いつもより靴音が弾んでいる。男は読んでいた本を閉じて、顔を上げた。
ドアを開けた少女がその手に提げたのは黒い無地の傘だった。おおよそ子供らしくない趣味に首を傾げる。
すると何を思ったのか、少女はあろうことか室内でそれを広げるという奇行に出たのだ。
「何を」
傘を広げたままこちらに駆け寄ってきた子供に怪訝な表情をしてみせたが、しかしその奇行の理由は一瞬にして氷解する。
その地味な黒い傘の内側には、青い空が広がっていたのだ。写真を焼き映したかのような美しいそれを、彼女は見せるべく広げたらしい。
「綺麗でしょう? ルネシティで親切な知り合いの方と出会って、この傘を貸してもらったんです」
少女は得意気に笑ってみせる。
その笑顔に釘を刺したくなったのは当然のことだと言える。それは最早、男の性分とも言えるものであったのだから。
「……成る程。このような代用品で済ませようとするところを見ると、丸い空とやらはお目に掛かれなかったようですね」
「あ……」
「しかも傘を携帯していなかったとは。これまでも幾度となく雨に降られているというのに、学習能力の薄弱なことだ」
少女は言葉に詰まり、きまり悪そうに肩を竦めて笑う。やはり期待した景色は見られなかった挙句、またしても雨に濡れてきたらしい。
それにしては乾きの早い髪や服を見る限り、その「親切な知り合い」の世話になったのだろう。
このような落ち着きのない子供の知り合いであるというその人物に、男は少しだけ同情した。そしてそのような感情が残っていた自分に気付かされ、苛立つ。
しかしその苛立ちに、少女が気付くことはない。気付かれてはいけない。この子供に、自分の内面を見せる価値などないのだから。
それは殆ど自分に言い聞かせた言葉であったのだと、誰よりも男自身が知っていた。
ジュペッタを連れたダークが、マグカップを2つ持って現れる。
苦いコーヒーを口に運びながら、その隣で熱いココアに息を吹きかけている少女を一瞥する。
何とかして冷やそうとしていたようだが、やがて自然に冷めるのを待つ方がいいと判断したらしく、マグカップを置いて立ち上がり、鞄からスケッチブックを取り出した。
飽きることなく、この病室の大きな窓から見える風景を少女は書き続けている。そのスケッチブックがある日、置き忘れられていたことがあった。
そこに広がる世界は殆どが青で埋め尽くされていた。空の青、海の青、そして雲の白、太陽の淡い金色。
少女の水彩色鉛筆が、アンバランスな長さをしている理由がこれで解った。
何故、そんなことを言ったのか、今でも本当に理解に苦しむ。しかし告げてしまった言葉を引っ込める術を男は持たない。
『海や空を青で書かなければいけない決まりなどない。もっと色を混ぜてみなさい』
その言葉に少女は目を見開き、とても嬉しそうに微笑んで「はい!」と大きく頷いた。
それ以降、彼女が見せる絵の海には、緑や黄色、赤が加えられるようになったのだ。より鮮やかに、複雑になった海と空の色を、少女は楽しんでいた。
「あ、忘れるところでした。今日のお土産です」
鞄から森のヨウカンを取り出した少女に、またしても男は皮肉を投げる。
しかしそれは誤りだったのだと、男は少女の返答で気付かされることになるのだけれど。
「お前は私に、雨に濡れたヨウカンを食べさせる気ですか」
「ちゃんとビニール袋に入れてありましたから、水没は免れていますよ。
……でも、気になりますよね。今日は止めておきます。明日、ちゃんとしたものを持ってきますね」
まさか向こうから手を引っ込められるとは思っていなかった。予想だにしていなかったその行動に男は沈黙する。
深く溜め息を吐いてから、手を伸べた。
「寄越しなさい」
「え、でも、」
「本当に雨を免れたのか確かめます」
すると少女はぱっと花を咲かせるように微笑み、鞄に仕舞いかけていたその小箱をこちらへと差し出す。
