ミアレシティのとあるレストラン。少し暗めの明かりが四角いテーブルをふんわりと照らしている。テーブルクロスはお砂糖とも紙とも違う優しい白をしている。
そうしたもの全てに目を奪われながら歩を進めていると、隣の彼が一歩先へと踏み出して「どうぞ」と当たり前のように私の側の椅子を引いた。
身の竦む思いで「すみません」と紡ぐ。彼が僅かに微笑みながら首を傾げる気配がする。
彼のエスコートはあまりにも優雅だった。このような扱いを受けたことがなかったため、私はただただ困惑するほかになかった。
……というよりも「それ」どころではなかったのだ。
強烈な憧憬と淡い恋慕を抱き続けてきたその相手が今、私と一緒に食事をしようとしている。その事実を認識するのがやっとという状況だった。
そんな私が、椅子を引いてくれた彼に対して「ありがとうございます」などと言えるはずもなく、結局、いつもの慣れた言葉を紡いでしまうのだった。
やって来たウエイターの男性は、グラスに水だけ入れて去って行ってしまった。
てっきりメニュー表なるものを渡されるのだと思っていただけに、私は少し戸惑ったけれど、そんな私の表情を読んだかのように、向かいで彼が苦笑しながら口を開いた。
「昨日、二人分の料理を先に注文しておきました。ここのコース料理は要予約とのことでしたので」
「あ……そうだったんですね。私、何も知らなくて、すみません」
「いいえ、先に話しておくべきでしたね」
そう言って笑う彼、ズミさんの顔は、おそらくリーグにいる時と変わらないのだろう。
彼の顔を見ることができない私には、それを確認する手段がないけれど、彼は私とは違うのだということくらいは私にも確信できた。
彼は私のように、恋人になってしまった相手と顔を合わせることに緊張したり、嫌われてしまわないかと恐怖したりすることなど、きっとないのだ。
ズミさんは私にとってそうした人間だった。そして、それはこれからも変わらないのだろうと思われてしまった。
「此処に来たことはありますか?」
「……いいえ」
「それはよかった。創作料理で有名なレストランらしく、一度行ってみたいと思っていたんです。
貴方の好みを尋ねず申し訳ないと思っていたのですが、初めて来る場所なのであれば、一緒に楽しめそうですね」
……彼が嬉しそうな顔をしたのを気配で感じ取った私は、同じように笑おうとしたけれど、やはりそんな器用な真似ができるはずもなかった。
彼には本当に申し訳ないが、これからどんなに美味しい料理がこのテーブルに運ばれてきたとしても、私はその味を正しく理解することができないだろうと思った。
何故なら、きっとこの、私が持て余しているこの想いは、五感を奪う程の悪質な代物であるのだから。私はそうした、厄介な想いを抱えてこの場にいるのだから。
視界が霞み、彼の声に身が竦み、皮膚が粟立ち、料理の味や香りすら解らなくなる。これが「恋」だなんて未だに信じられない。
これは、罰だ。どう足掻いても釣り合わない相手に、雲の上の存在である彼に、憧憬と恋慕を抱いてしまった、私への罰なのだろうと思った。
私は今、恋というものに裁かれているのだ。
ああ、なんて滑稽なのだろう。そんな風に自分を分析し、聞こえないように細く息を吐けば少しだけ楽になれてしまった。私はそういう人間なのだ。
ひたすらに乾く喉に、水を少しずつ流し込んで潤していた。
グラスの中の水が7割程無くなったところで、ズミさんがウエイターを呼び止め「彼女に水を」と紡いでくれる。
彼はテーブルの向かいに座った私のグラスの減り具合にまで、気を遣うことができるのだ。自分のことで精一杯であるみっともない私に、途方もない虚しさを覚えた。
「ありがとうございます」ではなく「ごめんなさい」と返す私を、しかし彼は咎めなかった。「気にしないでください」とだけ紡がれる彼に、私は心から安心していた。
ごめんなさいと紡ぐことは驚く程に容易いのだけれど、ありがとうという言葉は私には難易度が高すぎたのだ。
そうして沈黙を貫いていると、彼には私が何か悩んでいるように見えたのかもしれない。小さく笑って、口を開いた。
「どうぞ、何でも知りたいことを尋ねてください」
しかしそう言われても、口下手な私がすぐに質問を思い付けるはずもなかったのだ。
珍しい太さと幅のパスタをフォークでくるくると絡めていた私は、その手をぴたりと止めてひたすらに何か言わなければと頭を働かせようと努めていた。
けれど、何かと焦れば焦る程に、言葉というものは私の喉を素通りしてしまうもので、結局、ろくな話題を思い付くこともできずに口を閉ざすしかなかったのだ。
ズミさんは四天王とシェフを兼任しているんですか? とか、どんな料理を作っているんですか? とか、少し考えれば幾らでも思い付くことができたはずだ。
それなのに、この場では何一つ思い付くことができなかったということは、私は頭を働かせていたようで、実は何一つ考えることができていなかったのだ。
この持て余す程に大きく膨れ上がった想いは、私から思考の余地すらも軽やかに奪っていく。酷く憎らしいと思った。そう思ってしまう自分に嫌気が差した。
「では、こちらから先に質問をしても宜しいですか?」
その言葉に、私は迷うことなく即座に頷いた。
見兼ねた彼が出してくれた助け舟らしきものに、私は安堵の溜め息を吐いたけれど、しかしその息も次の言葉で不自然に止まってしまうことになる。
「シェリー、貴方はどうして私を好きになってくれたのですか?」
「……」
