B10-1010

弾かれたように振り返った。
開けっ放しにしていた扉のところには、白いシャツにネクタイを締めた、シンプルな服装をした爽やかな面立ちの青年が立っていて、
机に触れる寸前で止まったあたしの指と、驚いて目を見開き沈黙するあたしの顔を交互に見比べた後で、困ったように、照れたようにふわりと微笑んでいたのだった。

「あの子を知っているの?」

「ああ、今も未来機関の医療施設で眠っているみたいだ」

「……へえ、遺体は未来機関が持っているのね。場所を教えてくれない? いつか、花でも持っていきたくなる時が来るかもしれないから」

人差し指の関節部分で、コンコンと机を叩きつつあたしはそう告げる。
夕陽ばかりの差し込む薄暗い教室でも分かる、彼の顔にはべっとりと驚愕と憤怒の類が貼り付いていた。分かりやすい人、表情の豊か過ぎる人だと思った。
ああ、彼女はどんな花が好きだったろう。いや、彼女は花であればどんなものでも「綺麗」と笑っているような奴だった。
だからきっと、その辺にある植物を適当に引っこ抜いて差し向けたところで、それでも彼女は喜んでしまうに違いない。
そんなみっともない負け犬には、臭い雨に打たれたしぶとい雑草がお似合いだ。

「あいつはまだ死んでいない、眠っているだけだ」

「そうよ、眠っている「だけ」。だってあいつは生きていないもの! もう何年もの間、ずっと、ずっとそんな調子よ。
目も開けず、口も利かず、モノも食べない、ご立派な機械に頼らなければ呼吸もままならない。それって、死んでいるのと何が違うの?」

「……眠りと死との違いがあるとすれば、やり直せるかどうか、ってことだろう。彼女は死んでいない。やり直せるところにいるんだ。
俺達は、彼女がいつか目覚めてくれると信じている。だから席はそのままにしておきたかった」

希望ヶ峰学園において彼女を知っている生徒は、あたしとイズルを除けば、あの白いワカメ……狛枝凪斗を置いて他にいないと思っていた。
だからこそ、狛枝凪斗以外の人物の口から彼女のことが語られているという事実に、あたしは少なからず驚愕し、歓喜し、そして落胆した。
それなりに多くの人に覚えてもらえているにもかかわらず、それなりに大事に思ってもらえているにもかかわらず、まだ彼女は目覚めない。彼女は逃げたまま、負け犬のままだ。

そんな彼女のことを想いながら、辛そうに目を伏せる彼。少なからず彼女のことを案じていることが伺える表情をしたこの青年。
こんな健康優良児みたいな男とあいつが仲良くしているところなど、想像も付かなかった。
そして当然のことながら、あたしもこの青年のことを全く知らなかった。

「お前は俺のことをきっと知らないだろうな」

そんなあたしの心を彼は見事に看破し、言語化してみせる。
あたしは呆れたように笑いながら「ええ、知らないわ」と肯定する。彼はそんなあたしを許すように、眉を下げて肩を竦めて「だろうな」と相槌を打つ。

「でも、俺はお前を知っているんだ。お前がどんな生き方を好む人間で、どれくらいその親友のことを想っていたのか、俺は知っている」

彼はそう告げながら、教室の中へと入ってきた。
カツ、カツと響く靴音がやけに懐かしいもののように思われて、あたしは目を閉じて、耳を澄ませた。
この靴音をあたしは知っている。この青年のことを知らずとも、あたしの心はこの靴音を覚えている。
予備学科の教室、夕暮れ、借りたままの洋書、量を間違えた乾燥ワカメ……。

「……」

靴音がすぐ近くで止まった。あたしはそっと目を開けた。

「貴方を本科へ勧誘する件はまだしばらく時間がかかりそうだと伝えておきます」

観覧車を下りると同時に、閉館10分前のアナウンスが響いた。休日は夜まで賑やかに明かりが灯っているこの場所だけれど、平日は早めに仕事を終えるらしい。
彼は相変わらずの仏頂面に戻って、淡々とそう告げつつあたしの手を引いた。
あたしは悔しくなって、悲しくなって、その冷たい手を強く握ってみた。彼はすぐに振り返り、けれどもあたしの表情を確認すると、顔を歪めて更に強く握り返してきた。

この黒いワカメがこれまでに、学園の指示を受けてどのようなことをしてきたのか、あたしは知らない。彼も教える気などないだろうし、あたしも詮索する気にはならない。
そもそも、普通ではない存在として造られている彼が、あたしと全く同じ、平凡で単純な学園生活を過ごしていることの方が「異常」なのだ。
異常な存在は、異常に生きてこそ正常たり得るのだ。だからこそ彼は異常な存在として、異常な行動を何てことのないように続けてきたのだ。
逆に正常な存在は、正常なところでしか生きられないのだ。だからこそあたしは今、彼と相容れない場所へ置き去りにされようとしているのだ。
分かっている。それがこのままならない現実の仕組みであり、その現実に生きるあたしの運命なのだと、理解している。
それでも、駄々を捏ねたくなってしまう。そうした「無益で無駄なこと」を繰り返したくなってしまう。彼が許してくれたから、まだ、ぐずっていたくなってしまう。

「あたしは、あんたの思うような大それた人間じゃないの」と呟いた。彼は相変わらずの仏頂面で「ええ」と相槌を打った。
「あたしは自分のためだけに生きる人間よ。あんたの託してきた希望の重さなんてすぐに忘れてしまうわ」と告げれば、彼は間髪入れずに「構いませんよ」と返した。
「あんたに殺されずとも、そこら辺で呆気なく死んじゃうかもしれない」とうそぶけば、彼は首を傾げつつ「それは、困りますね」と、予想外のことを口にした。

