B2-10

「待ち合わせ場所は何処なの?」

「希望ヶ峰学園だよ」

苗木は少しばかり得意気な表情でさらりと、今はないはずの学園の名前を口にした。
まさかこの男は、その物騒なところにあたしを案内しようとしているのだろうか。あんな場所、今はクマと荒くれ者の拠点にされていてもおかしくないというのに。
けれどもそうしたあたしの動揺と憤りを読み取ったのか、彼は苦笑しながら首を振った。

「希望ヶ峰学園は今、再建しようとしているところなんだ。霧切さんや他の皆と一緒に頑張っているんだよ」

ああ、それであの得意気な顔か。あたしは納得しながら「へえ、そうなの」と、まるで興味のないように言葉を濁してやった。
けれども声音を誤魔化すことができても、心臓に嘘は吐けない。
目の前で爆発が起こっても人の腕が吹っ飛んでも、暴れることのなかったあたしの臓器は、
希望ヶ峰学園という単語と、その場所が蘇ろうとしているという、たったそれだけのことにひどく痛みを覚え、張り裂けそうになってしまっていた。

「……」

何の才能も持たないあたしが、……いや、正確には「何の才能もないと信じ切っていた」あたしが、希望ヶ峰学園への入学を希望した理由は二つある。

一つは、簡単だ。あたしの両親が盲目的にあの学園を信仰していたからだ。
別にあたしの両親が異常だったという訳ではなく、この国において「希望ヶ峰学園」とは「勝ち組」の象徴であり、
「希望ヶ峰学園を卒業すれば一生の成功が約束される」という噂が、あらゆるところでまことしやかに囁かれているのが常であった。
それ故に、そこそこお金を稼いでいたあたしの両親は、その財産のほとんどを希望ヶ峰学園の入学金に充てて、あたしをそこへ入れようとしたのだった。

もう一つの理由は、あたしの親友が希望ヶ峰学園からの招待状を受け取ったからだ。
彼女の家はまったくもって平凡なところで、両親も彼女を希望ヶ峰学園に入れようなどとは思っていなかったようである。
彼女は家から電車に揺られて30分程度のところにある、大きな川の傍にある公立の高校を受験するつもりだった。
あたし達は、その高校に入るためにそれなりに勉強を重ねていたのだ。
その矢先に、希望ヶ峰学園からの招待状を受け取ってしまい、彼女は散々悩んだ挙句、大きな川の傍にある高校を捨て、人生の成功を約束されに行くことになったのだった。
……もっとも、折角受け取ったこの招待状が、彼女の場合、ひょんなことから「なかったこと」にされてしまったのだが、この話はまた機会があればすることにしよう。

両親の強い希望。あたしの親友が希望ヶ峰学園に呼ばれたこと。
この二つさえ揃えば、あとは簡単だった。
大して興味もなかった希望ヶ峰学園について、調べて調べて調べ尽くして、
その「小さな町」とでも呼べそうな隔離施設で過ごすことの魅力を、あたしの頭に刷り込むように覚えさせて……。
そうしているうちに、あたしは彼女と一緒に目指していたはずの「川の傍にある公立の高校」への執着を、綺麗さっぱり失くしてしまって、
すっかり「希望ヶ峰学園に入る」という頭になってしまって、それなりに……心を躍らせさえ、したのだった。

けれども先程話した通りだ。彼女はひょんなことから「入学できなく」なってしまった。
代わりにあたしは予備学科の面談時に才能を見出され、無償であの学園に招待される身分となった。
まるで、彼女の役を奪ってしまったかのような、あまりにも唐突で劇的な立場の変化にあたしは眩暈を覚えた。
それでも、あたしは行かなければならなかった。
「川の傍にある公立の高校」の願書提出はとっくに締め切られていたので、あたしの進学先はもう「そこ」しか残っていなかったのだ。

勿論、希望ヶ峰学園はいい場所だった。まるで小さな町であるかのような完璧な場所で、好きなことを学び、好きなことをして過ごすのはそれなりに楽しかった。
けれども、そうして学園での生活を謳歌するあたしの隣には、彼女の姿がない。彼女がいない学園生活には、張り合いがない。
そういう訳で、あたしはあの場所で、なかなか「本気」というものを出すことができずにいた。
つまるところ、あたしは寂しかったのだと思う。彼女のいないあの場所で「努力」をしたって虚しいだけ、などと、駄々を捏ねていたのだと思う。

「これ、貴方のものでしょう」

コトン、とあたしの席に何か角張ったものが置かれる気配がした。
慌てて顔を上げれば、そこには数日前に鞄の中から消えてしまった愛読書が、何食わぬ顔で第三者の手に添えられていた。
あたしの本から指を離してほしい、などと思ってしまったけれど、その細く白い指がなければこの愛読書はあたしのところへ戻ってこなかった訳で、
……そう考えると、あたしはやはりこの手を、そしてこの声の主を冷たくあしらうべきではないのだろうと思い直し、そっと顔を上げた。

「……」

ああ、だから乾燥ワカメを水に戻すときには量に気を付けなさいって言ったのに。

笑い交じりのそんな声が聞こえた気がした。それは確かあたしが、彼女と一緒に味噌汁を作る際に呆れながら言い放った一言であったはずだ。
乾燥ワカメは一見、小さくてしわしわの頼りない姿をしているけれど、水に晒すと一気に化ける。水分を吸い込んだワカメはとんでもなくその質量を増すのだ。
それを知らないまま、2人分だからこのくらいだろうとボウルの中に乾燥ワカメを放り込んだ親友は、15分後、絶望することとなった。
世界の終わりだ、といった風の表情をする彼女がおかしくて、あたしはケラケラと笑いながら彼女の大失敗を窘め、からかい、慰めたのだった。

