20度超の酩酊にどうか楽園の夢を見て

紅雨の翌日かそれくらい)

プラスチック製のコップに少しの水と大量の氷が満たされている。
食器を割った回数が5回を超えた頃、この家にある全ての陶器類を、割れないものへと買い替えたのだった。
淡いピンク色のコップの側面に生じた水滴が、まるで私の冷や汗であるかのような気まずさでゆっくりと滑る。
白く細い指の先、首を引っ掻いて傷を付けることさえできなくなる程に深く深く切られた爪。その上に水滴が落ちる。
マニキュアを塗ったかのように、その小さな爪はこの薄暗い部屋の中でキラキラと輝いていた。

「嫌」

小さな子供が駄々を捏ねるかのような言葉。けれどもあの遠く美しい土地ではそうした短い駄々さえも捏ねることが許されなかったであろう、その音。
昨日までの私ならきっと鵜呑みにしていた。私を望んでくれる彼女の傍にいられてよかったと、そうして変わらずこの懐かしい家へと通い続けていた。
けれども、違う。彼女には嘘を紡いだ認識がなかったとしても、それでもその「嫌」は彼女の本音ではない。そしてそうさせているのは他の誰でもない、私だ。

「だって……シアがいなくなったらどうなるの? シアが来てくれなくなったら、私はどうやってこの部屋から出ればいいの?」

「あのね、シェリー

「これから外に出なきゃいけなくなる時が来ても、私、貴方がいないと、」

「もういいんだよ」

よくない。いいはずがない。いいんだ。これが正しいことなのだ。
私を引き留める彼女の言葉はきっと私が言わせていることだ、思い上がるな。それでも私は彼女の言葉を疑いたくない、信じていたい。
私は驕っていた。私は驕ってなんかいない。このままでは彼女を殺してしまう。違う、私は彼女に生きてほしかった。そればかり考えていた。
私は、私は、私は。

『お前の話などしていない。あれの生き死にもあれの居場所もあれが決めることだ。お前に決定権があるとでも?』
混乱しかけていた私の思考を、昨日の言葉が正しいところへ押し戻してくれる。異常な表情で紡がれた異常な言葉が、私を正常なところへ置き直してくれる。
大丈夫だ、大丈夫。信じなければ。彼女の言葉ではなく、彼女自身を信じなければ。彼女を正しく見なければ。正しく、在らなければ。

「外には出なくていい。此処にいていい。窓も閉め切ったままでいい。ずっと変わらないままでいい。
大丈夫だよ、貴方を怖がらせる全てのものから、フラダリさんが貴方を守ってくれるから」

長い、沈黙が降りた。私はもう、何も考えないようにした。彼女の前でこれ以上迷ってしまっては、また同じことを繰り返してしまいそうだったからだ。
薄暗い空間はあまりにも静かだった。淡い耳鳴りが鼓膜を刺しかけた頃に、彼女の小さな「いいの?」という声が聞こえてきたので、私は、頷こうとした。

「私はもう、生きなくていいの?」

長い睫毛をふわふわと揺らすような、あまりにも緩慢とした瞬きだった。部屋が薄暗いおかげで、彼女の大きく見開かれた瞳に私が映ることはなかった。
夜の雲間から三日月が現れるような、ささやかな奇跡めいた笑みがそこに在った。あまりにも美しかった。綺麗だった。ただ綺麗だった。
だから私にはもう、肯定も否定もすることができなかった。

「分からない。私には、答えられない」

シアにも分からないことがあるんだね。……私みたい」

「……」

「でも、違うんだよね。私は貴方じゃない。私は貴方になれなかった。こんな私のいる場所に、貴方はちょっと似合わない。だからこれ、返すね」

冷たい指に私の手が取られる。「そこ」にのせられるものの正体に、私はもう勘付いている。
恐る恐る視線を落とせば、使い古されたモンスターボールの中、いつも彼女の傍にいたサーナイトが、何の感情も映していない瞳をこちらへ向けている。
これも、と付け足すように落とされたのは、綺麗なビー玉のようなものだった。
サーナイトとの絆の象徴を呆気なく手放した彼女は、いつもの眠たげな目に戻り、ぽつりと告げた。

「私の行く地獄にその子は要らないよ」

20度超の酩酊:シェリーのデフォルト名の由来の一つである「シェリー酒」のアルコール度数より

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