B3-11

「君の親友はどうして、希望ヶ峰学園に入学しなかったんだい?」

血の色が染み込んだ汚いアスファルトを車が走っている。車、なんて代物に乗るのは何年振りのことだろう。
この廃れた町で電車のような閉鎖空間に身を置くのは自殺行為だ。
バスも似たようなものだと知っていたから、あたしの移動手段は専らこの足と、そこら辺に「捨てられた」自転車だった。
車の免許などというものがなくても、車は運転できる。無免許運転を取り締まる人間など、この街には一人もいないのだ。
にもかかわらず、あたしは「捨てられた」車を「拾って」みようと思ったことはなかった。
それは「無免許運転はいけないことだ」というご立派な倫理観に基づくものではなく、ただ単に「運転の仕方が分からない」からに他ならなかったのだけれど。

「病気よ、馬鹿な病気。自分で死んだようなものだわ」

「どういうこと?」

苗木の問い掛けに、あたしは「さあ」と言葉を濁した。
彼は困ったように眉を下げていたけれど、やがてその顔を窓の外へと向けて、先程までの「親友」のことなど忘れたかのような穏やかな目をしてみせた。
ほら、この程度なのだ。あの親友の存在意義などこの程度。たった十数秒、話題に上っては泡のように消えて忘れられていくだけの、つまらない存在。
けれども「イズル」はそうではなかった。イズルは彼女とは違ったのだ。
彼には才能が山ほどあった。彼は望まれるままにその力を奮った。彼は希望に焦がれる者達の目指す終着点であった。そして何より、彼は生きていた。

イズルは生きている。親友は死んだ。
彼女が忘れ去られ、彼がいつまでも人々の記憶に残り続けている理由など、それだけで十分だった。

ワカメを頭に生やしたその青年は、自らを「イズル」と名乗った。
始業時間の開始に伴い、彼は霧のように姿を消したけれど、あの黒いワカメの姿はあたしの脳裏に焼きついたまま、ずっとずっと離れてくれなかった。

翌日も、その翌日も、あたしは彼の姿を見つけることができなかった。あたしの心臓は、毎日のように繰り返される期待と落胆に揺れた。
気味の悪いことを言い、おかしな色の眼差しをあたしに向けたその人を、あたしは無意識に探し続けていたのかもしれなかった。
そうして何日か、いつもの静かな毎日を過ごしていくうちに、あたしはふと思い至って、鞄からあの本を取り出した。あたしの親友から借りっ放しにしている、あの洋書だ。

これを落とせば、また彼が拾ってくれるのでは?

あたしの中の悪魔がそう囁いて笑った。
あたしはその誘いに抗うこともせずに、大きく肩を竦めて息を吐き、親友の宝物を、階段の踊り場に見せ付けるように立てかけてやったのだった。
そんな馬鹿げたことをしでかしてしまう程度には、あたしはその「イズル」に興味を持っていたのだろう。

「……借り物なのでしょう。このように粗末に扱っては、貸主の怒りを買うのでは?」

そして悪魔は、私の望んだ通りのプレゼントを運んできてくれた。
昼休み、くるみパンを少しずつ千切って口の中に押し込んでいたあたしの視界いっぱいに、あの鬱蒼とした黒髪が広がったのだ。

差し出された洋書には、やはり傷一つ付いていなかった。
まるで何か特別な力に守られているかのように、あの親友の執念がそうしているかのように、この本は汚れず、色褪せず、美しいままでそこに在るのだった。
まるで、再び彼女に読まれる日を待っているかのようだった。

「いいのよ、どうせあいつはもう本なんか読めないわ」

けれども残念ながら、その洋書を手に取るのは彼女ではない。「彼女に読まれたい」という、この洋書の懇願が叶うことは、きっともう二度とない。
彼はその紅い眼球をほんの少しだけ大きく覗かせた。そして合点がいったようにすぐに細め直し、小さく息を吐いてからその薄い唇で言葉を編み始めた。

「成る程、本科にある空席はそうやって出来たのですか。病気による欠員だったのですね」

「あら、知っているの? 超高校級の夢想家のこと」

「……彼女の才能はもう少し、社会に益のあるものだったように記憶していますが」

「知っているわ。今のは単なるあたしの揶揄だから」

そのような才能を買われてこの学園に招待された訳では決してない。それくらい、分かっている。
けれども事実として、彼女はれっきとした「夢想家」だった。幼い頃からずっとそうだった。
この学園に来るまでの学校生活、その大半を彼女と同じ学校で過ごしていたはずなのに、ずっとあたしの近くに彼女はいたはずなのに、
まるで「そこに在るのは私の質量だけだよ」とでもいうような、覚束なく儚く情けない心地で、いつだって不気味に不可思議に存在していた。