「……僕の顔に何か付いていますか」

「……ええ、付いているわ。立派なワカメが」

「ワカメ?」

彼は首を傾げた。長い、長すぎるその黒が首の動きに従うように揺れた。
その黒の向こう側、白い肌に埋め込まれた二つの紅い眼球が、あたしを訝しむように細められていた。

彼女が、量を誤り増やし過ぎてしまったワカメ。ボウルに山盛りになったそれを抱きかかえ、泣きそうになっていたあの横顔。
結局、二人では到底食べきることができなくて、互いの家族にも手伝ってもらうことになったことを、覚えている。
あのワカメを思いっきり引き伸ばしたら、もしかしたら、これくらいの髪の長さになってしまうのかもしれなかった。

まるで、彼女のささやかな「罪」を被って現れたようなその見た目に、あたしは少しばかり嬉しくなってしまった。

「乾燥ワカメを水に戻すときは量に気を付けなきゃいけないのよ。知らなかったの?」

だから、このようなことを口にしてしまったのだろう。
まるで彼女が、あたしがこの学園生活を一緒に楽しみたかったその相手が、現れてくれたように思われてしまったから、
彼女に似合わない仏頂面と、彼女の罪の証であるワカメを擬人化させたような風貌で現れたこのクラスメイトに、とても愉快な心地を抱いてしまったから、
……だからあたしは、初めて会話をする相手に示すべき礼儀だとか、この学園では誰とも無駄な言葉を交わさないようにしようとかいう個人的な主義だとか、
そういったものの一切を忘れて、まるで幼い頃に戻ったかのように、笑ってしまったのだ。

「……貴方がとても失礼なものを僕に見ていることは理解しました。どうやら貴方は今、僕が手にしているこの本がどうなっても構わないらしい」

「あはは、冗談じゃないわ。その本は借り物なの。早くこっちに渡してくれる?」

渡して、という懇願であったにもかかわらず、あたしはさっと手を突き出して彼の右手からその本を奪い取った。
有無を言わさぬ手さばきに彼は益々その表情を険しくして、そのワカメに覆われた頭の中で叱責の文句でも編んでいるのか、その状態のまましばらくじっと黙していた。
あたしは椅子から立ち上がることもせず、机の上に肘を付いた体勢で笑いながら彼を見上げた。
さて、このおかしな青年はあたしの拙い暴言に対してどのように切り返してくるのだろうと、そう考えれば少しだけわくわくしたのだった。

それにしても、彼は誰なのだろう。

あたしの在籍している予備学科のA組に、このような強烈な髪型をした人間がいた記憶はない。
いくらクラスメイトとろくに話をしない人間であったとはいえ、流石に1年近く同じ教室に押し込まれていれば顔くらい覚える。
ワカメを纏ったようなその強すぎる個性は、予備学科ではなくむしろ「本科」の連中を彷彿とさせたけれど、彼が本科の生徒ではないことはあたしの記憶が雄弁に語っていた。
超高校級の称号を貰っているあたしに、本科の生徒は同族意識でも持っているのか、親しげに話しかけては、遊びや食事に誘ってきていたのだ。
ただでさえ数の少ない本科、その生徒たちの顔を把握するのにそう時間はかからない。この黒いワカメの姿は、本科にはなかったと断言できる。

……そういった具合に、あたしの記憶のどこを探っても、つついても、ワカメを彷彿とさせるその長い黒髪や、白い肌に埋め込まれた赤い眼球を見つけることはできなかった。

あんたは誰? 何組なの?
そうしたことを愚直に尋ねることは簡単にできる。けれどもそうした問いを積み上げている時間はどうにもなさそうであった。
この乾いた目をした青年、親友のささやかな罪を擬人化したような姿の彼は、
本を届ける、という役目を果たした今、すぐにでもあたしの前から立ち去ってしまうかもしれないと思ったのだ。

あたしに与えられたチャンスはたった一度きり。
この一度の質問、一回の問い掛けで、この不思議な奴を引き留めることができなければ、あたしの負けだ。
心臓が不気味な揺れ方をしていた。これは不安だろうか、緊張だろうか、恐怖だろうか、それとも、もっと幼く覚束ない何かだろうか。
分からなかった。今は分からなかった。そしてきっと、彼がこのまま立ち去ってしまうなら、この不気味な心音の所以は一生、分からないままだ。

「どうしてこの本の持ち主があたしだって分かったの? 休み時間に本を読んで時間を潰している人間なんて、あたしの他にも沢山いるでしょう」

英語で書かれたタイトルのそれを、表紙の面を見せびらかすように彼の眼前に突き出して笑う。
すると、険しく細められていた赤い目がぱちりと見開かれた。先程までは鋭利な三日月の様相を呈していたのに、今ではもう、林檎のようだ。
白い砂浜の上に転がる、毒々しい色をした二つの丸い林檎。けれどもその林檎はすぐに欠けた。赤く美しいその円は、睫毛の奥に隠れてしまった。

「ハジメの情報を参考にしました。この洋書は貴方がいつも読んでいたもので間違いないはずです」

「ハジメ? ……そんな知り合い、あたしにはいないわ」

「ええ、そうでしょうね。貴方はあまり他者と話をしない人間のようだ。ですが彼は貴方のことをよく見ていたんですよ。
超高校級の才能を見出されながら本科への在籍を拒み、予備学科のクラスに席を置く貴方のことを、彼はずっと妬んでいたものだから」

先程の丸い林檎よりもずっと細い瞳、けれども険しく細められていた頃よりは幾分かやわらかさを帯びたその赤に、あたしが映っている。

「よかったですね、この本を拾ったのが僕で。ハジメならきっと、貴方に話しかける度胸を持てないまま、この本を自分のものにしてしまっていたでしょうから」

2019.6.27
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