15

シアにはドレディアのねむりごなで眠ってもらった。静かになった病室で、私は呆然と立ち尽くしていた。
どれくらいそうしていたのか解らなくなり始めていた頃、私はようやくその手を動かして、白い床に散らばった24色の水彩色鉛筆を拾い始めた。
金属の冷たいケースに、濃い色から順番に入れていく。虹のようにカラフルなそれを眺めて、蓋をした。

「……」

『私としては、あんたには素敵な刑務所ライフを過ごしてほしいんだけど』
昨日、ゲーチスに投げた言葉を思い出す。あれはほんの冗談だった。仮にそうすることになったとして、その連絡くらい寄越してから行動するものと思っていた。
あの男は何故、こんなにも急に出頭を決意したのだろうか。アクロマは何故、あんな男と一緒に向かったのだろうか。
何より、彼が居なくなっただけで、どうしてシアはこんなにも錯乱しているのか。

解らないことが多すぎた。一度、私もシアも落ち着く必要があったのだ。
私は連れて来ていたポケモンの力を借り、彼女をゼクロムの背に乗せた。ミナモシティの病室を空にして、秋が訪れようとしているホウエン地方を発った。
眩暈がする程に暑い夏、8月の31日。こんな終わり方ってないわ、と私は悪態を吐こうとして、止めた。口を開けば代わりに目から何かが零れてしまいそうだったからだ。

ワカバタウンのポケモン研究所、その隣の大きな家に私の友人は住んでいた。
若葉を彷彿とさせる、淡い緑色の屋根が特徴的な、その家の前にゼクロムは降り立つ。Nにシアを預け、私はドアをノックした。

トウコちゃん、こんにちは!」

間髪入れずに勢いよく開いたドアに私は苦笑する。
ひょいと顔を出したコトネは、いつものように笑い、その可愛らしい手で私を手招きした。

「Nさんから話は聞いているよ。取り敢えず入って。えっと、シアも」

「ありがとう。シアは眠らせたから、その辺に寝かせておいてもいい?」

眠らせた、という不穏な言葉にも、彼女は怪訝な表情を見せなかった。「それじゃあ、私のベッドを貸してあげるね」と笑い、シアを抱えて現れたNさんに自室へと案内する。
私はその態度に救われる気持ちがした。

2歳年下の、私の友人。シアのことも大切だが、それはあくまでも「後輩」として、であった。
対等な友人は誰かと聞かれれば、私は間違いなく彼女の名前を答えるだろう。
世間知らずで箱入り娘なところはNを彷彿とさせたが、彼女はその実、とても頭が切れる。天真爛漫なその笑顔の中に、彼女はその聡さを無意識に隠しているようにも見えた。

私はその間に、シアの母に連絡を入れた。彼女の無事と、しばらくは家に戻れそうにないことを伝える為だ。
しかし、既に私の母がその知らせを送ってくれていたらしく、「シアをお願いね、トウコちゃん」と、何もかもを悟ったように彼女はそう零した。
私は信頼されているのだ、と思い、胸がズキン、と痛んだ。
彼女が本当に、心から信頼しているのは、私ではない。勿論、私だって信頼はされているのだろう。けれど彼女が一番に縋るべき人物は、此処にはいない。
だからこそ、その代わりになどなれないと知っていても、それでも私はそう在れるようにと願いながら彼女を支えなければならないのだ。

大嫌いだ、と、追い詰められた私の頭は八つ当たりを始める。
大人なんて、大嫌いだ。残された人間のことを、何一つ、考えていない。
……彼等の意図に気付いていなかった私は、そんな悪態を吐くしかなかったのだけれど。その意図に、私はもっとずっと後で気付くことになってしまうのだけれど。

「残された人のことを考えないあたり、誰かさんにそっくりね」

シアコトネの部屋のベッドに寝かせ、階段から降りてきたばかりのNに私はそんな八つ当たりをする。
しかしNは驚きこそしたが、その言葉に顔をしかめることはなかった。代わりに微笑み、小さく紡ぐ。

「ならボクの幸運は、キミのような人と出会えたことだね」

私はNを蹴り飛ばした。今思えば、彼は「蹴らせて」くれたのかもしれない。
私の拙い八つ当たりを、今だけは許してくれたのかもしれない。

それから、シアが目覚めるまで、私達には暫しの平穏が訪れていた。
コトネとシルバーとNとで、久し振りの再会を喜び、他愛もない世間話を繰り返して、時間があっという間に経つことに少しだけ驚いて。
そんな平穏が、彼女が目覚めるまでの間だけは許される気がしていたのだ。何もかもが一度に起こり過ぎていた。一度、それらから目を逸らしていたかったのだ。
コトネはそんな私の思いを知ってか知らずか、テレビのリモコンを取ってその電源を落とした。

