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「私に協力してほしい」

アクロマは自らに投げられた言葉が信じられず、その懇願に沈黙で返した。
真っ直ぐに自分を見据えている男の隻眼は、淀んだ命の色をしていた。アクロマが愛した海の色とは真逆の色をしていた。
それ故に、その言葉はアクロマの心を深く抉ったのだ。

「……何を、すればいいのです」

しかし、アクロマの言葉に男はその隻眼を見開く。

「どうしました、ゲーチス。わたくしが断るとでも思っていたのですか?」

「……」

「わたくしも、貴方のような人間の頼みなど聞きたくはありません。
けれどわたくしの勘が正しいならば、その頼みはきっと、わたくしが断ることのできない内容のものです。……違いますか?」

男はその唇に僅かに弧を描いた。
この聡明な科学者は、男の懇願が誰に関係したものなのかを直ぐに把握していたらしい。

一方でアクロマは、とある少女に投げた言葉を思い出していた。
『世の中には、その人に「かけがえのない存在」を見出している訳ではないにもかかわらず、その人に手を貸したい、その人を支えたいとする複雑な思いが確かにあるのですよ。
そしてシアさん、貴方はそうした思いを抱く傾向が強いようだ』
アクロマのその予測は当たっていた。事実、彼女はその手を誰にでも伸ばしたのだ。彼女を殺そうとした、この男にさえも。

しかし、それだけだと思っていた。少女が男に向けたその思いは、彼女の一方的なものだと思っていたのだ。

「警察に出頭します」

その言葉にアクロマは息を飲んだ。
彼の懇願にその少女が関係しているのだろう推測は立てられていたが、その内容まで推察することはできなかったからだ。
しかし、その言葉でアクロマはようやく確信を得る。

「お前はワタクシの強迫下にあり、無理矢理研究を手伝わされていたことにすればいい。仮釈放のための金額もこちらが用意します。
順当にいけば、お前は直ぐに出られるでしょう。後は好きにするといい」

信じられないことを告げる男にアクロマは目眩がした。

アクロマはかつて、大学の研究機関で同量の理不尽な仕打ちに嫌気が差し、准教授の地位を捨てて大学を去った過去を持っていた。
それ故に、人間の性質に対して、何処か悲観的に見ている節があったのだ。
人間は理不尽で、愚かで、欲深い生き物なのだと、彼が大学で過ごした時間は、彼にそう思わせるに十分な暗さと淀みを持っていたのだ。

その見方が、一人の少女により変わった。それは誇張ではなく、真実であった。
そしてその少女により自身の世界を変えられた人間は、自分一人だけではないのだろうと彼は推察していたのだ。
おそらくは、目の前の男もその一人なのだろう。……しかし、これ程までとは思っていなかった。
男の変化はアクロマの予測を遥かに上回っていたのだ。

「条件があります。わたくしの質問に答えてください」

「……いいでしょう」

男の了承を得たアクロマは、息を深く吸い込んだ。脳裏で少女の声が聞こえた気がした。
『好きです、大好きです』
その言葉を抱き続けてしまう程に、彼は少女を愛していたのだ。交わらずとも、今はそれでよかったのだ。

「貴方がこの場に及んで出頭を決意し、わたくしをも巻き込んだ理由は察しがつきます。自分がしたことへの責任を取るためです。
イッシュのポケモンを代表して、キュレムに裁かれた貴方が、今度はイッシュの人間に裁かれ、その罪を償うためです。
けれど貴方は今まで、ずっと身を隠して生きてきた。ポケモンも人も、道具のように扱ってきた。そんな貴方に、今更そうした罪悪感が芽生えたとはとても考えにくい。
しかし貴方のこの奇怪な行動に、彼女を当て嵌めれば全て納得がいきます」

「……」

「この出頭は、彼女に生かされた命の責任を取るためのものです。
貴方が引き離した人とポケモンに対する出頭ではなく、彼女の為の出頭です。彼女を共犯者にしないための出頭です。
貴方のことだ、どうせ彼女を脅迫し、自分の支配下に置いたとでも言うつもりでしょう。そうして彼女を被害者に仕立て上げ、自分一人がその罪を被るつもりでしょう」

饒舌に早口でまくし立てるアクロマに対して、男は一度も言葉を挟まなかった。
否定も肯定もせず、ただ沈黙して、不快な表情を見せることなく、ただその目を真っ直ぐにアクロマへと向けていた。
その態度は、どこまでも男のそれらしくないもので、アクロマはそれに少しばかり動揺し、そして苛立つ。

「そしてわたくしにも出頭をさせたのも、他でもない彼女の為です。
貴方はわたくしと彼女とが親しい間柄にあることを知っています。
彼女に最も近い位置にいるわたくしが、世間からプラズマ団のボスとして糾弾され続けることを、貴方はこの出頭で回避しようとしている。
そして、しばらくは世間に出て来られないであろう自分の代わりに、彼女の傍にいるようにと、暗に命じているのでしょう」

男は何も言わなかった。アクロマは言葉を止めなかった。

「全ては彼女の為です。貴方のためでも、わたくしのためでも、ましてやプラズマ団が虐げたイッシュに生きる人やポケモンのためでもない。
全て、全て彼女の為にすることなのでしょう。貴方は彼女の為に、彼女に生かされた命を使おうとしているのでしょう。
……そこで、貴方にお聞きしたい」

アクロマはかつて少女に投げた言葉を思い出していた。
『覚えていてください。貴方は貴方が思っている以上に、多くの人に大事に思われているのですよ』
彼女は知っているのだろうか。その中に、目の前の赤い隻眼を持つ男も入っていることを。
きっと、知らないのだろう。この男はそうした思いを伝える術を持たない。しかし、それでもいいと思っているのだ。構わないと優しい諦念を湛えているのだ。
それはアクロマの覚悟とあまりにも酷似していた。そのことにアクロマは気付いてしまった。
それ故に、彼の懇願を断ることができない。しかし、だからこそ尋ねておきたい。


「貴方は絆されたのですか?」


その言葉に、男は目を閉じた。

嘘でも建前でも、「誰か」が自分を突き動かすなどというプロセスを考えたことはなかった。否、そんなものがあるということさえ知らなかった。
しかしそれは確かに存在した。でなければ今から取る行動の説明がつかない。

『馬鹿な子だ』
男がそう絞り出した言葉には、一体どれほどの感情が詰め込まれていたのだろう。男は自分のことながら、それを未だに把握できずにいた。
自分に向けられた、大きすぎるその思いに当惑していたのかもしれない。彼女の狂気とも取れる自分への執着に恐ろしくなったのかもしれない。
しかし最も理解できないのは、13歳の子供のために、自分がかつて殺しかけた子供の為に、自分にかつてない屈辱を与えた子供のために、このような行動に踏み切った自分自身だ。

嘘を吐くのは簡単だった。建前を並べるのも簡単だった。
しかしそれすら億劫だと思わせる程に、自分は。


「ええ、そうです」
[line2
『私は貴方を守ります。誰に何を言われようと、傍にいます。ずっと!』
そう言った少女の、深い海のような目を、男は忘れていない。
その目が男と同じように揺れていたことを、絶対に忘れない。忘れる筈がない。

2015.1.21

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