B1:雨染めゼリービーンズ

ミアレシティに、雨が降り注いでいた。

「雨が美味しいお菓子になったらいいのにって、思ったことありませんか?」

その言葉に、彼は読んでいた料理の雑誌を閉じた。
私を見据えた目は鋭く、その奥にある青は宝石のように輝いていた。柔らかな、少し癖のあるブロンドが、彼が僅かに傾げた首の動きに従うようにさらりと揺れた。
世の中には、息を飲んでしまう程に美しい人間というものが確かにいて、私の場合、それがこの人なのだ。
その射るような目で見つめられることに、私はまだ慣れることができずにいた。

彼はとても厳しい人だ。ポケモンリーグ四天王として、また、一流レストランのシェフとして、日々の精進を決して怠らない。
オフの日でさえも、彼はポケモンと料理のことを常に考えている。その手にある雑誌がその証拠だった。
私のように、休日だからとポケモン達と室内で遊んでいるような、そんなのんびりとした時間を彼は過ごしていない。私と彼との時間は、上手く交わらない。噛み合わない。

「ほう、例えば?」

けれど彼は時折、こうして料理とポケモンの厳しい世界から脱し、私ののんびりとした時間に身を委ねてくれることがある。
私のどうでもいい戯言に、絶妙な相槌で付き合ってくれるのだ。
そうした時、私の心臓は壊れたようにきゅうと音を立てる。勿論、そんな音が聞こえるはずがないけれど、確かに私の胸は痛みに軋んでいるのだ。
病気か何かかと疑ってしまうようなその心臓の軋みを、強い恋心だと自覚するまで、あまりにも長い時間があった。
彼に指摘されるまで、私は自身の胸の痛みを持て余していたのだ。私は相変わらず、どうしようもなく愚かな人間だった。けれど彼は、こんな私を選んだのだ。
私はそのことを、未だに少しだけ信じられずにいる。

「カラフルな飴とか、砂糖でコーティングされたグミとか。雪の時には綿菓子が降るんです」

「……貴方がそんなに甘味が好きだとは知りませんでした」

「全部を食べる訳じゃないんですよ。食べたい時に「雨」を待つんです。楽しそうでしょう?」

小さい頃に読んだ絵本の中に、そうしたカラフルな雨の降る世界があった気がする。
窓の外で振り続ける雨を眺めながら、私は童心に返ってそんなことを呟いた。空想の中で私の心は浮き立ち、雨の音が私の気分を少しだけ高揚させた。
この曇天からカラフルなお菓子が降って来たなら、それはそれは楽しいだろうと思ったのだ。私はそうした、決して実ることのない空想の中に身を置くのが好きだった。

すると彼はそんな私を見て呆れたように肩を竦めて笑い、そしてすくっと立ち上がり自室へと戻っていった。
すぐに薄手のコートを羽織って出てきた彼は、私の方に小さくウインクをしてみせる。
私は少しだけ腹が立った。美しい人はどんなことをしても様になるのだと、何もかもを持ちすぎていた彼を少しだけ妬んだのだ。私はそうした、愚かな嫉妬が得意だった。
けれど彼はそんな私の不機嫌な表情など意に介さず、片手を僅かに掲げてさらりと紡いだ。

「少し、買い出しに行ってきます」

その言葉に、私は冷蔵庫の中に入っていたものを思い出そうと努めた。
何がどれだけ入っているかを全て覚えている訳ではないけれど、それでも今日や明日の食事に困らない程度の食材は揃っていたような気がする。
何もこんな曇天の中、外に出なくてもいいような気がするけれど。
そう思いながら、しかし彼が一度決めたことを曲げない性分をしていることはよく分かっていたので、せめて同行しようかと申し出たけれど、彼はすぐに首を振った。

「貴方が来ては意味がない」

そう言って、彼はすっとその射るような目を細め、得意気に微笑むのだ。
私ははっと息を飲み、その後で釣られたようにクスクスと笑った。こうした笑みを浮かべる時の彼は、彼にとって楽しい何かを画策しているのだと理解していたからだ。
特に詮索することもなく彼を送り出し、何をするつもりなのかしら、と私はソファに身を沈めながら考える。

『雨が美味しいお菓子になったらいいのにって、思ったことありませんか?』
私の拙い空想は、彼のインスピレーションを刺激することができたのだろうか。
そんなことを思いながら、私は窓の外を見遣る。灰色の雲は、甘くも可愛くもないただの雫をミアレの街に降らせていた。

30分ほどで帰ってきた彼は、その小さな紙袋から何かを取り出し、キッチンに立った。
「何を作るんですか?」とは尋ねない。「手伝いましょうか?」とも言わない。
前者の質問は料理を芸術とする彼を侮辱するようなものであるような気がしたし、後者の申し出はむしろ彼の足を引っ張ることになると確信していたからだ。

