A2:Love like punishment

「人と、話すことが苦手なんです」

私から紡げる言葉は、それだけだった。ズミさんは私の懺悔に大袈裟な反応を示さず、ただ小さく頷くだけに留めおいてくれた。
その間も、私の心臓は割れそうな程に大きく震えている。この動悸を治める方法は、彼の前から立ち去ることだけだ。
そう分かっているだけに、この、彼の傍にいることを余儀なくされている状況では何も解決しないということも嫌という程に悟ることができた。
この心臓の震えを失くそうと思うなら、直ぐに目の前の彼から離れなければならないのだ。この部屋を出て、別の四天王のところに挑みに行くべきなのだ。
そうすればこの動悸は収まる。私の心を離れて勝手な動きを見せる体も、いつもの姿に戻ってくれる。けれどそれを、目の前のこの男性は許していない。

俯いたまま、私は足元を流れる水に視線を落とし、やっとのことで先程の一言を紡いだのだ。
それに対して彼がどんな表情をしているのだろう。そんな簡単な確認すらもできなかった。
同じ部屋にいるだけでこんなにも動揺している私が、彼の顔を直視することなどできるはずもなかったのだ。

「その性分では旅をするのも一苦労だったでしょう。それなのにこんなところまで、よく頑張りましたね」

「……」

ありがとうございます、と返すことすらできなかった。
彼にそう評価されたことはとても嬉しかったけれど、彼は大きな勘違いをしている。彼が私に下してくれた評価は、初めから間違っている。
私は確かに人と話をするのが苦手だ。人と目を合わせることが苦手だ。けれど必要があれば人に話し掛けたり、ジムリーダーにポケモンバトルを申し込んだりすることはできる。
知らない人と話をすること、それは確かに不安と緊張を伴うものだったが、それでも「これ」程までではなかった。

私は今の今まで、人に距離を詰め寄られたくらいで恐怖に足が竦むことも、手を握られたくらいで泣きだすようなこともしたことがなかった。
そんなこと、本来なら「あり得ない」ことだったのだ。
けれど、そのあり得ないはずのことが、ズミさんを相手にした場合は起こっている。そのことに私は驚き、困惑し、恐怖を覚えた。

この人に会いたいと思っていたはずだった。少しでも話ができればと願っていたはずだった。
それなのに、どうしてこんなにも苦しいのだろう。どうして私は憧れの人の目の前で、みっともなく嗚咽を零しているのだろう。

「では、私で練習してみますか?」

「え……」

「貴方が臆さずに人と話をすることができるようになるまで、私がその練習台になりましょうか。
貴方のような強い人が、定期的にリーグに挑みに来てくださっているせめてものお礼です。私はカウンセラーではありませんが、少しはお役に立てると思いますよ」

「む、無理です!」

思わず声を荒げていた。私はいよいよ彼に申し訳なくなって、俯いた目をぎゅっと瞑った。
どうしようもなく失礼な発言をしていることは分かっていた。けれど、できないのだ。彼と話などできるはずがないのだ。ましてや彼を「会話の練習台」にすることなど、不可能だ。

「ズミさんじゃ、駄目なんです」

だって「これ」は、貴方にだけに生ずるものなのだから。
貴方と顔を合わせれば合わせる程に、私は駄目になってしまっているのだから。

「……ごめんなさい」

「……」

紡ぎ慣れた謝罪の言葉を口にすれば、少しだけ落ち着くことができた。
カロスにやって来た時、私が自己紹介と挨拶の次に使いこなせるようになった言葉がこの「謝罪」だった。
私は事あるごとに「ごめんなさい」と繰り返し、相手の機嫌を損ねないように、相手との距離を詰めさせないようにと、逃げるように生きてきた。
最早、癖のようになってしまったその言葉は、いつものように私の呼吸を楽にしてくれた。小さく、聞こえないように息を吐けば、また少しだけ落ち着けた気がした。
けれどもその僅かな平穏は長くは続かなかった。彼がずいと身を乗り出して、再び私の手を取ったからだ。

落ち着きを取り戻しかけていた私の心臓が、再び信じられないような速度で揺れ始める。
けれど、振り払うことはできなかった。男性の力というものは私が思っていたよりもずっと強く、私は恐怖に任せて振り払うこともできなかったのだ。
止まっていた涙がもう一度溢れ出そうとしていた。けれどもそれを、彼の驚く程に優しい声音が、止めた。

