11

1ュペッタのダークさんは、私を再びあの家へと招き入れた。暖房の効いた彼の部屋へと背中を押され、私はみっともない顔のままに再び彼と視線を交える。
ずぶ濡れになった私を見て、彼は珍しく驚きを露わにした。
傘は持っていなかったのですかと呆れたように言われ、何故かまた涙が込み上げて来る。
しかし彼は私の表情を見て、その一瞬で全てを察したらしい。

「申し訳ありません、ゲーチス様」

ダークさんの一言で私もはっとする。ゲーチスさんは口封じをしていたのだ。
私が毎日此処へ来ることを許しながら、それでも決して話そうとしなかった、尋ねられてもはぐらかす様に命じていた、その真実は鉛のように重い。
足が震える。私は足を折り、冷たい床に崩れ落ちた。

何も言えない。言ったところで何も変わらない。
彼から全てを奪ったのは私なのに、その私は、彼に何もしてあげることができない。私が彼の心に働きかけることを、きっと彼は許さない。
重ねた時間は何の役にも立ってくれなかった。私はどうしようもなく無力だった。

「私は、」

「……」

「後、どれくらい、ゲーチスさんの傍にいられますか?」

彼は答えない。振り出しに戻ってしまったかのようなその沈黙に、また涙が止まらなくなってしまった。

潮の匂いがする。
私はクロバットに乗って海を渡っていた。
『小さい頃、翼が欲しいってサンタクロースにお願いしたことがあるんです』
あの頃は、まさかこんな風にその夢が叶うなんて想像もしなかった。
今は、クロバットが空へ運んでくれる。ポケモン達が私に翼をくれる。
それなのに何故、こんなにも悲しいのだろう。

海原に君臨する大きな船に降りれば、白衣を風に揺らした彼が甲板で迎えてくれた。

「こんにちは、待っていましたよ。昨日は会えなかったので、何かあったのかと心配してしまいました」

「……ごめんなさい」

「いいえ、構いませんよ。だって貴方はこうして来てくれた」

私は激しく頭を振った。
違う、そうじゃないんです、アクロマさん。
私はずっと、気付けていなかったんです。あの時、貴方がどんな思いで笑ってくれていたのか、どんな感情を押し殺して「間違っていない」と言ってくれたのか。
優しすぎる貴方に、私は甘え過ぎていたんです。
そして私はまたしても、そんな貴方に縋ろうとしているんです。

私はロトムの入ったボールを取り出して、彼の前に構えた。
バトルを申し込まれていると察してくれた彼は、笑顔のままにポケットからボールを取り出す。

「アクロマさん。私が勝ったら、お願いを聞いてください」

彼はその金色の目を僅かに見開き、しかししばらくして、いつかのように悲しそうな顔をして微笑んだ。

ハイドロポンプを覚えたロトムは、6匹を相手にしたバトルを終えて流石に疲れ果ててしまったのか、ふらふらと宙を漂って私の元へと戻ってきた。
少し、無理をさせ過ぎてしまったかもしれない。お礼と謝罪の言葉を紡ぎ、私はアクロマさんに向き直る。
彼は私に歩み寄り「相変わらず、強いですね」と微笑んでから、少しの躊躇いの後にそっと紡いだ。

「彼を、死なせたくないのですか」

私は愕然とした。どうして、と尋ねようとしたが、驚きのあまりそれは音にならなかった。
この人は、私の考えていることを見抜いてしまう。彼は私のことを、もしかしたら私自身よりも知っている。

シアさん、わたしは白衣を着ていますが医師ではない、科学者です。
知り合いに医師がいない訳ではありませんが、きっと彼等に、貴方の望みを叶えてあげるだけの力はないでしょうね」