「そういえば、ヒビキは何処? あいつにも挨拶がしたいんだけど」

「それが、つい1週間前から入院しているの。お母さんもそれに付き添っているから、今はこの家に私とシルバーだけ」

思わぬ報告に私は驚いた。
コトネの双子の弟であるヒビキが、私の双子の兄であるトウヤ以上に病弱で虚弱なことは知っていた。
ほぼ自業自得で虚弱体質に陥っているトウヤとは異なり、彼のそれは難病によるものだ。
入退院を繰り返していることは知っていた。コトネの家へ遊びに来た時も、会える時と会えない時があったことを覚えていた。
私達を匿う余裕などない程に、コトネの家だって慌ただしかった筈だ。無理を言ってしまったかもしれない。
しかしコトネは、そんな後悔を始めた私の額をそっと人差し指でつつく。

「気にしないで、ヒビキの入院はいつものことだから。それに、一度に二人もいなくなって寂しかったから、トウコちゃんとNさんが来てくれてとても嬉しいよ」

彼女はいつものようにふわふわとした笑顔で笑った。私もそれに釣られるようにして笑ってみせる。
この子には敵わない、と思う。しかし不思議と悔しさは湧き上がって来なかった。
彼女は私と同じように強いけれど、その強さは対極にあるものだったからだ。私は彼女のような強さは持てない。同時に、彼女にだって私の強さは真似できない筈だ。
それでいい気がした。自分に無いものに憧れ、尊敬することはとても自然なことであるように感じられていたからだ。
けれど、自分を卑下する必要などこれっぽっちもないことを、私もコトネも知っていたのだ。

「!」

しかし、そんな温かなまどろみの時間を、2階から聞こえてきた大きな音が切り裂いた。
ドアが勢いよく開く音、しばらくして、階段を駆け下りる音。顔を真っ青にして現れた彼女は、私と目が合うと駆け寄り、取り縋る。
そして吐き出された言葉は、此処が何処であるか、どうして私は眠っていたのかといった質問ではなく、彼女が最も懸念していた、私にとっては最も聞かれたくなかった質問だった。

「アクロマさんは?」

その時、私はどんな顔をしていたのだろう。

「私、プラズマフリゲートにも行ったんです。でも、いなかった」

私の肩を掴むその手は、恐ろしい程に震えていた。
この時、私には彼女がどうしてこんなにも震えているのか解っていなかった。

彼女の前からゲーチスが消えた。そのことは彼女にとって、「ゲーチスが自ら「死」を選んだ」という可能性を意味するのだと、この場にいる人間には解らなかったのだ。
アクロマなら、分かったのかもしれない。ダークトリニティなら、察することができたのかもしれない。けれど私は、解らなかった。
彼女の恐怖を、絶望を、汲み取ることができなかった。

「……」

そして、私のこの、返答を躊躇う際に生じた沈黙が、彼女にどれ程のショックを与えたかなど、今の私が知る筈もなかったのだ。

彼女の目の前から、二人の人間が同時に消えた。
私は推測することしかできないが、……彼女はきっと、アクロマまでもが死んでしまったと思ったのだろう。
でなければ、これから彼女に起こったことへの説明がつかないからだ。

……アクロマとゲーチスは、シアにとってとても重要な位置を占めていたのだ。私はそれを知っていた筈だった。
けれど私は、彼女が二人を想うその質量を計り違えていたらしい。
その絶望を思うなら、これから起こったことは他でもない、その絶望に押し潰されないための最後の策だったのかもしれない。
だから、彼女を責めることはできない。シアは悪くない。彼女は何も間違ってなんかいない。

けれど、と思う。
もし彼女が「欲張り」でさえなければ、こんなことにはならなかったのではないか、と。
私のように、愛する世界を予め狭めておけば、彼女がここまで追い詰められることもなかったのではないか、と。
そう思い、私は笑った。そんなに上手くいく筈がないことを知っていたからだ。
私達はいつだって愚かで、しかしいつだって必死だった。

2015.2.16

© 2024 雨袱紗