B2:私の待ち惚けのお供に

秋から冬にかけて、ポケモンリーグはとても忙しくなる。
新人のポケモントレーナーは大抵の場合、春にポケモンを貰って旅に出るのだけれど、
そのトレーナーが順当に旅をしたとして、およそ半年から1年程度でひとつの地方を巡り終える計算になる。
そうして、秋や冬頃に、彼等はポケモントレーナーの最高峰であるポケモンリーグの門を叩くのだ。
そこに至るまでに挫折したり、別の道を選んだりしたトレーナーも少なくなかったけれど、それでもリーグへの訪問者はかなりの数に及んでいるという。

そんな訳で、最近のズミさんは朝から晩まで、四天王という職に拘束され続けていた。
毎日、疲弊しきった表情で帰宅する彼を、私は明かりをつけて出迎えることしかできない。
こればかりは仕方のないことなのだと、彼は苦笑と共にそう告げていたから、私も文句を言うことなく、お疲れ様ですと労いの言葉をかけるだけに留めておいた。

「家のことを全て押し付けてしまい、申し訳ありません」

今日も今日とて、朝早くから荷物を纏めていた彼は、私の方を振り返りそんなことを言った。

「いいえ、これくらいさせてください。もしよければ、夜食を用意しておきましょうか?」

「……シェリーが作るのですか?」

「いいえ、いつものお店で買ってきます」

その言葉に彼は声を上げて笑った後で、帽子を被っていない私の長い髪を一房掴み、指を広げてその間をするすると通した。
じゃれ合うようなその仕草にクスクスと笑いながら、ああ、彼は呆れているのかしらと少しだけ危惧する。けれどもう、そのことに恐怖したりはしなかった。

分かっている。「夜食を用意しておく」というのは、彼の代わりに外出し、近くのコンビニで適当なものを揃えることを指すのでは決してない。
私がキッチンに立って料理をして初めて「夜食を用意した」と言えるのだ。お酒のつまみを買い足すような感覚で夜食を買うことはきっと、用意の内に入らない。

けれど私にとって、ズミさんに食べてもらう料理を用意するというのは、即ちそういうことを指していた。
私がキッチンに立って悪戦苦闘するよりも、ずっと簡単に、ずっと美味しい代物が手に入るのだ。そちらの方がいいに決まっている。

私は決して味音痴ではないけれど、それでも、料理を生業の一つとする彼にはどう足掻いても敵わないのだ。彼の満足する味を生み出すことなど不可能に近い。
だからこそ、嗜好品としての趣が強い夜食くらいは、それなりのところでそれなりのものを調達して来ようと決めていたのだ。
彼は事あるごとに「貴方の作ったものなら何でも構いませんよ」と言ってくれていたけれど、私のその強情さにとうとう彼の方が根負けした。
今では、こうして彼の夜食を店で調達してくる私を黙認している。

「今日の朝食だって美味しかったのですから、もう少し自信をもってはどうです」

「パンをトースターに入れたりフルーツを切ったりするだけですから、美味しいのだとすれば、それは食材のおかげです」

「まったく、強情ですね。貴方のそういうところは昔から変わらない」

まるで私と何十年も一緒に居たような言い方をする彼だが、私と彼が出会ったのはほんの2年前のことだ。
あれからの嵐のような目まぐるしい心の変遷を置いた月日を「ほんの」と称するのは不適切であったのかもしれないけれど、私は、その形容を躊躇わなかった。
ほんの、2年前なのだ。私はほんの2年では満足できない。満足できないように、させられてしまった。
……させられた、なんて、こちらもこちらで随分と卑怯な言い方だと思う。分かっている。そして、構わない。

2年前も決して低くはなかった私の背は更に伸びて、ヒールの高い靴を履けば、ズミさんの顔を見上げることなく話ができるようになった。
それでも彼の方が10cm程高いけれど、あの頃とは全く変わってしまった私の視界は、私の視野をぐっと広げた。
だからこそ、こうして強情で卑屈な私を貫いているのだ。
強情な私でも嫌われないと知ってしまったから。彼は従順な私を好いた訳でも、自尊心を高く持つ私を評価している訳でもないと分かっているから。
だから私は、こうして私のままで笑えている。それは他でもない、彼のおかげだ。

「では、行ってきます」

「はい、気を付けて……行ってらっしゃい」

小さなドアから彼を送り出す。ミアレシティのマンションの一室、今日も私は一人になる。
けれど、その孤独が今は酷く愛おしかった。夜になれば一人ではなくなるのだと、確信していたからだ。

それでも、日付が変わっても玄関から靴音が聞こえないというこの状況は、やはり少しだけ心細かった。
読んでいた雑誌の文字が、睡魔にだろう、ふわふわと揺れ始めた。いけない、と思い直して慌てて雑誌を閉じて、立ち上がった。

トレーナーとのバトルが白熱しているのかもしれない。もしくはリーグの事務仕事のようなものに取り組んでいるのかもしれない。
色々と思考を巡らせるが、どのみち今、私にできることは何もなかった。
大きく伸びをして、さてこの眠気をどうしたものだろう、と思いながら……私は唐突に、彼への夜食として買い込んでいたとあるデザートを思い出した。