「貴方は全てにおいて僕に及ばない人間ですから、貴方の活躍を期待するつもりは更々ありません」

それはどうも、と返して彼の手を離した。にっと笑いかけてからアスファルトを大きく蹴り、遊園地の出口から外へ飛び出した。
あたしだって馬鹿ではない。だから分かってしまう。駄々を捏ねたってぐずったって変わらない。この男は止まらない。
親友が眠りに付いたときと同じだ。あたしのどんな言葉も、どんな激情も、彼等の決意を揺らがせるには足りない。
その破滅的で残酷な決意に火をつけたのは、他でもないあたしだというのだから、益々、救いようがない。

軽く手を振ってみた。彼はこちらを真っ直ぐに見ていたけれど、振り返すことはしなかった。
だからあたしはそのまま、彼に背を向けた。

「ただ、生き長らえてくれればそれで構いません」

「!」

「希望とは、誰の力を借りずとも、ただそこに在るだけで価値のあるものなのでしょう」

あたしは振り返った。
けれどもそこにあの黒いワカメは見当たらず、閉館を告げるアナウンスと、家路を急ぐ人々の靴音があたしの鼓膜を撫で回すばかりであった。
目を閉じて、耳を澄ませてみても、彼の靴音を拾うことはできなかった。
あたしはそのまま顔を伏せて、目をきつく閉じて、周りの靴音の波が小さくなるのをただ待っていた。

『僕は確かめようと思います。希望と絶望、どちらが僕にとって予測がつかないのか』
『希望か、絶望か。その答えに僕自身で辿り着くことができたなら、僕も貴方のように……いえ、貴方程とまではいかずとも、少しはオモシロイ人間になれるかもしれない』
神に似た力を持つ彼が為す、真理への探究。その過程は一体どのようなものだろう。

『僕は貴方から教わったことを活かして、僕の未来を僕の意思で創ろうとしています』
意思を持たないように造られたはずの彼は、一体、どのような未来を創るのだろう。

『これは僕の造り手である学園に対する反逆であり、その舞台は混乱を極めるだろうから、貴方に逃げることを指示している。……この意味、貴方なら分かりますね』
その「混乱」こそ、彼という神の為す「裁き」なのだろうか。彼は学園への反逆を、彼のような命を生み出した人々への「罰」とするつもりなのだろうか。

『僕の才能はいずれ貴方を殺すように出来ています。けれども僕の心は貴方を生かしたがっている』
それとも彼は最初から、学園を内側から壊すための存在として造られたのだろうか。
彼の宿主であるハジメはそのおぞましい計画に気付かず、自らの望みのために身体を捨てたのだろうか。

全てはあたしの想像であり、予想であった。
そして彼のような万能の力を持たないあたしにとって、その想像や予想はあたしの期待と邪念に塗れた「妄想」の域を出ない、実にツマラナイものだった。
あたしはこうした「無益で無駄なこと」が大好きなのだ。そうした「遠回り」が今のあたしを支えているのだ。もうそれでいいことにした。構わなかった。

あたしは、あの強大な力を持つ男を警戒しすぎていて、加えてあたしはやはりあたしのことしか考えていなくて、
だからあたしがこの男に毒されないように、あたしが傷付かないようにと、そればかり意識して、あたしを守ることに徹していた。
この男に影響されてなるものかと、それだけを思っていた。

あたしにとっての彼は長らく「あたしの身体に親友を埋め込む手段」を得るための最短ルートに立つ人間に過ぎず、
また彼にとってのあたしも「学園からの指示を受けて本科へと勧誘する対象」にしかなり得ないはずだった。
その認識、その関係を逸脱しないようにと常にあたしは意識して、この数週間、暮らしてきたのだ。

けれども蓋を開けてみれば、ああ、どうしたことだろう。影響されたのはあたしではなく彼の方であったのだ。
あの男が、感情の一切を持たないように造られているはずの彼が、あんなことを口にして、あんな表情ができるほどに作り替えられてしまっていた。
勿論、あたしにはそんなつもりは毛頭なかった。けれども結果として、彼をそうしてしまったのは他ならぬあたしであった。

あたしは、あたしよりもずっと強大な才を持つ彼を警戒していた。だから彼に変えられることはなかった。
けれども彼は、その才の強大さ故の驕りから、随分と気楽な心地であたしに接していたのだろう。
だからこそ、あたし如きの侵入を許し、あたしなんかに変えられてしまったのだ。

『あんたのようになりたい』とあたしは告げた。『貴方のようになれたなら』と彼は言った。
『あたしの負けよ、イズル』とあたしは告げた。『僕の負けです、香菜』と彼は言った。
『あんたの存在はあたしの希望だった』とあたしは告げた。『貴方は僕の希望です』と彼は言った。
あたしと全く同じことを口にして、彼は顔を歪めていた。そのぎこちない笑顔はおそらく、彼を生み出した運命とかいうものに対する、最初の謀反だったのだろう。

しかし、これらのようなことを口にしても、あたしは変わっていない。あたしは今までもこれからも、あたし以外の誰かに変えられたりしない。
そして、これらのようなことを口にしたから、彼は変えられてしまった。絶対で不変の存在として造られたはずの彼は、変わる、という謀反を、反逆を犯したのだ。

馬鹿な人だと思う。超高校級の希望が聞いて呆れる、とも思う。
けれどもあたしは随分と調子の良い人間だから、あたしと関わったことによって彼に起きてしまった変化が、これからの彼を支えるものであってほしい、などと考えてしまう。

『貴方は僕の希望です』
あの言葉が真実であればいいと、あたしは本気でそんなことを思ってしまう。

2019.7.19
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