26

恐ろしい程の饒舌さで、男は自分の過去を語った。何故だろう。鈍い痛みを耐えながら男は考える。
誰にも話したことのなかった自分の過去を、不条理に苛まれてきた日々を、この不完全な身に巣食う負の感情を、何故、この子供に告げたのか。告げてどうしようというのか。

「お前はさぞかし楽しい思いをしているのだろう」

「え……」

「このような男を生かし続けているという事実に、そろそろ酔い痴れてきた頃なのでは?」

少女は押し黙った。
この少女を忘れた日は一度たりともなかった。男はずっと、考えていたのだ。
彼女は何をしようとしているのか。重ねる男との時間に何を見出そうとしているのか。

何もかもを失った男を笑おうとしているのだろうか。男を己の支配下に置こうとしているのだろうか。
快復した頃を見計らって、自ら正義の鉄槌を下そうとしているのだろうか。毎日の訪問はそのための監視に過ぎないのだろうか。
考えても考えても、答えなど出る筈がなかった。「そうした」経験を男は持っていなかったし、それに付随する感情にもまた、触れたことがなかったからだ。
愉悦か、嘲笑か、支配欲か。この少女はその目に何を飼っているのか。その色に何を宿しているのか。
解らない。解らないからこそ、少女のその行為は確実に男の屈辱としてその身に刻まれ続けている。

「そんなに私が滑稽か、私は死なせるのも惜しい程の都合のいい娯楽か」

男はそんな言葉を吐き捨てた。吐き捨てて、そして気付いた。

「……」

少女が黙っている。
それは不自然なことではなかったが、男を見上げるその目は何処か据わっていた。深い海の色をしたその目は、瞬きすらも忘れて男をしっかりと見据えていた。
一切の表情を削ぎ落したかのような、その静かな顔に勢いを削がれた男は息を飲む。
今まで男が見たことのなかった少女のその顔は、彼女の精一杯の怒りの表し方であるらしい。男がそれに気付くのと、少女が抑揚のない声音で口を開くのとが同時だった。

「ゲーチスさん、貴方は思い上がっています」

彼女はその言葉と同時に男に掴みかかった。いつかのように床へと男を組み敷いた、その少女の長い髪が、男の首元をくすぐる。
視界が突如としてひっくり返ったことに男は驚いたが、更に驚くべきは目の前の少女にあった。

「そんなに生きていたくないのなら殺してあげましょうか? 今が屈辱的だと感じるなら、私が貴方を手に掛けましょうか? 貴方がかつて、私にしようとしていたように」

「……」

「でもゲーチスさん、覚えていてください。そんな楽な選択をするだけの権利を、もう貴方は持っていないんですよ」

そして少女は、その細い両腕を男の首へと伸べる。
ゆっくりと、しかし確実にその力は強さを増し続ける。少女は止めない。ダークも止めようとしない。男は止める術を持たない。
ぐらりと霞んだ視界で、男は少女の目から雨が降る様を確かに見た。

「貴方は私なんかよりもずっと賢い大人であるはずなのに、分かっていないんですか?
貴方がいなくなったら、貴方が此処で死んでしまったら、悲しむ人が、生きる意味を失う人が、寂しく思う人がいるんですよ」

その声音は震えていた。雨が男の頬を伝った。

「仮にそれでも、どうしても死にたいのだとして、貴方にはもう、自分の命の行方を決定するだけの権限はないんですよ。
だって、貴方は一度その命を捨てたんです。貴方は今、こんな子供に拾い直された二度目の命で生きているんです。
……ねえ、貴方は生きなければいけないのだと、貴方は生きることを皆さんに乞われているのだと、まだ分かりませんか、ゲーチスさん」

この子供は何をしようとしているのだろう。
首に掛けた手は僅かに緩められ、しかし再び僅かに強さを増す。
命に手を掛けることへの恐ろしさがまだ勝っているらしく、その力は呼吸を苦しくするものの、意識を失う程の強さではない。ダークもおそらくそれを解っている。
しかし重要なのは力加減などではなかった。男はそれを理解していた。

この子供に、いつも笑っていた少女に、首に手を掛けるなどという、少女にとって恐ろしいことである筈のその行為を選ばせたのは、他でもない自分だ。男はそれを知っていた。
その事実から、決して目を逸らすべきではなかったのだ。
少女はそうまでして、何を伝えようとしているのだろう。どのような感情を自分に向けようとしているのだろう。

そして男の思考は再び始まりへと戻って来る。
彼女は何をしようとしているのだろう。重ねる男との時間に何を見出そうとしているのだろう。
この少女はその目の色に何を宿しているのだろう。愉悦か、嘲笑か、支配欲か。しかしそうだとして、それなら、あの言葉の説明がつかない。

『それでも私は貴方を一人にしたくない! 傍に在りたい!』

男にはあの言葉がどうしても信じられなかった。幻聴だと、空耳だったのだと言い聞かせ、しかしもう一度問うても同じ言葉が返ってきたのだ。
自分がそうした、誰かに無条件で寄り添いたいと思わせるだけの価値のある人間であるとは、どうしても思えなかったのだ。
世界の理不尽を被り続けた長すぎる年月は、男から自尊心という名の矜持を完全に奪っていた。
そうした感情を向けられた経験を男は持たなかった。
無償のものなど存在せず、無価値なものは虐げられ、だからこそ世界は理不尽であるのだと考えていた。自分は虐げられた側なのだと信じていた。

「!」

いつの間にか、少女の手は男の首から離れていた。そして今度は男の左手を、包むようにそっと握る。
ゲーチスさん、と男の名前を呼ぶ、その声はもう震えてはいない。その目はもう揺れてはいない。

「貴方の左手は私のものです。渡しません。誰にも、……貴方にも」

そしてようやく男は理解する。少女はずっと探していたのだ。
男をこの世界に繋ぎ留める言葉を、世界を見限ろうとした男に届かせるべき誠意を。

少女の目からその必死さを汲み取るのは容易いことだった。
しかし彼女を此処まで必死にさせる、どうしても男を死なせたくないとさせる、その根源の正体を男はまだ計りかねていた。
それでも、男は理解していた。少女は自分に死んでほしくないのだと。生を蔑ろにする男の首に手を掛け、泣きながら訴える程に、その思いは真摯であったのだと。
そして男には、その思いを拒む術がない。

「……」

冷たい床があの冬を思い起こさせる。ああ、そうだ。あの時だ。あの時に自分は全てを諦めたのではなかったか。
捨てた自分を拾い上げられ、この子供に奪われたあの日に、自分は彼女を踏み台にすると言ったのではなかったか。


確かに私は、この子供を選んだのではなかったか。


男は左手をそっと少女の背中に回した。少女が「私のもの」だとしたその手で、泣き続けるその子供をあやすようにそっと叩いた。
小さく、本当に小さく溜め息を零す。それは呆れ故のものではなかった。もっと別の、名状しがたい何かが男の中で柔らかに渦を描いていたのだ。
その正体を、男はまだ知らなかったのだけれど。

「生きていてくれて、よかった」

そして少女は信じられないような言葉で、世界に拒まれた男を肯定する。

「右腕がないことに悲しむ必要なんてなかったんです。だってゲーチスさんは生きているから」

この右腕の損失は果たして、この言葉のための対価だったのだろうか。
男はそんなことを思いながら、今度は大きく溜め息を吐く。

あの日、男を飲み込み損ねた冬の海の代わりに、二つの目が映す春の海が彼をすっかり、飲み込もうとしていた。

2012.1.5
2015.1.14(修正)

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