9

※この回には人徳に悖る、過激な言動が含まれます。

雨に濡れた身体は急速に体温を奪われていく。でもこの震えは別のものだと知っていた。
外気から受ける寒さではなく、内側からいきもののように湧き出て来るような寒さだ。これはきっと、恐怖だ。

Nさんの澄んだ目は雄弁だった。おそらくは全てを知っているのだ。私が毎日此処に通っていること、そして此処にゲーチスさんがいること。
何か、何か言わないといけない。それなのに、言葉が出て来ない。

明日のお土産は、森のヨウカンにするつもりだった。
火曜日のロイヤルイッシュ号でそれを貰えることを、常連となった私は既に知っていた。
空になった和菓子の包み紙を見ることが嬉しかった。私は彼と関わることが許されているのだと、その時は確信することができたのだ。
きっとNさんには咎められるのだろう。それでも私は明日も此処に通うのだろう。

もう日課になってしまった訪問に意味を与えようとして、しかしそれは直ぐに霧散する。
私は何を思って彼に会いに行ったのか。何のために此処を訪れているのか。
会わないといけない気がした。そうしないと、私は前に進めない気がした。……何処に?
私は何処に進もうというのだろう。彼との時間を積み重ねた先に、いったい何を見ようというのだろう。

分からなかった。分からないことが多すぎた。だからこそ、今その時間を奪われる訳にはいかなかった。

「あんた、殺されたいの?」

唐突にNさんから聞こえてきた、聞き覚えのありすぎる声に私は目を見開く。
彼の背後から姿を現したトウコ先輩は、私をきっと睨みつけて素早く歩み寄った。
思わぬ人物の登場に私は青ざめる。彼が現れた時点で彼女の存在を推し量るべきだったのに、雨の冷たさが私から正常な判断力を奪っていた。

「ゲーチスがあんたに何をしようとしたのか、忘れたの?
あんたはもう少し頭のいい人間だと思っていたわ。どうして、こんな馬鹿なことをしているの?」

「……トウコ先輩、」

「あんたは分かっていないのよ、シア。あんたを心配している人間がどれだけいるか、どうして考えられないの?
あんたが大切に思う人の数だけ、あんたも思われているんだって、どうして気付けないの?」

私は驚きに目を見開いた。彼女が今まで見たことのない顔をしていたからだ。
激しさを増す豪雨が、彼女の頬を涙のように伝う。それは雨のせいだけではないことに気付いた私は、言葉を失ってしまった。
彼女が、泣いている。
「私の世界は私とNとを中心に回っているのよ」と豪語し、「他の奴なんて知ったことじゃない」と気丈に笑っていた彼女が、泣いている。

私が、彼女にこんな顔をさせてしまったのだろうか。私が、彼女にそんな涙を零させてしまったのだろうか。
何にも屈することのしなかった彼女を、私が苛立たせ、私が不安にさせているのだろうか。
私を大切に思ってくれる彼女を、私は裏切ろうとしているのだろうか。
……違う、そうではない。私は殺されるために、ゲーチスさんの元を訪れている訳ではない。彼のしたことも、私がされたことも、忘れた訳では決してない。

説明しようとした言葉は、しかし行き場を失った。
背後から素早く伸びてきた手に、私は自由を奪われていたのだ。
襟首を強く掴まれている。首筋に何か銀色の冷たいものが向けられている。僅かにリンゴの香りがした。
今日、私がお土産に持ってきたリンゴを、ジュペッタのダークさんが果物ナイフで器用に剥いていた。
皮が繋がっていることに感動して、目を輝かせていると、傍でそれを見ていたゲーチスさんは僅かにその口元を緩ませた。
そのナイフが、今、私の首元に添えられている。

「N様、お帰りください」

シア!」

「それ以上近付けば、刺します」

誰を?
私は自身にそう問いかけた。……私だ、私をダークさんが刺そうとしている。
トウコ先輩とNさんは一様に青ざめている。
けれどその事実を認識しても、私はあの時のように恐怖することはなかった。

代わりに浮かんだのは「どうして」という疑問だった。どうしてダークさんはNさんを拒絶するのだろう。
私には踏み入ることを許してくれたのに、彼と関わることを認めてくれたのに、どうしてNさんは駄目なのだろう。

しかし、その疑問は直ぐに氷解した。

「ゲーチス様はもう長くない」

ざあっと、打ち付ける雨が強さを増した。何もかもを洗い流すような心地がした。
ナイフが首に触れる。金属の冷たさに目を細める。

トウコと言ったか。ゲーチス様も、我々も、この子供に危害を加えるつもりはない。あのお方はもうその力を失っているし、我々もそんな命を下されてはいない」

「……シアにナイフを向けている人間が言う台詞じゃないわね。私はあんた達のことなんか、信用していないの。
それに、ゲーチスが苦しもうが死のうが、私の知ったことじゃないわ」

「……」

シアを離しなさい。でないと私が一足先に、あの男を殺すわよ」

トウコ先輩の目は据わっていた。その目を、私はかつて一度だけ見たことがあった。
『……それとも素手で殴ってやろうか?』
ホドモエシティで、Nさんを裏切り者と罵倒したプラズマ団員の男性を彼女は押し倒し、低い真っ黒の声音でそう紡いだのだ。
あの時は私が止めたから、それ以上の暴力を振るうことはなかったけれど、その目はどこまでも恐ろしい光を湛えていた。
尊敬する先輩である彼女の口から、そんな恐ろしい言葉が紡がれることに私は戦慄した。

トウコ先輩、違うんです。ダークさんの言っていることは、本当です」

そして、その彼女を止められるのは、今回も私なのかもしれないと思ったのだ。

「私がゲーチスさんを信じて裏切られたとしたら、きっと、それは罰なんです」

私は自らが紡いだその言葉にはっと我に返る。
私は罰が欲しいのだろうか。私は彼に殺されたかったのだろうか。
違う、そうではない。彼に恐怖を見出さなくなった時、私は心底安堵したのだ。
私は自分の償いの為に、自分の命を捨てていいとはもう、思わない。
それはいけないことだと、他でもないダークさん達にそう言われたのだ。私が選んだ世界を見届けろと、奪われた側の彼等が私にそう言ったのだ。
だから私は、彼に殺されてはいけない。それは世界を選び取った私への冒涜であり、私を大切に思ってくれる、私の大切な人への裏切りに相当すると、知っていた。

彼女は茫然と立ち竦んだ。
長い沈黙の後で、彼女は目を強くこすり、悲しそうに肩を竦めて笑った。

「!」

その姿に私は、もしかしたら私の「かけがえのない存在」であるかもしれない人物を重ねる。
とくん、と心臓が大きく揺れる。あの時の笑顔の裏に隠された彼の悲しみを、私はようやく理解するに至ったのだ。

……私は、彼を傷付けていたのだ。

シア、私はゲーチスのことなんてどうでもいいの。あんたが無事なら、他のことなんかどうでもいい。
でも、あんたがあの男に何かを見出そうとしているのなら、その意志は、先輩として汲んであげたい。
だから、あんたに嫌われるようなことを言って悪いけれど、あんたが殺されるより先に、ゲーチスが死んでしまうことを願っているわ」

「……」

「私はあんたみたいに、誰もを想うことはできないの。……ごめんね」

トウコ先輩は踵を返し、落ち葉を強く踏みしだいて駆け出した。

2014.12.13

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