私の愚行は、勇気となれるのだろうか。
「ゲーチスはアクロマやシアを庇う形で出頭したわ。自分に関わる全ての人物に罪を着せないために、自分一人がそれを被ることを選んでいる。
……まあ、結果としてはそうなっているけれど、誰を思っての行動なのかは言うまでもないわね」
彼女は私の方を向いて悪戯っぽく笑ってみせた。まさか、それが私のことだと言うのだろうか。
私は信じられずに言葉を失ったまま、自らの疑問を宙に漂わせた。
ゲーチスさんとアクロマさんが出頭していたという事実を、私は昨日初めて耳にしたのだ。
それだけでも驚くべきことなのに、よりにもよってそれが私のために為されたことだとトウコ先輩は言う。
どうしてだろう。ずっと世間の目から隠れるようにして生きていた彼が、どうして今になってそんなことをしたのだろう。
トウコ先輩の言葉が、「それはあんたに『ゲーチスを匿った』という罪を着せないためだ」と暗に告げている。けれど私はそれをどうしても受け入れられなかった。
「そんな筈、ありません」
「どうしてそう思うの?」
トウコ先輩の隣に座っていたコトネさんが、首を傾げて私に問い掛けた。
私は少しだけ悩んでから、しかしはっきりとその言葉を紡いだ。
「ゲーチスさんは、そんなことをする人ではないからです」
そう、私の知っているゲーチスさんは、こんな13歳の子供を庇うために自ら出頭したりしない。こんな人間に罪を着せまいと、嘘の供述をしたりしない。
確かに、彼は私のことを「嫌いではない」と言ったことがある。けれど、それだけだ。それは自らを犠牲にしてまで、私を守ろうとしてくれる程の尊さではなかった筈だ。
けれど、トウコ先輩が下した結論の他に、ゲーチスさんが出頭した理由が思いつかないのもまた事実だった。
「トウコ先輩の予想は、もしかしたら正しいのかもしれません。でも、それは推測に過ぎないものです。
此処にゲーチスさんが居ない今、誰も彼の真実を知ることはできません」
「では、此処に真実があると言ったら、貴方はその結論を受け入れるのですね?」
アクロマさんのその言葉に私は息を飲んだ。
彼は白衣の内ポケットに手を入れ、小さな茶封筒を取り出した。
私に向けて差し出されたそれを、そっと受け取る。差出人も宛名も書いていないそれは、不自然に少しだけ膨らんでいた。
「本当は、わたしが此処へ来て直ぐに渡しておきたかったのですが……」
その言葉が、この封筒の送り主の名前を雄弁に語っていた。
私は迷わず封に手を掛け、そっとそれを傾けた。転がってきた細長いそれを、左手で受け止める。
「!」
それは色鉛筆だった。封筒の中には、緑色の色鉛筆が入っていたのだ。
息が詰まるような心地がした。胸が締め付けられ、視界がぐらりと揺れそうになった。
『海や空を青で書かなければいけない決まりなどない。もっと色を混ぜてみなさい』
彼の言葉が脳裏を掠めた。私はその、たった一本の色鉛筆を強く、強く握り締めた。
たった一本の、緑の色鉛筆。されどその小さな色は、私が彼と過ごしたあの時間を象徴するものだった。私はそう思っていた。そして、それは彼も同じだったのだ。
どんなものより、どんな言葉よりも、その緑色の色鉛筆は彼の真実を雄弁に語っていた。
私がここ半年程、彼と交わし続けた言葉の数々を、書き続けてきた海の絵を、彼は戯言として、くだらないものとして切り捨てることをしなかった。ずっと覚えていてくれた。
きっとこの色鉛筆は、私の代わりに彼が買ってくれたものなのだろう。仮にそれ以上の意味が含まれていなかったとしても、それでもよかった。
彼が「海」を塗る為に「緑」の色が必要だと認識してくれていた。それだけで十分だと思えたのだ。
真実は此処にあった。私はもう彼を疑えない。
「……シアさん、貴方はもう、その色鉛筆で納得がいったのかもしれませんが、実は彼からの預かり物はそれだけではないのですよ」
色鉛筆を握り締めた私にアクロマさんはそう言って笑い、茶封筒の中を指差した。
私はその茶封筒を軽く振って、中に入っているものを落とした。手の平に落ちた小さな紙切れは、メモ帳か何かを破いたものらしい。
二つ折りにされたその紙を、そっと開いた。彼の字を見るのは初めてだった。
『待っていなさい、迎えに行きます』
私はその小さな紙を握り締めたまま、固まってしまった。
待っていなさい、私が彼を?迎えに行きます、彼が私を?
たった一行のその言葉を、私は何度も読み返し、そして内容を吟味した。
寡黙で必要以上のことを話さない彼が、この紙に言葉を落とさなければならなかった理由を考えながら、その言葉を繰り返した。
「……」
そして、私は思わず笑った。
ゲーチスさん、違うんです。私は貴方が思っているような人間ではないんです。
私が貴方の言葉通りに大人しく待っていられるような人間だなんて、思い上がりもいいところです。
私の罪さえも全て被って、一人で裁きを受けようとしている貴方の優しさを、私は認めることはできても、許すことはできないんです。
「嫌です、ゲーチスさん」
私は思わず呟いていた。
ゲーチスさんは、きっと優しい人なのだ。簡単に私から重い荷物を奪い取れる人。その荷物を全て自分が背負うことを厭わない人。
彼はアダンさんにも、ヒュウにも、私達の間に敷かれたこの不思議な関係は、他でもない自分が強いたことだと豪語して不敵に笑ってみせていた。私はその優しさに甘えていた。
今回の出頭も、私を脅迫していたという嘘の供述も、私からその重い荷物を奪い取るための行動だったのかもしれない。
断言することはまだできないけれど、その推測を私の手の中の緑色が強く後押ししていた。
彼は自分が悪者になることを厭わない。私が重荷を背負うことを許さない。けれど今回ばかりはその優しさに甘える訳にはいかない。この荷物を彼に渡してしまう訳にはいかない。
「トウコ先輩、少し時間を下さい。これからどうすればいいか、私なりに考えてみます」
「……それは別に構わないけれど、あまり一人で走り回るんじゃないわよ。力が欲しいなら言いなさい。此処にはあんたの味方しかいないんだからね」
「……はい」
私が何も告げずとも、彼女は私の心境の変化を察したらしい。私が握り締めたままの色鉛筆を物珍しそうに見てから、肩を竦めて笑い、頷いた。
私の描いた緑の海は彼と共有されていた。彼の出頭にどのような意味があったのか、断言することはできないけれど、それはもう必要のない情報だった。
もう私の覚悟は決まっていた。私はもう躊躇わない。
「アクロマさん、私に真実をくれてありがとう。もう私は迷いません」
その言葉に、彼は太陽の目を見開いて驚きの表情を示す。
私は手元の小さな紙に視線を落とした。そのたった一行に、口を開く。
「迎えに行くのは、私です」
その音を、黒いインクが飲み込んで呆れたように笑った気がした。
2015.3.13