それは、窒息するような息苦しさを伴って現れ、私の時をぴたりと止めた。
時間の理すらも完全に超越してしまったその現象に私は驚き、狼狽えた。そして臆病な私の頭は、臆病な解釈をした。
これは、何か悪い病気なのだと。人とコミュニケーションを取ることが極端に苦手な私が生み出した、恐ろしい幻覚なのだと。
「相変わらず、貴方のサーナイトは強いですね」
「……」
「今日こそは次のポケモンを見たかったのですが、それは次の楽しみに取っておきましょう」
友人から譲り受けたサーナイトの強さは、ポケモンリーグでも遺憾なく発揮されていた。
10万ボルトを覚えた彼女は、ズミさんの手持ちを一人で全員倒してしまう程の実力者だ。
彼は最後のポケモン、スターミーをボールに戻し、その肩を竦めて困ったように微笑む。
私が彼に負けたことは、ただの一度もない。にもかかわらず、私はかなりの頻度でこの場所にやって来ていた。
チャンピオンであるカルネさんのところまで向かい、殿堂入りをした回数はもう10を軽く超えているはずだった。
きっと私の居場所はもう、此処ではないのだろう。もっと高みを目指す必要があると、私はプラターヌ博士やカルネさんによく言われていた。
そのためには、いつまでもこの場所に留まっていてはいけないのだ。
けれど、私の足は何かに誘われるようにいつもこの場所にやってくる。
勝利などほぼ確定しているはずのバトルを挑みに、私は3日と空けず、このリーグを訪れるのだ。
そんな私を、四天王である4人、彼を含めた皆は咎めない。それが唯一の救いであるように感じられた。
「ご、ごめんなさい」
「何故、謝るのです? むしろ、貴方のような強い方がチャンピオンの座に留まらず、このズミに定期的に挑んでくださること、光栄に思っていますよ」
ズミさんは、とんでもない勘違いをしている。実力があるのはサーナイトであって、私ではない。私は、彼のそんな賞賛と評価を受け取るに相応しい人間では決してない。
恐れ多い言葉を紡ぐこの人を、私は直視することができなかった。
上手く口が回らない。きっと顔だって赤くなっている。私は今、どうしようもなくみっともない姿をしているのだろう。
この人に会いたいと思っていた。そのために、今日もこの場所を訪れたはずだった。
彼の何に惹きつけられているのか分からないまま、謎の引力に従うままに私は此処へとやって来たのだ。他の誰でもない、この人に会うために。
それなのに、この人の目を見ることが酷く恐ろしいのだ。何か言わなければと焦り、結局、下手な相槌と謝罪の言葉を重ねることしかできないのだ。
心臓が壊れてしまいそうな程に激しい音を立てて揺れていて、あまりの苦しさに眩暈すら覚え始めていた。
もっとも、このようになるのはズミさんに限ったことではない。
私は誰に対しても、人の目を見て話をすることが苦手だったし、全ての人間に対して、下手な相槌と謝罪を重ねるしか能のない、頭の悪い人間に成り下がるしかなかった。
臆さずに話をすることができる相手など、本当に数える程しかいなかった。私はそうした人間だった。
それでも、私は彼の放つ引力に従い、この場所を訪れるに至ったのだ。
恐怖は慣れる。不安は時間が取り払ってくれる。故に彼と会う回数を重ねれば重ねる程に、そうした恐怖と不安とは薄れていくものだと思っていた。
それが時間というものが持つ、魔法の一つなのだと信じていた。
けれど違った。私がこの人と顔を合わせれば合わせる程に、私の息苦しさと眩暈の強さは増していったのだ。
これはおかしいことなのだと、私は気付いていた。確かに私は人と会話をすることが苦手だけれど、これ程までに苦しい思いをしたことは未だかつてなかったからだ。
私はこの人が恐ろしいのだろうか。この人に恐怖を抱いているのだろうか。それならばどうして、私は今日もこの場所に赴いたのだろう。
此処へやってくれば苦しくなるだけだと分かっているのに、どうして私の足は此処へ向かったのだろう。
私はどうして、この人に会いたいと思うのだろう。私はどうして、この人に私を覚えてほしいと思うのだろう。
