ドアを開けると、懐かしい靴が2足並んでいた。どうやらイッシュの友人は予定よりも早くこちらへ到着したらしい。
その隣に靴を並べ終えるのと、パタパタという軽快な足音が聞こえてくるのとが同時だった。
「おかえりなさい、あなた!」
は? という素っ頓狂な声を上げてしまいそうになるのをぐっと堪えて、眉をひそめるだけに留めておく。
リビングに通じる扉を開けた彼女は、何処で調達してきたのだろう、ひらひらとした布のあしらわれたクリーム色のエプロンを身に着けていた。
加えて、料理などついぞしたことがないくせに、立派なフライ返しを右手に握っている。それは先日、俺がコガネシティのデパートで買ってきたものであるはずなのだが。
煮え立つのではないかと案じてしまう程に顔を真っ赤に染めたコトネの背後で、ソファにどっかりと腰掛けたトウコが足を組み、笑いながらそれを眺めている。
成る程、お前の差し金だな。そう察して思わず目を細める。俺の呆れは正確に彼女へと伝わっただろうか?
馬鹿なことをやっていないでこれを冷蔵庫に入れてくれと、調達してきた食材を押し付けることは簡単にできる。
またとんでもない罰ゲームをさせられているじゃないかと、こうなる経緯を推測して発言すれば、きっとこいつはこの演技をすぐに終えてくれる。
あまりこういうことをさせないでくれと、真っ赤になったこいつの代わりに友人を咎めることだって、それくらいのことなら惜しまずしてやれる。
けれども「それでいいのか?」と悪魔が囁く。だから俺はその誘いに乗り、微笑んでそれを許してみる。
此処には気心の知れた友人しかいない。そして俺は、こいつ等のやろうとしていることを察してしまっている。
にもかかわらず、それをなかったことにしてしまうのはきっと「つまらない」ことだ。干上がってしまう程に暑苦しいおふざけも、彼女とならば許されるはずだ。
「……ああ、ただいま。出迎えありがとう。お前の顔を見るだけで一日の疲れが取れるよ。ところで、いい匂いがするな。もう夕食は出来ているのか?」
出来ているはずがない。夕食を作れるだけの材料の調達のために、たった今、俺が買い出しを済ませてきたところなのだ。
冷蔵庫に残っていたのは調味料とキュウリと豆腐だけ。そんなことはよくよく分かっている。
それに、もし冷蔵庫に食材があったとしてもコトネは料理などしないだろう。料理はどちらかというと俺の領分だ。故に冷蔵庫の中身だって、俺の方が詳しく把握している。
けれどもこれは「ままごと」であり、その全てを棚に上げて俺はそう尋ねる必要があった。そうすればこいつの顔がもっと愉快なことになると、期待したが故の発言だった。
案の定、こいつは零れ落ちそうな程に大きく目を見開いて、ぱくぱくと口を所在なく動かした。
これは面白いことになってしまった。そう思い、俺もソファの上にどっかりと腰掛ける友人のように笑わざるを得なかった。
さて、どう返してくる?
「う、うんそうだよ! しち、シチューを作ったの。温めればすぐに食べられるようにしてあるんだよ」
「そうか」
「すぐ御飯にする? それともお風呂を沸かした方がいいかな? そ、それ、とも……」
おや、と俺は思った。俺は出かけるときにこいつに「今日はシチューを作るつもりだ」と告げてはいなかったからだ。
にもかかわらず、何故こいつは俺が今夜作ろうとしているものを言い当てたのだろう?
偶然だろうか、と思う。シチューなんてメジャーな料理なのだから、俺の予定とこいつの思考が重なってしまうことだってあるだろう、とも思う。
けれども随分とめでたい気分になった俺は、その偶然に意味を見たくなった。そうだ、きっと「シチュー」だからなのだ。
俺の作ろうとしているものを言い当てるこの相手でなければ、俺は間違ってもこんなままごとをやらかさない。
お前以外の顔が真っ赤になっているところを見たところで、きっと俺の心は今のようには動かない。
「わた、私を、抱きしめてくれる?」
失敗した。こんなはずではなかった。笑うことを忘れるほどに、そのささやかな懇願が胸に刺さるとは思わなかった。
まあいいか、と思う。友人の冷やかしをあしらう方法ならごまんと身に着けている。
野菜と牛乳の入った袋を足元に置き、ほらと両手を小さく広げてみせれば、羞恥にだろう、泣きそうに顔を歪めてそっと凭れかかってきた。
熱でもあるかのように頬が熱かった。火傷しそうだ。
左手を背中に回し、右手で軽く頭を叩いてやれば、小さく、本当に小さく「ありがとう」と返してきたので、参ってしまった。
「さあ、そこの。これで満足か?」
リビングの彼女へと叱責の文句を紡いだつもりだったのだが、俺の目線は今までエプロン姿の彼女に隠れて見えなかった、もう一人の友人に釘付けになった。
小型のカメラを持った彼は、慣れない手つきでボタンをピッと押し、無慈悲な「録画終了」の電子音を鳴らしたのだ。
おい待ってくれ、それは聞いていない。
「これが新婚というものなのだね! ボクもこれを見て勉強することにするよ。協力をありがとう、シルバー」