「……どうしてですか? お医者様なんでしょう?」

「生きたいと望まない人間を救うのに、どれだけの力が必要だと思いますか?」

頭を殴られる心地がした。そうだ、彼は生きたいとは思っていないのだ。
こうしてアクロマさんに相談していることも、私の勝手な行動に過ぎない。私があれこれと策を練ったところで、彼はそれを受け入れる気などないのかもしれない。
それでも、何かせずにはいられなかった。己の無力を突き付けられて尚、私はそれでも、何かできるはずだと信じている。
……そう思わなければ、絶望に身を埋めてしまいそうだったからだ。

「生きることを望まない人間、治療を拒む人間の前には、どんな医学の力も無力です。そしてわたしは、ゲーチスを説得できる人間に、心当たりがありません。
ダークトリニティも、きっと彼に説得を試みたのでしょう。けれど彼は応じなかった。ゲーチスに最も近い存在である彼等ですら、無理だったのです。
仮に私が何かしらの手段を用意したとして、貴方にできることは残っているのですか?」

「……」

シアさん、貴方は彼を救えるのですか?」

彼の金色の目が私を見据えていた。私は両手を強く握り締めた。
私は彼を救えるのだろうか。彼の何もかもを奪った癖に、彼に何も差し出すことのできない私が、彼の命を繋ぎ止めることができるのだろうか。
私にその資格はあるのだろうか。彼はそれを本当に許してくれるのだろうか。
沢山の疑問が脳裏を過ぎり、沢山の不安が沸々と湧き上がっていた。確信できることなど、一つもなかった。
しかし迷っているにもかかわらず、どうしようもないくらいに不安であるにもかかわらず、私の口ははっきりとした音を紡ぐ。

「いいえ、私にそんな力はきっとありません。私には彼を救えません。でも、私はできないことを素直に諦められるような賢い人間じゃないんです」

シアさん」

「だって、私はこんなにも欲張りなんです。見ない振りをすることがどうしてもできないんです。
私は、私を心配してくれている人がいることを知っていながら、貴方を裏切ることになると知っていながら、それでもその思いに従うことができなかったんです。
私を大切に思ってくれている人を傷付けると分かっていながら、それでも私は、貴方のための行動を選ぶことができなかったんです。
私はどうしようもない人間なんです」

私のことを、どうか利己的だと罵ってください。
愚行の極みだと蔑んでください。見損なったと嘲笑ってください。私を軽蔑してください。
私のことを、嫌ってください。

「いいえ、シアさん。貴方は……正しい」

しかし彼が紡いだのは拒絶の言葉ではなかった。私は言葉を失って彼を見上げた。
彼はいつかと同じ言葉を操り、ただ優しく、微笑んでくれる。

「貴方の行動は正しい。何も、間違ってなどいません。
それにね、シアさん。わたしが貴方を嫌いになったりするはずがないのですよ。それが他でもない、貴方に頼まれたことであったとしても。
だからそんな、泣きそうな顔をしないでください」

私の声に出さない懇願すらも彼は拾って、笑う。
誰よりも無力なくせに、誰よりも欲張りな私を知っていながら、それでも彼は私を拒まない。嫌ってはくれない。
彼は、優しい。

「言ったでしょう? 貴方は間違っていないと。仮に間違っていても、私が支えると」

私の頭をそっと撫でて、彼は同じ言葉を囁く。
どうしようもなく泣きたくなって、私は彼の白衣に縋った。彼と積み重ねた優しい時間は、その優しい腕に縋ることへの躊躇いをとっくに溶かしきっていたのだ。
ごめんなさい、ごめんなさいと震える声で繰り返した。彼はそんな私すらも咎めなかった。

「……」

そんな彼が一言、小さな、本当に小さな声で「それ」を紡いだ。
私は弾かれたように顔を上げて、彼の金色の目を覗き込んだ。彼は肩を竦めて笑い、私を再び強くその腕の中に引き込んで、今度ははっきりと音を並べた。

「なんて、ね。冗談ですよ」

2012.11.25
2014.12.14(修正)

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