私が、私の理解できないところへ走り去りつつあるような気がした。私が私でなくなっていく感覚は恐怖以外の何物でもなかった。
「シェリー、どうかしましたか?」
「!」
そして彼にその名前を呼ばれた瞬間、私の心臓は鈍い音を立てて軋むのだ。
このままでは本当に心臓が止まってしまいそうだと思う。それ程に私の心臓は酷使され続けていた。走った後でもないのに、張り裂けてしまいそうだった。
彼はスターミーの入っていたボールをポケットに入れ、駆け寄って来た。私の顔色は赤から青へと急変する。
そんなことはあり得ないと分かってはいたものの、この心臓の音が彼に聞かれてしまいそうで、どうしようもなく恐ろしかったのだ。
反射的に一歩だけ後退った私に、彼が息を飲む気配がした。……ああ、彼はどんな顔をしているのだろう。私はそれを確認することすらできずに、俯くしかなかったのだけれど。
「ご、ごめんなさい」
そして、謝罪。この言葉は私の十八番だった。
カロスの言葉を勉強しなければいけなかった私が、挨拶よりも先に使いこなせるようになったのがこの一言だった。
その言葉はとても便利で、そう紡げば相手の機嫌は損なわれずに済み、かつこれ以上私の方へと踏み入ることを柔らかく禁じることのできる、とても汎用性の高い一言だった。
にもかかわらず、彼は私の一言に足止めされることなく、止めてくれていた足を再び動かして私に歩み寄ったのだ。
ぱしゃりという水の音が鼓膜をくすぐる。水門の間の床に張られた水に、彼が靴底を付けたのだ。
その音が段々と大きくなる。綺麗な水の波紋と共に彼が歩み寄ってくる。私はその水に縫い付けられたようにその場から動けずにいる。
そして彼は私の腕を、掴んだ。
「!」
どうしよう、恥ずかしい。怖い、怖い。
この人に、嫌われたくない。
そんな拙い思いばかりが先行して、私は彼の手を振り払うことができずにいた。けれどこの至近距離で顔を上げ、彼の顔を見ることもできなかった。
だってあまりにも美しいその顔は、きっと懐疑の念を映しているに違いないから。おかしな私のおかしな態度に、その眉をひそめているに違いないから。
故に私ができることは、ただ黙って俯き、彼の手が私の腕から離れてくれるのを待つことだけだった。
けれど、長く続き過ぎたその沈黙に私の心は押し潰されそうになっていたようで、それを破ったのは彼の呆れた声ではなく、私のみっともない嗚咽だった。
「……」
ぼろぼろと大粒の涙を零し始めた私に、彼はさっと手を離し、代わりにポケットから白いハンカチを取り出して私の頬にそっと押し当てた。
ああ、終わってしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。
そう思いながら、しかし涙は止まってはくれなかった。私の涙は私の言葉よりずっと饒舌で、ずっとみっともなかったのだ。
自分の感情が、行動が、コントロールできない。心臓は未だに煩く、眩暈はより強くなっている。
私はどうしてしまったというのだろう。
ピッ。
その瞬間、この場に似合わない電子音が鳴り、私は思わず顔を上げた。彼は私の頬にハンカチを押し当てたまま、もう片方の手でホロキャスターを取り出していたのだ。
一体、何処に連絡を取ろうとしているのだろう。怪訝に思った私は、彼が紡いだ言葉に息を飲んだ。
「挑戦者シェリー、水門の間にてズミに敗北しました」
訂正の猶予を許さずに切られたホロキャスターを、私はただ茫然と見つめていた。彼がそんな嘘を吐く理由を見つけられず、私はいよいよ困惑した。
この人は一体、何をしようとしているのだろう。敗北、という言葉で時間を稼いでまで、私が此処に留まらなければならない理由が、彼にはあるのだろうか。
そんな彼は、何食わぬ顔でホロキャスターとハンカチを仕舞い、私の手を取り歩き出した。
「少し、話をしましょう」
「え、」
「貴方のことを、聞かせてください」
私は嗚咽を押し殺して、小さく頷くしかなかった。まだ、顔を上げて彼の目を見ることができない。
2015.7.18
(私は誰になっていくのか?)