雪上を転がる首

鋭く細めた目は、小さなハケと左手の指先にしっかりと縫い留められている。旅をするトレーナーにしては長く伸ばされているその爪に、鮮やかな赤が流れていく。
とても鮮やかな赤だね、と告げれば、ええそうでしょう、と得意気に返ってくる。
薔薇の花弁みたいだ、と煌びやかな言葉を選んで告げれば、動脈血みたいでしょう、と物騒な言葉に言い換えられてしまった。
左手の小指まで塗ったところで、彼女はハケを赤が映えるその指に持ち替えた。どうやら今度は右の爪を塗っていくつもりらしい。

「こちらはあまり、見ないでくださる? 左手で塗るといつも不格好になってしまうから」

親指の爪を慎重に塗りながら、彼女はこちらへ視線を向けることなくそう告げる。ごめんよ、と告げようとして……ふいに青年は思い付いた。

「……それじゃあ、ボクが塗ろうか?」

べちゃ。
順調であったはずのそれは、爪から赤を大きくはみ出し、つるりと滑って指の腹にまでその色を伸ばしていた。
指先を出血したかのような大惨事に、青年は勿論のこと、少女も「あっ!」と大声を上げる。

「もう! いきなりそんなことを言わないで。びっくりしちゃったじゃない」

「いや、そんなに驚かれてしまうとは思わなくてね。……それで、どうだろう? ボクに塗らせてくれるのかい?」

「……いいわよ。でも先ずはこの血塗れの指をどうにかさせて」

ポーチから取り出したコットンに、リムーバーを数滴垂らしたものでそっと指を包む。
するりと、トランセルが脱皮をするかのように抜き取られたコットンは、血の色を大胆に吸って鮮やかに染色されている。
もう一度、彼女は親指の爪を整え始めた。青年は今度こそ横槍を入れることなくそれを見守った。
くるくると手首を捻って仕上がりを確認してから、続きをどうぞとハケを差し出してくれる。小さなハケは青年の手に収まると、より一層繊細なものに見えた。

彼女の人差し指を取った。
旅をして、それなりに小さな怪我も経験してきているはずなのに、それでもその手はあまりにも綺麗で、あまりにも白かった。
シンオウ地方に降る、眩しい雪の粒を思い出させるその肌、そこから伸びる鋭い爪の上に鮮やかな花弁を一枚ずつ置いていく作業は、どうにも青年を緊張させた。
この上ない芸術がそこにあった。自分がその芸術の一端を担えることが、ひどく誇らしいものに思われてならなかった。

「薔薇というよりは、椿かな。雪の上に咲くのなら、あの花に例えた方がしっくりくる」

「ふふ、私もあの花は好きよ。断頭台の下で潔く首を落とすところなんか、特に素敵」

「ではもし君がその首を落としたら、ボクが持ち帰って育てることにするよ。雪に植えればもしかしたら身体が生えてくるかもしれない」

物騒な言い回しに物騒な言い回しで返してみる。そのやり取りをいたく気に入ったらしく、彼女は声を上げて笑い始めた。
「待ってくれ、動かないで」と言いそうになるのを堪えて、ハケをさっと引っ込めた。
今は指先の椿よりも、この至極楽しそうな大輪の花を目に焼き付けておきたかったのだ。

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