受け取ったそれが雨に濡れていようといまいと、きっと男には関係のないことだったのだ。
少女は毎日、その靴音を廊下に響かせてドアを開ける。
僅かに弾むような抑揚を刻む靴を素早く動かして、すれ違う看護士や医師に咎められない程度の駆け足でやって来る。
たかが子供一人。しかしその靴音の及ぼすものの大きさを、男は不本意ながら自覚しつつあった。
*
しかし忘れさせてはくれない。それを記憶は許さない。
いつものように「それ」は突然やって来た。
小さな違和感を認めた時にはもう遅かった。次の瞬間にはもう骨に響き入るような激痛に変わっていた。男は咄嗟に右肩を抱える。
何かが延びて来る。反射的にそれを左手で振り払った。ガタン、と何かが落ちたらしい物音がする。何かが私を見ている。
器用に輪郭だけ切り取って姿をぐらりと揺らす、そんな自分の不明瞭極まりない視界に苛立ちは増す。
……いや、それだけではない。背中を伝い、這い上がってくる数多の感情には強烈な既視感があった。憎悪、悲観、絶望、そして屈辱。
「ゲーチスさん!」
あの子供の声が聞こえる。暗い洞窟の中で、氷漬けになる筈だった少女の声が聞こえる。
きっとそれは屈辱を超えた筆舌に尽くし難い何かだったのだろう。
男は過去の自身に屈辱を浴びせた、数々の言葉を思い出していた。自身に突き付けられた不条理を持て余していた。
『いいえ、知らない。貴方は何も知らない』
『可哀想ね、ゲーチス。あんた、死ねなくなっちゃったわね』
『ボクはポケモンを傷付ける身勝手な人を許さない』
『それに、今もこれからも、イッシュは美しいままです。だって私が貴方を止めるから』
「黙れ!」
脳裏に浮かんでは激痛を伴って消えていく、飽きる程に再生した理想の終焉。
王となったバケモノ、悲観に暮れる人々、手中に収めた数多のポケモン。
あの子供も、男の手駒の一つに過ぎない筈だった。彼の掌で転がすべき相手である筈だった。
擦り切れた記憶のテープは、同じ映像を男に見せ続けている。
氷付けの少女。別離されたポケモン。失った人々。王になったバケモノ。それらを統べる自分。
ハッピーエンドは何処へ行ったのか。何が間違っていたのか。
揺れる視界の中で、少女が自分に手を伸べる。その手は肩へと触れようとしている。
触れさせてはいけない。知られていけない。
男は迫り来る最大の屈辱から逃れようと、慌てて身を引こうとして、しかしそれは叶わなかった。
激しい痛みにより立っていられなくなり、その場に糸が切れたかのように崩れ落ちる。
床の冷たい感覚が、男に冷静さを取り戻させかけていた。そして男は、気付いてしまった。
「……え?」
『少し、怖くて』
そう告白した少女の、隠しきれなかった恐怖が、動揺が、その揺れる目に映っているのだと思っていた。
しかし少女の目は揺れない。その目は大きく見開かれていた。その表情を男は知っていた。驚愕だった。
すっと体に冷たいものが駆け巡る心地がして、男は少女の掴んだ手の先を見下ろす。見下ろして、そして認めざるを得なかった。
知られてしまったのだ、と。
少女の手は、男の右腕を握っていた。確かな質量の存在しない、空の右腕を握っていた。
そこに質量などあるはずがなかった。男に右腕はないのだから。過去に失っていたのだから。それをずっと意図的に、隠していたのだから。
「どうして」
少女の声は震えていた。
どうして右腕がないのか、どうして隠していたのか、どうして今、ピタリと痛みが止んだのか。
彼女の「どうして」に続く言葉がどれであったとしても、そのどれでもなかったとしても、男にとっては同じことであった。
この状況、その驚愕、その言葉、どれもが彼にとっては最早懐かしさを覚える「屈辱」であり、少女はその屈辱を想起させるトリガーにすぎなかったからだ。
「……知りたいのですか」
「……」
「このような、無様な男の話を、お前は聞きたいのですか」
2013.1.3
2015.1.13(修正)