彼がキッチンで何物かを作っている間、私は彼が読んでいた料理の雑誌を手に取り、少しだけ読んでみることにした。
真っ白の平らな丸いお皿に、まるで絵を描いているかのように美しい料理の数々が並んでいる。
食欲をそそられる美しさ、というものを通り越した何か、あまりの美しさにお腹が空いていることを忘れてしまいそうになる程のものがそこにあった。
白いお皿の上に広がる、前菜という名の芸術。彼が身を置いているのはこうした世界なのだと、あまりにも洗練され過ぎたその空間に息を飲まざるを得なかった。
少し目を通すだけのはずだったその雑誌を、いつの間にか私は食い入るように読み込んでいた。

この渦を描くチョコレートはどうやって作っているのだろう。この白いゼリーのようなものに埋め込まれた野菜の前菜は何という名前なのだろう。
栗のムースはどんな味がするのだろう。どうしてパスタにはこんなにも様々な太さや形のものがあるのだろう。
それら全ての疑問を、しかし私は決して声に出すまいと努めていた。
彼の専門分野に素人である私が質問を重ねるのは少し恥ずかしい気がしたし、教えてもらったところでしっかりと覚えていられる自信がなかった。
私の頭はとても残念な造りをしているのだ。彼の教授してくれた知識を、きっと私は直ぐに忘れてしまう。忘れたことを知られれば、彼はきっと悲しい顔をする。
それなら、分からないままでいい。将来的に彼を不快にさせてしまうようなことは、しない方がいいに決まっている。私の臆病さは今でも健在だった。

しかし、そんな私の思案が、とあるものによって遮られることになる。
ソファにもたれていた私の背後に立った彼は、何か小さなものを私の頭上に落としたのだ。

「え!?」

バラバラと鈍い音を立てて落ちてきた小さな粒に、私は驚きの悲鳴を上げる。はっと彼の方を見上げ、そして、息を飲む。
白いエプロンをかけた彼は、とても楽しそうにその目をすっと細めて私を見下ろしていたのだ。

「ほら、雨が降って来ましたよ。どうぞ好きな時にお食べください」

そんな冗談めいた言葉に、私は自分のスカートに落ちた小さな粒を拾い上げる。特徴的な弾力のあるそれは、透明なゼリービーンズだった。
1cm程度の小さなそれを摘まんで口に入れれば、適度な甘さとつるんとした食感が私の舌の上を楽しそうに転がった。
周りに砂糖をコーティングするようなことはしていないらしく、立てた歯はすんなりとゼリービーンズを割り、果汁の甘さを口の中に滲ませるに至った。
端的に言えば、美味しい。この上なく美味しい。……ああ、本当に、この人は。
私はクスクスと笑いながらその透明な雨を飲み込む。

「……やっぱり、お菓子に変わる雨は要りませんね。だって空が、ズミさんの作るお菓子よりも美味しいものを作れるとは思えないもの」

その言葉に、彼は驚いたように目を見開いた。
しかしその後、納得したように「成る程、それは確かにそうかもしれませんね」と得意気に肩を竦めて微笑む。
料理の腕を磨くことを怠らずに毎日を過ごしてきた彼だからこそ持ち得るその自信は、私にはあまりにも眩しすぎた。
そっとその射るような輝きを持つ目から視線を逸らし、スカートに落ちたゼリービーンズを拾っていると、私は不思議なことに気付いた。

「あれ? どうして全部透明なんですか?」

そう、落ちてきたゼリービーンズは全て透明なのだ。
彼ほどの腕なら、カラフルな色の付いたお菓子を作ることだって簡単にできたはずなのに、どうして色を加えなかったのだろう。
首を傾げた私の顎が、彼の伸びてきた手によりくいと上に向けられる。彼の射るような目と否応なしに視線が交わり、私の心臓が少しだけ跳ねた。

「私は、雨ではなく、泣き虫な貴方の涙が甘味になればいいと思っていた。……と言えば、貴方は笑いますか」

「!」

「涙に着色を施すことには、少し抵抗がありましたから」

……彼は、私の何もかもを知っている。
私が、彼のような不断の努力を続ける強い意志を持ち合わせていないことも、頭がよくないことも、臆病で卑屈なことも、泣き虫なことも、全て、知っている。
知っていて、それでも尚、彼は私の戯言を叶えるために透明な雨を降らすのだ。
恐れ多いと拒んだ時もあった。私はこの人に釣り合う人間ではないと絶望したこともあった。
けれど今の私はもう、この雨を拒まない。この甘い味を喜んでしまう私を、否定できない。

「ズミさんでも、そんなことを思うんですね」

「ええ、貴方の空想に染められたのかもしれませんね。……もっとも、貴方の涙はこんなにも甘くはありませんが」

まるで私の涙を飲んだことがあるような言い方に、私の頬が赤く染まる。その頬を彼の冷たい指がそっと撫でる。
その交わる視線を遮るように左手でゼリービーンズを口に含めば、彼はいよいよ肩を震わせて笑い始める。

2015.7.12
素敵なタイトルのご紹介、ありがとうございました!

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