「幾つか、質問をしても宜しいでしょうか」

叱責の文句ではなく、質問が降ってくる。
何を尋ねようとしているのだろう。そちらの疑問に意識を取られ、恐怖が影を潜めたその瞬間、私は反射的に小さく頷いてしまっていた。
彼はその言葉通り、複数の質問をテンポよく掲げた。

「今、緊張していますか?」

「……は、はい」

「私と話をすることが、怖いですか?」

「……少し」

まるで、何かの診察を受けているようだ。先程までと同じ声であるはずなのに、私はもう震えていなかった。
質問を繰り返すことで、私の状況を分析しようとしているのだろうか。普通ならこうした複数の質問にはそうした意味があるのだろうけれど、何かが少しだけ違う気がした。
彼は、何かの確信の元に言葉を紡いでいるような気がしたのだ。

「私のことが、嫌いですか?」

「いいえ」

私はすぐに否定し、首を振った。
違う、彼のことが嫌いだから泣き出した訳でも、もう二度と彼に会いたくないという思いで、先程の彼の申し出を拒絶した訳でもない。
だって、私は、彼のことが、

「では、私の恋人になってくれますか?」

……だから彼の言葉に、心臓が止まってしまったかのような錯覚を覚えたとして、私の涙が驚愕にぴたりと止まってしまったとして、それはきっと当然のことだったのだ。

息をするような自然さで紡がれたその一言は、果たして私の都合のいい幻聴だったのだろうか。
当たり前だ。だってこの状況で彼がそんなことを言うなんて、どう考えてもおかしいのだ。
私はきっと、思い上がっているのだ。彼が優しい言葉を掛けてくれたから、自惚れ過ぎているのだ。

けれど彼は続けた言葉で私のそんな仮説を否定する。自惚れでも思い上がりでもなく真実だと、言い聞かせるように音を重ねる。

「今ここで、貴方に「付き合ってほしい」と言えば、貴方は「はい」と答えてくれますか、シェリー

「……ど、どうしてですか?」

「……どうして、とは?」

「だってズミさん、私のこと、好きじゃありませんよね」

私とて、そこまで鈍い人間ではないのだ。これが私の片恋であることくらい、知っていた。
ズミさんはいつだって嫌な顔一つせず、私を迎えてくれるけれど、それはリーグの四天王としてであって、そこに彼個人の感情は含まれていないはずだったのだ。
たった今までそうであったはずの状況は、この一瞬で覆ってしまうようなものでは決してなかったはずだ。

私は驚愕と混乱に声を震わせた。視線は彼の手に落としたまま、私はやはり彼の顔を見ることができなかった。
深く被った帽子が、私の腕に薄い影を落としていた。

「そうですね、確かにこれまでの私は、貴方に「好き」という感情を抱いてはいませんでした」

「……」

「ですが、貴方がその小さな身体に持て余している程の想いが、貴方を震えさせ、涙すら零させてしまう程の感情が、他でもない私に向けられていると気付いてしまった。
……貴方を愛しく思う理由としては、それだけで十分ではないでしょうか」

私には難しすぎる理論を語り、彼は笑った。深く俯いたままの私にさえ分かるように、彼ははっきりと、微笑んだのだ。
そして彼は、その笑顔のままに私の頭へとそっと手を乗せた。

「貴方のことを教えてください。そして私を見極めてください。
貴方のその、その身に持て余す程に大きな想いを向ける相手として、本当に私が相応しい人間であるか、これからの付き合いで貴方が判断してください」

……おかしい。
何か、途方もなくおかしなことが起こっている。

驚愕と恐怖、混乱と動揺、それらの中に、しかし私は確かな安堵と歓喜を覚えていた。
ああ、私はこの人に嫌われてはいなかったのだという安堵と、みっともなく泣き続けていた私を、他でもない彼が選んだのだという、信じられないような事実に対する歓喜。
抱えきれない程の感情が、一度に私の中に押し寄せてきていた。心臓はやはり張り裂けそうな程に大きく揺れていた。

彼はどんな意図で私を選んだのだろう。大人である彼の考えていることを、私はどうしても理解することができなかった。
けれど、それでも私は、たった今、溢れる程の感情の中に確かに存在した、歓喜の情に正直になろうと思ったのだ。

「よろしく、お願いします」

今度こそ、彼が小さく微笑んだ気配を肌で感じ取ることができた。彼は私の手を強く握り締め、同じ言葉を返してくれた。
私達の不思議な関係は、こうして幕を開けた。

2015.8.15
(まるで罰のような愛)

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