10

「ゲーチスがどういう状態なのか、ボクは知っていたよ」

トウコ先輩が姿を消してからしばらくして、Nさんは徐に口を開いた。

「ボクはカレを憎んではいないし、生きてほしいと思っている。……けれど、ゲーチスは違うみたいだね」

「え……」

「ダーク、キミが何故、ボクではなくカノジョを此処へ呼んだのか、少しだけ分かった気がするよ」

ゲーチスさんは、違う。
その言葉は一つの結論に辿り着こうとしていたが、私の心はそれを拒んでいた。
嘘だ、そんなはずはない。だって彼は、私は。

シア、風邪を引かないようにね」

Nさんは私にそれだけ言って、トウコ先輩の後を追うように駆けていってしまった。
私は引き止めない。引き止められない。彼に聞きたいことは幾つもあったのに、彼の名前を呼ぶことはできなかった。
彼にこれ以上の情報を求めることは、彼を傷付ける行為に等しいのではないかと思ったからだ。

もし、Nさんが苦しんだとして、彼に寄り添うべきは私ではない。彼には、もう寄り添ってくれる人がいる。
私が彼にできることは何もない。だからこそ、彼は不可侵であるべきだった。
彼を救える人間は私ではないのだ。そんな私が、彼を傷付けることが許されるはずがなかった。
Nさんにはトウコ先輩がいてくれるし、トウコ先輩にもNさんがいてくれる。

ああ、そうか。だから私は此処に来たのだ。
分からないことばかりであった今までのことが、一つだけ明らかになる。
私はあの人に寄り添わなければいけない。何があっても、私だけは彼を忘れてはいけない。
それが、彼の居場所と心を奪った「責任」を果たす行為に近しい何かだと、信じていた。何かが変わると、信じていた。
……けれど。

Nさんの足音が雨に掻き消されて、完全にその存在を消した頃、ダークさんは私の喉元に添えていた果物ナイフをそっと仕舞った。
ジュペッタがケタケタと笑いながら、あの家の方角からふわふわと飛んでくる。
冷たいものが瞼を濡らす。ダークさんが眉をひそめる。

「すまない、怖がらせたな」

「違います」

違う、……違うのだ。
彼にナイフを突き付けられたことが怖かった訳ではない。怖かったから、涙を流している訳では決してない。
金属質な冷たさを首元に感じながら、しかし恐怖は湧き上がって来なかった。私は落ち着いていた。
あの言葉を、聞くまで。

「今ならもう、貴方がそんなことをしない人だって、分かります」

「……では、何故」

何故、泣いているんだ。
沈黙の中に滲ませたその続きを私は拾い、震える声で吐き出した。

「悲しいから」

悲しい。
私はぼろぼろと溢れるものを拭いながら、ジュペッタのダークさんに尋ねる。

「ゲーチスさんは死んでしまうんですか?」

「……」

「治せない病気なんですか?」

あの言葉を信じたくなかった。トウコ先輩を引かせるための嘘だと言い聞かせていた。
けれどNさんの言葉がそれを否定したし、何よりダークさんはそうした嘘を吐くような人ではなかった。
彼等が忠誠を誓う、ゲーチスさんのことに関しては、殊更に。
だから私が尋ねたそれは、きっと「疑問」ではなく「確認」だったのだろう。
ダークさんは私をその冷たい目で見下ろし、雨に掻き消されそうな程の小さな声で紡いだ。

「治せる病気かどうか、俺は知らない。だが仮に治せる病気だったとしても結果は同じことだ」

「どうして、」

「ゲーチス様が望んだのだ」

時が、止まった気がした。
瞬きすらも忘れていた。

「何もするなと、あの方がそう言われたのだ」

彼の淡い緑が脳裏を掠めた。射るような赤い目には光がなかった。
顔色は驚く程に悪く、今にも凍り付いてしまいそうだった。頬はこけていて、目の下には分厚い隈が彫られていた。
ベッドに上半身を起こした、その布団に伏せられた手は枯れ木のように細く、折れてしまいそうだった。

私を殺そうとした彼は、今度はその手で彼を殺そうとしていたのだ。

『ゲーチス様はもう何もなさらない。もう何もできない。だからお前を許さない。私達と戦え!』
セッカシティでアブソルのダークさんに言われた言葉を思い出す。
あれは、そういうことだったのだ。

私は彼の居場所や心のみならず、彼の生きる意志すらも奪ってしまったのだ。

「私を、貴方が殺せば、ゲーチスさんの心は元に戻るんじゃなかったんですか?」

「……」

「あの時、私を殺しておけば……」

違う。……違うのだ。
ダークさん達は最初から「分かっていた」のだ。

『お前を倒せばゲーチス様のお心を取り戻せると信じている酔狂な男達に付き合い、そして絶対に負けてはいけない。
お前はそうして生きていくんだ。俺達のことも、ゲーチス様のことも一生忘れずに生きていく。だから、こんなところで死んでもらっては困る』
私がモンスターボールをガムテープでぐるぐる巻きにして遠くへ投げたあの時。
彼等に「殺さないんですか?」と尋ねた、あの時。
あの時には既に、彼等はもう「分かっていた」のだ。
ゲーチスさんがもう元には戻らないこと、私と戦っても何も変わらないこと。

それなのに、どうして。
どうしてダークさんは、私を此処へ呼んだのだろう。
彼を殺そうとしている私を、彼の心を殺してしまった私を、彼の何もかもを奪ってしまった私を、どうして。
Nさんはその理由が「少しだけ分かった」と言った。しかし私は、分からない。

何もかもが分からなかった。分からないままに、悲しさだけが胸を満たした。
悲しい。
私達は、一様に悲しい。

かけがえのない存在に対して盲目となり、凄まじい憤りを引き起こし、そうまでして私を守ろうとしてくれたトウコ先輩も、
ゲーチスさんの未来を見通しながら、彼の選択を諦めてしまっているNさんも、
忠誠を誓っているが故に、彼の命令に逆らうことができないダークさん達も、
私を殺そうとしたその手で、自分を殺そうとしているゲーチスさんも、
彼の何もかもを奪いながら、彼に何一つ報いることのできない、私も。

「どうしてですか」

「……」

「どうして、皆、こんなにも悲しい人達ばかりなんですか」

彼は小さな声で、紡ぐ。

「人間として生まれてしまったから、だろうな」

雨はまだ、止みそうにない。

2012.11.25
2013.12.13(修正)

© 2024 雨袱紗