彼女の憧憬、彼女の目標、彼女の羨望、彼女の嫉妬、それらは全て現実ではなく空想の世界にあった。
あたしはそんな彼女に呆れと軽蔑と揶揄を向け続けた。下らないことだと、馬鹿みたいな夢物語など捨ててしまえと言い続けてきた。彼女の夢を軽んじる姿勢を崩さなかった。
あたしなら彼女の意識を「現実」に引き戻すことが叶うのではないかと、そうした驕りを抱えながらずっと彼女の傍にいたのだった。

そうして、夢を見過ぎた彼女は、本当に夢しか見なくなってしまった。

皮肉なことだと、馬鹿じゃないのかと、自業自得だと、そうやって馬鹿にでもしていなければ、あたしは平静を保てそうになかった。
いつか引き戻してやると、あんたの大嫌いな現実の世界にあんたを連れ込んで、がっかりするあんたを見て思いっきり笑ってやるのだと、
そうした認識で彼女のいない世界を生きていかなければ、罪悪感とか後悔とか寂しさとか、そういう優しく下らないものに押し潰されてしまいそうだったのだ。

「貴方が頑なに本科へと入ろうとしなかったのは、彼女の空き枠を空き枠のままにしておくためだったのですね。いつでも、彼女が戻って来られるようにと」

けれどもこのワカメはどうやら、その「優しく下らないもの」を持ち出して、あたしを潰しにかかろうとしているらしい。
その、何でも見透かすことの叶うらしいご立派な瞳を凶器に変えて、あたしの心臓に突き刺し、あたしの最も大事な部分を抉り取ろうとしているのだ。

随分なことを、と思った。ふざけるな、と思えてしまった。
そうすると、にわかにあたしは何か強大な権力を与えられたような心地がした。この仏頂面の黒いワカメに憤るだけの権利が、今のあたしにはあるような気がした。
この学園での暮らしの中で常に考え続けてきたその存在、けれども常に想い過ぎないように意識し続けてきた存在、そんな親友への言及を、これ以上してくれるなと、
あたしの憂いを暴かないでくれと、あたしの罪を晒さないでくれと、そんな風に怒鳴ることくらい許されて然るべきだと考えたのだ。

「そこまで人の心を読めるのなら、その真理は口に出すべきじゃなかったわね。
あたしは、自身の想いを明け透けに暴かれても尚、ご機嫌にニコニコしていられるような人間じゃないのよ。それくらいのこと、あんたなら分かっていたはずなのに」

目を細めた。思いっきり睨みつけてやった。
あたしの視線でその長く黒いワカメが焼き焦げてしまえばいいと思ったけれど、
残念ながらあたしは超能力者ではないから、こうやって険しい顔をしてみせることで溜飲が下がる思いを自身の心に無理矢理作ってやることくらいしかできなかったのだ。

「貴方の機嫌を取るような才能は僕にはありません。そんなものを持っていたところで、社会の益にはならないので」

「へえ、随分と驕った言い方をするじゃない。それなら、あんたは何ができるの? あんたは社会の益とやらのために何をしてやれるっていうのよ」

彼は相変わらずの仏頂面で、ずけずけと人情に欠け過ぎた物言いを続けている。
まるで一昔前のロボットのようだと思った。下手な夢物語を具現化したような存在を、あたしは嗤ってやった。
最近の人工知能ならもう少し人の想いを慮る機能が備わっているはずだ。
けれども、その長いワカメの間から覗く小さな口が零したたった一言によって、あたしはその「ロボット」「下手な夢物語」という形容を後悔することになってしまう。

「何でも」

「……」

「僕にできないことはないはずです。そういう風に造られているので」

親友の寝姿が脳裏に浮かび、べとべととした気持ちの悪い粘着性をあたしの髄膜に残して消えた。
目の前の彼が紡いだ言葉はまさに、彼女の夢見た概念の世界の登場人物があっけらかんと口にしそうなことであり、
そうした非現実で不可思議で不気味なことを、さも「当然」であるような平然とし過ぎた仏頂面で明かしてくるその姿に、あたしは苛立ち、憤り、そしてこの上なく恐れた。

今、彼女の夢見た概念の世界が、一人の生き物の形を取ってあたしの目の前にいる。

彼に冗談を言うセンスが備わっていたならどんなにかよかったろう、と思う。
大袈裟なことを口にしてあたしをこのように怯ませようとしているだけなのかもしれない、とも思いたくなってしまう。
けれど「そうではない」とあたしの勘が告げている。敗北の靴音がこんなにも近くに聞こえる。
それは「現実」に生きたあたしの敗北する音であり、「概念」に眠った彼女の勝利する音である。彼女の勝利の証が今、此処に在る。

彼女は本当に「超高校級の夢想家」になってしまったとでもいうのだろうか。
馬鹿げている。そんな恐ろしいこと、そんな悔しいこと、そんな寂しいことが、あっていいはずがない。

2019.7.10
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