「……」

魔が差してしまった私は、ソファから立ち上がり、キッチンへと歩みを進めた。
冷蔵庫を開ければ、透明なプラスチックの容器に入ったそれが、甘い誘惑、と称するに相応しい輝きで私の視界を抉った。
ズミさんに用意した夜食はこれだけではない。彼が好きなチーズも買ってあるし、私が唯一「用意した」と言って差し支えない野菜スティックも、チーズの隣に並んでいる。
けれども私の視線は、チーズでも野菜スティックでもなく、そのキラキラとしたお菓子にのみ吸い込まれていた。

ティラミス。
それは、甘いものをあまり得意としない彼、スーパーやコンビニで出来合いの料理を買う習慣のない彼が唯一、好んで購入しているものだった。

ココアパウダーを多めにあしらったそのお菓子が、透明なカップの中で綺麗な色とりどりの層を為し、私を見ていた。
私も、彼が銀色のスプーンを手に取り、これを食べて静かに笑ってくれる姿を想像しながら、そのお菓子を見つめ返した。
「早く帰ってくるといいね」と、そのお菓子に言われているような心地になってしまった。
笑いながら「そうだね」と声に出して肯定しようとしたけれど、そんな言葉は私の大きな欠伸が飲み込んでしまった。

……帰りを待ちたい。けれども眠い。このお菓子はとても美味しそうだ。ゆっくり食べていれば十数分、時間が稼げる。その間、眠らずに済む。彼の帰りを、待っていられる。

彼の帰りを待つために、彼の好きな洋菓子に手を付けるという所業は、どう考えてもよくないことであった。
けれども、眠さと心細さに正常な思考をする力を殺がれた私は、別にいいのではないかしら、などと、思ってしまったのだ。
だって予想していた以上に帰りが遅いのだ。何か綺麗なものを見ていないと眠ってしまいそうなのだ。私のせいではない。私は、悪くない。
……私はいつの間にか、こんなにも、私の都合の良すぎる言い訳を即座に考えられる程度に、悪い意味で賢くなってしまっていたらしい。

そうしてそのデザートへと伸びた指が、しかし次の瞬間、あらぬ方向から飛んできた手によって遮られた。

「!?」

驚きに心臓がぎゅっと締め付けられるような痛みを覚えた。
はっと振り向けば、いつもの顔が楽しそうに微笑んで私を見下ろしていて、いつの間に帰って来ていたのだろう、と私は慌てた。

「あっあの、気付かなくてごめんなさい。帰っていたんですね」

「ええ、只今戻りました。もう眠っているかと思って静かにドアを開けたのですが、予想が外れてしまいましたね」

ですが、おかげで面白いものが見られました。そう続けて彼は冷蔵庫の中のそれをひょいと取り上げる。
ズミさんのために購入したのだから、彼の手に渡るのは当然のことだ。
しかし、つい先程まで私が食べようという意志を持ってそれに手を伸ばしていただけに、私は途方もない喪失感を持て余すこととなってしまった。
異様な程に喉が渇く。思わず「あ……」と声を上げてしまった私に、いよいよ彼は肩を震わせて笑い始めた。

「どうしました? このティラミスは私に用意してくださった夜食なのでしょう?」

「も、勿論です。勿論ですよ!」

「……なんて、冗談ですよ。帰りが遅くなってしまったお詫びに、これは貴方に差し上げます」

ズミさんは笑いながら、私の手にティラミスを握らせた。
冷蔵庫に入れられていたせいで冷え切っていたそのデザートが、羞恥に熱くなっていた私の火照った身体にはひどく心地良かった。
残念なことに、譲ってくれたその厚意に、「いえ、そんな」と断るだけの礼儀を私は持ち合わせていなかった。
即座に「ありがとうございます!」と返してしまった私に、今度こそ彼は声を上げて笑った。
そこには小さなティラミスに執着する私への滑稽さの他にも、また別の感情が込められている気がして、私は僅かに首を捻る。
そんな私の疑問を読んだかのように、彼はクスクスと笑いながら口を開く。

「眠い中、私を待っていてくれたのでしょう? 睡魔に負けるまでの時間を稼ぐためにこれを食べようとした。違いますか?」

伸びてきた手が私の頭をやや乱暴に撫でる。恥ずかしさに顔を真っ赤にした私の背中へとその手が回る。クスクスと笑いながら抱きしめられる。
彼の上着からは秋の匂いがして、ああ、まだ10月といえどやはり夜は寒かったのかもしれないと、彼の冷たい手の温度を背中に受けながら私は思った。

「さて、ティラミスに目がない可愛らしいお嬢さん、少し付き合って頂きますよ。忙しすぎて夕食も食べていないので、少し多めに用意してくれますか?」

私は思わず吹き出してしまった。
可愛らしい、なんて、私にはほとほと似合わないであろう言葉を使って、彼は私を修飾する。そのくすぐったさにもすっかり慣れてしまった。
その身に余る装飾を、素直に喜ぶことができる程には、私は彼と時間を重ねていたのだ。

腕を解いた彼は、そのまま上着を脱いで自室へと歩き出す。
「ワインは、」とその背中に声を掛ければ、言い終える前に「今日は赤の気分です」と返ってきた。

2015.8.16
(2019.2.17 修正)

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