27

私はいつものようにドアを開けた。開けて、少しだけ面食らった。
ゲーチスさんが腰かけている筈のベッドに、今はダークさんが足を組んで寝転がっていたからだ。スケッチブックを上に掲げ、眺めている。
ジュペッタがシーツの中に潜って遊んでいるらしく、もごもごと布の塊が不自然に動いている。チリーンは彼等の傍で涼しげな音を鳴らしながら漂っている。
どうやらゲーチスさんは検査に出ているらしい。私は掲げようとしたお土産を机の上に置き、ダークさんが持っていたスケッチブックに視線を向けた。

「よかった。やっぱり置き忘れていたんですね。鞄の中になかったから、もしかしたら何処かで落としたのかもって、慌てていたんです」

「……こんな大きなものを落とすのか」

ダークさんは呆れたように眉をひそめる。
この空間に訪れる沈黙に耐えきれなくて、その時間をやり過ごすための手段として、私は絵を描き始めた。
けれどあれから数か月が経った今、私はそれを趣味の領域にしつつあった。
ホウエン地方を観光しながら、出会ったポケモンや気に入った風景をスケッチすることが最近のマイブームだ。自分の旅行記を書いているようでとても楽しい。

「ところで、お前の目には海が緑に見えているのか」

彼はこの病室の窓から見える海の風景を描いたページを私に向けて、訝しげにそう尋ねる。
「それはゲーチスさんのアドバイスです」と私は告げると、ダークさんは少しだけ驚いた表情を見せた。

『海や空を青で書かなければいけない決まりなどない。もっと色を混ぜてみなさい』
その言葉に、雷に打たれたような衝撃を抱いたことを今でも覚えている。
彼のような大人の世界は、私のそれよりもずっと広く、そして柔軟なのだと思い知らされたのだ。
そして私は、彼に敬意を表するかのように、海にあらゆる色を混ぜ始めた。

「ゲーチスさんには、海がどんな色に見えているんでしょうね」

それは何気なく紡いだ言葉だった。しかしダークさんは虚を衝かれたかのように目を見開いて一瞬だけ沈黙し、そして笑い始める。
私が首を傾げて問いかけると、彼はまだ笑いを引きずったままにこんなことを言うのだ。

「あのお方が見る海は、青以外の何色でもない。断言しよう」

「そうなんですか? ……確かに、ホウエン地方の海はとても綺麗ですよね。とても澄んだ青をしています」

すると彼は肩を竦めて「そういうことではない」と告げた。
私にはそれが心底、不思議でならなかった。彼の見る海が青以外の何者でもないのだとしたら、どうして私にあのようなアドバイスをしてくれたのだろう。
彼は海や空を、青とはまた別の色をもってしてその目に映しているのだとばかり思っていた。
それ故に、私よりもゲーチスさんのことを知っているであろうダークさんの断言を受け入れつつも、何処か釈然としない気持ちを抱えていたのだ。
けれど、彼が青しか見ないというこの広い海に、私はまた別の色を見ようとしていたこともまた事実だった。
だからこその緑の海がそこにあったのであり、つまるところ、私は見えない色をスケッチブックに落とすことを選んだのだ。

「この絵の続きは描かないのか」

「あ!」

彼が別のページを捲ったその先には、絶対に見られてはいけないものが描かれていた。
真っ白な部屋、あの頃はまだあった青いビードロの花瓶、そこに一輪だけ挿された花。ベッドに腰掛けて本を読む男性の姿、肩を流れる鮮やかな若草色。
本に伏せられたその顔を細部まで描くことはしなかったが、誰を描いたものであるのかを、ダークさんは間違いなく理解している。
そう、私が描くようになったのは、風景やポケモンばかりではなかったのだ。

咄嗟に手を伸ばすが、背の低い私が彼からそのスケッチブックを取り上げられる筈などなかったのだ。
おそらく真っ赤になった私の顔色など露知らず、ダークさんはスケッチブックを上に掲げて続ける。

「ゲーチス様もご存じだ」

大きな音を立てて、私の中で何かが弾けた。羞恥とかそんな類のものが、それはもう盛大に。
赤くなったり青くなったりと忙しい私の顔を眺め、彼はマスク越しに小さく微笑む気配を見せた。