「恥ずかしい話ですが、私は今まで、そうした経験がなかったもので。人を好きになるということがどういう経緯の元に為されるのか、まだよく分かっていないのです」
頭を殴られたような衝撃が、私の心臓を乱暴に揺らしていった。
私よりも一回り程年上であるズミさんに、恋をした経験がない? それはあまりにも信じがたいものだったけれど、彼がそんな質の悪い嘘を吐くような人には思えなかった。
彼の言葉は正しいのだろう。彼に恋慕の情を抱く人は何人もいたのかもしれないけれど、彼自身がそうした想いを抱いたことは、未だかつてなかったのだ。
きっと彼は、そうした恋慕の仕組みをよく分かっていない。だからこそ、私が彼を好きになった経緯をこうして知りたかっているのだ。
けれど私は、どうしてもその問いに答えることができなかった。だって、分からないのだ。
私の、抱えきれない程に膨れ上がったこの想いが、憧憬と恋慕によるものだということは分かっていた。けれど、その想いの理由が何処にあるのかは分からない。
これは私の想い、私が抱くに至った想いであるはずなのに、その経緯を言語化できないし、理由だって何処にも見つからない。
私はどうして彼を好きになったのだろう。他の誰でもない彼に、憧憬と恋慕の情を抱いた理由は何処に在るのだろう。
巡らせたはずの思考は、しかし答えを導き出してはくれなかった。ずるずると沈黙を引きずる私に、ズミさんは苦笑した。
「!」
その瞬間、背筋をさっと冷たいものが駆け抜けていった。
いけない、このままではいけない。私は理由もなしにズミさんを好きになった訳ではないのだ。ただ、その理由を求められても答えられないだけで、この想いに嘘はないのだ。
けれど、私の沈黙を彼はきっとよくない方向に解釈している。ただなんとなく焦がれたのだと、そう思っている。それだけは避けたかった。
だから今は、私の緊張だとか恐怖だとかいうものをかなぐり捨てて、たった今生じたであろう誤解を解かなければならなかったのだ。
「あの、違うんです。理由がないわけじゃないんです。私、上手く答えられなくて、理由はきっと沢山あるのに、どうしても言葉にできなくて、でも、それでも……!」
カラン、という澄んだ音を立てて、ズミさんの右手に取られていたフォークが皿に落ちた。
彼の青い目は大きく見開かれていて、そこに驚愕の色を読み取ることは容易かった。その整った唇が何かを紡ごうと不自然に開きかけていた。
そこまで考えて初めて、驚くべきことに気付いた。
私は顔を上げ、彼の目を見て言葉を紡いでいたのだ。
恐ろしい行動に出てしまったのだと気付いたけれど、どうしても私は、彼の目から視線を逸らすことができなかった。
だって、今、彼の目を見て話ができないのだとしたら、そんな私に今、この場に彼といる資格などあるはずがないのだ。
彼に自分の想いも満足に、誤解なく伝えることのできないような私が、彼との時間を共有していいはずがない。ここで臆していたら、きっと私はずっとこの想いに許されない。
「……私は」と再び口を開いた私を、しかし彼はやや大きな声音で「言わないで」と遮った。
唐突な拒絶に私は驚き、困惑したが、それに反して彼はとても穏やかな微笑みを浮かべていたため、益々訳が解らなくなって動揺する。
気のせいだろうか、彼の白い肌が、少しだけ赤く見える。
「申し訳ない。あまりにも無粋な質問をしてしまいました。先程の言葉は、忘れてください」
「え……」
「恋とは、自覚して飛び込んだ先に見出すのではなく、ふとした一瞬で落ちたしまったと知ることから始まるのですね。
そのような想いに理由を求めるなど、不作法なことをしました。……許して頂けますか?」
私は弾かれたように首を縦に振っていた。
彼を許さないなんて、そんなこと、できるはずがない。けれど、どうして急にそんなことを言ったのだろう。
二転三転する彼の言動の裏に隠れた心理をどうしても読み取ることができず、首を傾げそうになっていると、その疑問すら読み取ったのか、彼はその青い目をすっと細めて呟いた。
「私も今、そうでしたから」
彼の言葉の意図することが、頭の弱い私にはまだ理解できなかった。今度こそ見える形で首を傾げてしまった私に、彼は肩を震わせながら先程の言葉を更に紐解く。
「初めて、私の目を見て話をしてくれましたね」
「……」
「貴方の色を今、ようやく知ることができました」
そうして初めて、私は、彼の肌が僅かに赤くなったように感じていたそれを、気のせいなどではなかったのだと確信するに至ったのだ。
「怖いですか」と続けられたその問いに激しく首を振れば、彼はその射るような青い目を微笑みのままにすっと細め、「よかった」と小さな息と共に零した。
そのテノールの声音があまりにも優しい響きを持っていて、息を飲む。その声に滲んだ安堵の感情は、私のそれに酷く似ている気がした。
「私は、貴方の思うような立派な人間ではありません。ことに恋愛に関しては全くの初心者です。そのつもりがなくとも、貴方を傷付けてしまうことだってあるかもしれない。
……シェリー、それでも貴方は、私の恋人でいてくれますか?」
その、とても複雑な色を纏った彼の表情に、強烈な既視感を覚えた。おそらく昨日の私は、こうした表情をしていたのではないかと思えたのだ。
それでもやはり彼はその青を細めて笑っていて、ああ、これが彼と私の差であるのかもしれないと思いながら、私は迷うことなく、頷いた。
先程の彼が落としたフォークの音が、鼓膜に焼き付いてどうにも消えてくれなかった。
2015.8.16
(始まりを告げる音)