彼を、死なせてしまった。
少女はイッシュのあらゆる場所を巡っていた。
リゾートデザートにある古代の城、セッカシティの北にあるリュウラセンの塔、海底遺跡のあるサザナミタウン。勿論、ジャイアントホールもくまなく探した。
けれど、少女が探し求めていた赤い隻眼を見つけることはできなかった。偶然は二度も起こってはくれなかった。
もしかしたら、戻っているかもしれない。少女は最後の望みにかけ、クロバットの背に飛び乗った。
ホウエンへと再び向かい、開いていた窓から病室へと飛び込む。
けれどそこに、やはり探していた人物の姿はなかった。少女が出て行った時に落とした24色の色鉛筆が、白い床に散らばり、鮮やかな絵を描いていた。
「……」
少女は途方に暮れてその場に崩れ落ちた。心臓が大きな音を立てて揺れていた。
どうして、と少女は思う。彼の死の選択にはまるで前兆がなかったのだ。生きることを屈辱だとしていた彼の姿は、少女にとってもう過去のものとなりつつあった。
けれど、と少女は思う。彼はずっと抱えてきたのだろうか。この機会をずっと狙っていたのだろうか。彼は最初から死ぬつもりだったのだろうか。
これは裏切りではなかろうか。私は彼の死に裏切られたのだろうか。
何故、彼が姿を消したのか。
冷静に考えれば、もっと別の可能性を探すこともできただろう。男が少女を今更裏切る筈がないことに、少し考えれば気付けただろう。
しかし、彼が忽然と姿を消したのはこれが初めてではなかったのだ。その記憶は確かな恐怖として、少女の脳裏に刻まれていた。
夜中の海岸で、海に飲まれかけていた彼を、少女は必死で生に繋ぎ止めた。
少女にとって彼が消息を絶つことは、すなわち、彼の死の選択を意味していたのだ。
彼も見つからない。彼の忠実な3人の配下も消息を絶った。
まるで最初から存在していなかったかのように、何もなくなってしまったこの白い空間は、彼女を絶望せしめるに十分な威力を持っていたのだ。
「ごめんなさい……」
何が悪かったのだろう。何を間違えたのだろう。どうすれば彼は死を選ばずに済んだのだろう。
私ができることは何もなかったのだろうか。この理不尽な世界に屈し、無力な子供のままでい続けるしかなかったのだろうか。
彼を止めることができなかった。彼を死なせてしまった。
絶望が少女の身を蝕み続けていた。
*
一方、イッシュ地方でゲーチスとアクロマの出頭をニュースで知ったトウコは、黒いドラゴンポケモン、ゼクロムに乗り、ホウエン地方へと向かっていた。
ミナモシティの病院に、トウコの探す少女の姿があるかどうかは完全なる賭けだった。けれど彼女は、自らを慕う後輩のことをよく知っていたのだ。
彼女が空っぽの病室に驚き、当惑し、イッシュ中を探し回った挙句、此処に戻ってくるであろうと少女は信じていた。
おそらく、彼女は今回の出頭を知らされていない。
そんな彼女の前から、何も言わずに二人の人間が姿を消した。
一人は彼女が最も信頼する人物で、もう一人は彼女がこの半年間、その命を繋ぎ止めようと必死に寄り添い続けた人物だ。
「これだから、大人は嫌い。……大嫌い」
彼等がどのような思惑で出頭を決意したのかをトウコは知らない。そんな理由に興味などない。
けれど残された人物のことを、大人が二人もいながらにして全く考えなかったというのだから、呆れて然るべきだ。
本当に、呆れてしまう。あの二人は、少女の中で自分がどれ程の位置を占めているかということに思い至らなかったのかしら。
自分が何も言わずに姿を消してしまったら、彼女がどれ程ショックを受け、狼狽し、絶望するかということを、ほんの少しでも考えなかったのかしら。
大人は狡い。あるべき思慮を完璧に持ち合わせた風を装いながら、その実、その思慮が足らずに、簡単に人を傷付ける。
トウコはそうした大人が大嫌いだった。そしてそんな彼等に傷付けられることのないようにと、立派な装甲を常に纏っていたのだ。
その装甲こそ、彼女が口にする豪胆な物言いであり、つまるところ、本当の彼女はとても臆病な人間なのだ。
「……」
そんな彼女が、飛び込んだ病室の中の光景に絶句し、かけるべき言葉を音にすることができなかったとして、それはだって、当然のことではないだろうか。
金属のケースは開いたまま白い床に伏せられている。24本の色鉛筆が散らばっている。
トウコが僅かに足を動かすと、そのうちの1本に当たり、カラカラという透明感のある音がした。
その部屋の真ん中にその少女はいた。冷たい床に崩れ落ちるようにして膝を折っている。長い髪が床に広がっている。
伏せられた顔の目元には涙の跡があったが、今ではすっかり乾いてしまったようだ。
「シア」
トウコは少しの躊躇の後でそっと声を掛け、彼女の静かな絶望を、その音をもってして切り裂こうとした。
「……」
しかし少女は反応しない。トウコの頭の中で、眩しい赤と黄色のランプが激しく点滅していた。
来るのが遅すぎたのかもしれない。もうこの子は、私の手に負えるところにはいないのかもしれない。トウコはそんな風に思った。
しかしだからといって彼女を置いていくことはできなかった。トウコと少女は長い時間を共にしてきたのだ。どうして彼女を見限ることができよう。
「……シア、大丈夫?」
恐る恐るその頬に手を伸べた。その瞬間、彼女は大きく目を見開き、その手を勢いよく振り払った。
呆気に取られたトウコの前で、少女は握っていた何かを大きく振りかざす。
その手がトウコにではなく、少女自身の腕に向けられようとしていたことに気付き、彼女はさっと手を伸ばしてその腕を掴んだ。
尖ったナイフか何かだと思っていたそれは、緑の色鉛筆だった。もう手に構えることもできない程に短くなったそれを、彼女は自らの腕に突き刺そうとしていたのだ。
その信じられない奇行にトウコは青ざめる。何が彼女をそうさせているのかが解らずに困惑する。
しかし肩を強く掴まれた少女は、鼓膜が潰れそうな大声でそれを拒んだ。
「止めて! 離して!」
「シア、落ち着きなさい! 私よ、分かる?」
落ち着きなさい。それは自分に言い聞かせた言葉だった。
ようやくトウコを捉えたであろうその目は、しかし焦点が合っていないのだ。大きすぎる絶望は彼女から正気を完全に奪っていた。
怖い、と思った。自分より4つも年下の少女に、このような感情を抱いたのは初めてだった。
しっかりしろ、とトウコは自分に叱咤する。ゲーチスは出頭した。一番頼れると思っていたアクロマも一緒にいなくなってしまった。
今、この少女に一番近い位置から寄り添えるのは、間違いなく自分だ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
その謝罪が向けられるべき人物がいるとすれば、しかしその人物は此処にはいない。
怖い。しかしそれ以上に、彼女を一人にしてはいけないとトウコは強く感じていたのだ。
彼女の手から緑の色鉛筆を取り上げ、その口を塞ぐように抱き締めた。
「大丈夫よ、シア。此処にいるから」
自分が代わりになどなれないと知っていて尚、せめて今だけでもそうあれるように願うのだ。
2013.6.15
2015.1.21(修正)
Thank you for reading their story.