「……いつからですか?」

「さあ、それは分かりかねるな。しかしあのお方がちらちらと向けられる視線に気付かない筈がないだろう」

それもそうだ。恨むなら彼を描こうだなんて思い至った自分の気紛れを恨むべきだ。
恥ずかしくて堪らない。今此処に彼がいないことが唯一の救いだった。きっと顔も合わせられないだろう。
しかし彼はそんな前のことなど忘れてしまっているのかもしれない。何せそれは、あの火山灰で作ったビードロが割れる前の出来事だったのだから。
もしくは覚えていても知らぬふりをして、何のことですと一掃するかもしれない。この時ばかりは彼の冷たい反応を願わずにはいられなかった。

パタン、とダークさんがスケッチブックを閉じる乾いた音が響く。ジュペッタがシーツの中から這い出してケタケタと笑った。
差し出されたスケッチブックを受け取り、私は口を開いた。

「ごめんなさい」

訝しげに見下ろす彼の目を、私は直視できなかった。何のことだと尋ねるダークさんに、畳み掛けるように続きを紡いだ。

「もっと冷静になるべきでした。彼の言葉を受け止めるべきでした。……思い上がっていたのは、私の方だったのかもしれません」

彼に譲られたイニシアティブを振りかざし、貴方は私のものだと豪語した。その命は私が奪ったのだから、貴方に己の命の行方を裁量する権利はないのだと詭弁を紡いだ。
彼を生に繋ぎ留めようと必死だった。とにかく必死だった。刹那的に言葉を吐き出していた。
噛み合わない継ぎ接ぎだらけの嘘は、彼と過ごした月日の中で真実へと風化していた。

「でも全部、本当のことなんです。私はゲーチスさんに生きていてほしい。彼はまだ死んじゃいけない。
彼のしたことを全て忘れて、楽な選択肢に逃げようだなんて許さない。どんなに苦しくても、彼は生きるべきです。
私は、そんな彼の傍に在りたいと思っています」

紡いだ真実に何の後ろめたさも感じない。そのことに私は、涙が出る程安心した。
それは何度も何度も紡いできた言葉で、彼が話してくれた過去を知っても、その思いが変わることはなかった。
寧ろ、彼を知ったからこそ、その思いを変えてはいけないと思ったのだ。
寡黙な彼があの時、私に全てを話してくれたその理由を、私は正しく理解しなければならない。理解できなかったとしても、その恣意的な選択を蔑ろにすることは許されない。

「そうか」

ダークさんはただ頷いてくれた。その静かな了承によって、私はこれからも此処に通うことを許される。
その事実がただ嬉しかった。
彼は立ち上がり、ジュペッタをベッドから追い出してシーツを整え始めた。私の耳も、この部屋へと続く足音を拾い上げる。どうやら検査が終わったらしい。

「あれは幻肢痛だ」

そんな彼が小さく紡いだ言葉を私は同じように繰り返し、そして、首を傾げる。

「失った手足が痛む現象のことだ。ゲーチス様はそれに苦しんでおられたが、しかし、直に収まるだろう」

早口で紡がれたその言葉に私は安心した。
そんな現象があるのだと、私は人間の持つ神秘性に驚くと共に、ない筈の手足の痛みをどうやって治療するのだろう、と疑問に思う。
しかしそれを尋ねることはできなかった。何故なら彼がまさにドアを開けようとしていたからだ。

「こんにちは、ゲーチスさん」

彼は私を一瞥して、僅かに頷く。ジュペッタのダークさんがコーヒーを入れるために立ち上がる。
彼の背中に声を掛けようとして、止めた。

『貴方は生きなければいけないのだと、貴方は生きることを皆さんに乞われているのだと、まだ分かりませんか』
ごめんなさい、と私は心の中で小さく呟く。彼には聞こえない。聞こえる筈がない。
生きなければいけないのは私も同じだ。何もかもを背負って生きることを乞われているのもまた同じだ。
彼はその義務を背負おうとしているのに、私にはきっとまだその覚悟がない。

そのことに、きっとこの聡明な大人は気付いている。
気付いていながら、何故かはよく解らないけれど、彼はそんな私の拙い暴力を、正義の皮を被った卑しい暴力を、許している。

2013.1.5
2015.1.14(修正)

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